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2009.08.20 愛の実る丘
愛の実る丘

 その丘の上は大地から切り離されて、空に浮かんでいるようだった。青い空と刻々と姿を変える晩秋の雲だけがそこにはあった。そして風は木々を揺らしながら気まぐれに吹いていた。
 晩秋のせいか畑に作物はなく、ただ茶色い土がむき出しになっており、傍らの手押しの一輪車は錆び付いて凍えていた。
 遠くに目をやると修道院の大きな建物が見えた。「マリアの家」と書かれた小さな看板を見ながら「何故かここには音がない」と、男は何気なくそんな風に思っていた。
男はここに「涙を流す聖母マリア像」があるという噂を耳にして訪ねてきたのだったが、この丘の居心地の良い静けさに包まれてすっかりそんなことは忘れかけていた。
 ふと周りを見渡して気が付いた。大きな木の下にひとりの年老いたシスターが立っていることに。男はその木の所までゆっくりと歩いて行って声をかけた。「こんにちはシスター」シスターは優しく微笑んで「こんにちは」と言った。長い年月を修道院で過ごしてきたのだろうか。彼女の瞳は神の慈愛に満ちていた。「なにをしているのです?」男は尋ねた。老シスターが天を指さすとその木が栗の木であることが分かった。「ああ、栗の木ですねシスター。でももう栗の実はありませんね」男はそう呟いて老シスターを見た。老シスターは男を優しく見つめると皺だらけの掌を開いて言った。「ほら、よく探せばまだ栗の実があるのです」そこには3つの小さな栗の実が確かにあった。「本当だ」男は地面に目をやったが、そこは落ち葉が敷き詰められているだけのように見えた。
 それから男は腰をかがめて落ち葉の上を探してみた。しかし、栗の実は見あたらなかった。「これで探すのです」老シスターは細い枝で落ち葉をかき分けた。「ほら、ありましたよ」そこには隠れた大地にひっそりと眠りかけようとしていた栗の実があった。男は同じように木の枝を見つけると落ち葉をかき分けた。やがて男は一粒の栗の実を見つけた。「シスター、僕も見つけましたよ。よく探せばまだあるんですね」老シスターは男を見て笑った。二人はしばらくの間そこでそうして栗の実を探していた。
男は落ち葉をかき分けながら思っていた。なぜ自分がこんな事をしているのかとても不思議だった。栗の実をひと粒見つける度に男は少年に返っていくような気がしていた。そしてこの修道院の生活がとても貧しいものであるのだろうと勝手に想像していた。
 やがてシスターが口を開いた「せっかく生まれてきたのだから、探しても食べてあげなきゃね」その言葉に男は我に返った。「この老シスターが栗の実を拾っているのは貧しいからではない」心のどこかで声が聞こえたような気がした。
 この晩秋の大地の下には自分自身がいる。そして世間という落ち葉の下に隠されてしまった名も知れぬ人のささやかな営みがある。その誰もが見過ごしてしまいそうな儚い世界を、老シスターは細い枝の先で耕す。誰も知らない、そして誰も見ていないこの丘の上で、ただ黙って小さき命を探している。「私たちは偉大ことをすることは出来ません。偉大な愛で小さなことをするだけです」いつか本で読んだマザー・テレサの言葉を男は思い出していた。今日まで生きてきて、「愛は目に見えない」ものだと男は思っていたのだったが、その老シスターの栗の実を拾う姿に愛を見たのだった。そして、老シスターは「そろそろ中に入りましょうか?」と男に言って歩き始め、男はその後を追って聖堂の中に入った。
 老シスターはお祈りの書いてあるカードを男に手渡して言った。「さあ、今日はあなたのために祈りましょう」目の前には地球の上に両手を広げて立っている聖母マリアの像があった。「これが涙を流す聖母マリアでしようか?」男が尋ねると、老シスターは優しく答えた「これはあがないのマリア様ですよ。両手を広げてみんなをお守りくださっているのです。しかし、今は涙を流さないのです」それから二人は祈りを捧げた。
 そして男は修道院のある丘の上で老シスターに別れを告げた。その手には3つの栗の実が握られていた。愛の実る丘に吹き渡る風はいつしか止んで、言いようのない澄んだ空気があたりいちめんに溢れている。
 男は坂道を下りながら思った。そして「愛は目に見えるのだ」と小さな声で呟いた。






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