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僕はいつも自分で詩や戯曲を書きながら不思議に感じることがある。それは「考えて書く」ということがないからだ。ではどうやって書いているのかといえば、頭の中で映像化されたものを観ながら書いているのだ。そう考えると僕はパソコンで文字を打つオペレーターのような存在なのかも知れないなどとも思う。そして、この映像は映画のように鮮明で詳細である。登場人物だけでなく、それを囲む周囲の人間や背景までもが現実のように見える。つまり、無意味に通り過ぎる通行人もいれば、意味無く落ちている煙草の吸い殻まで見えるのだ。しかし書くときに迷うことはない。なぜならその映像のなかで何を書くべきなのかは物語そのものが教えてくれるからだ。例えば書くべきことはカラーで、書く必要のないものは白黒のように感じる。そしてこの映像はストップさせたり、見たいところをズームすることも出来る。映像は時間軸に沿って流れるのだが、登場人物の過去を知る為に映像が始まる以前まで巻き戻すことも出来るのだ。

このように書くと、頭がおかしいと思われるかも知れないが事実だから仕方がない。しかし、もっと不思議なのは書いている本人にすらその展開が分からないことだ。そしてどこでこの話が終わるのかも見当がつかないのである。まるで「映写機を回す神」がいるような感じだ。そしてその神は詩なら突然映写機を回すし、戯曲なら、まず最初に映画の予告編のようなダイレクト版を見せてくれる。そして僕が、面白そうだ!と思ってパソコンに向かうと本編が始まるのである。それはまったく新しい映画を観るときのように新鮮であり、その物語に感動もする。やがてその映画が終わる頃には原稿が出来上がっているという寸法だ。

今年の正月もダラダラと飲んだくれて過ごしていたのだが、1月4日の朝に目が覚めてコーヒーを飲みながら煙草を吹かしていると、突然ダイレクト版の映像が頭の中に映し出された。慌ててパソコンを開いて電源を入れた。その時は「これはまずい・・・」と正直思った。まだ4日だし、今日も飲んだくれるつもりでいたからだ。しかし映画は始まってしまっていた。多少風邪気味であったのと、連日の酒の飲み過ぎで疲れており、原稿など書きたくなかったのだが仕方がないので諦めて書き始めた。やがて1日で400字詰めの原稿用紙に換算すれば約50枚程度の戯曲が完成してしまった。まあ、いつもこんなふうにして、いつの間にか原稿は出来上がってしまう。

自分のことは自分が一番よく知っていると言うが僕も同じである。冷静に考えても、少しひいき目に考えても、僕には1日で原稿を50枚も書き上げる力はない。なんの素地もないし、原稿の書き方もよく知らない。それが現実だ。でも幸運なことに「映写機を回す神」は、いつも僕の傍にいる。それだけは確かだ。だから僕は心の中を真っ白にしてスクリーンのように、映し出される映像を待っていればいいのである。そしてそれを文字にして書くだけでいいのだ。いつも詩や戯曲は自分より大きな何かが書かせてくれている。そんなふうに僕は思っている。しかも、「映写機を回す神」は、魚釣りが大好きなので、釣り場にいるときによく降りてくる。まあ、今は冬なので仕方なく自宅に降りてきてくれたのだろうな。今年もこの神は僕の傍にいる。そのことはとても有り難いことだ。しかし、いつの日にかどこかへふらりと行ってしまうかも知れない。だから、僕に唯一出来ることは、真っ白なスクリーンを汚さないように常に心の掃除をして、謙虚に慎ましく日々を過ごすことぐらいなのだが、実際は飲んだくれで釣りばっかりして怠惰に今年も過ぎていくのでしょうなあ・・・。

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