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2012.06.21 人それぞれ
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僕は、大正元年生まれの祖母に育てられたせいか、同年代の人よりも考え方が古いという傾向が強い。三つ子の魂百まで。の例えのごとく、今でもその厳しい教えは自分の心と体に焼き付いている。僕が幼い当時、何かする度に祖母は怒鳴りまくったし、外の真っ暗な小屋に閉じこめられることもあった。考えてみれば僕は祖母のどんな不条理な怒りにも「何故?」という問いかけをほとんどしなかったように思う。時には祖母自らその理由を説明する場合もあったが、ほとんどはそうではない。要するに「駄目なものは駄目!」という絶対服従的なものであった。学校の校則なども良い例で、意味不明な規定がずらりと並んでいて、論拠を説明できないものも多数あった。そんなふうに感じていたのは僕だけだろうか?

古い人間のせいなのかどうかは定かでないが、最近、少し気になることがある。それは「人それぞれ」という便利な言葉の氾濫である。戦後は日本人の団結力を崩壊させるために修身の教科書が消え、戦勝国に都合の良い個人主義の優越を押しつけられてきた。と語る識者も多いのだが、本当のところは僕のような軽薄な知能では分からない。しかしながら、「人それぞれ」という言葉には何故か全てを包み込んでしまう魔力を感じてしまう。何となく包容力があり、他者に対する配慮を感じるのだ。しかしその一方では、どことなく寂しい感覚も覚える。

仕事柄多くの人と話をする機会があり、議論などをすることもあるのだが、「人それぞれ」という言葉が持ちこまれた途端に議論は不毛化してしまう。これを少し難しく書けば「価値相対主義」という言葉が見えてくる。要するに「人間の思考は主観的であるがゆえに、好みや価値観に相違が生じる、そうなのだからお互いの意見は正当である」ということなのだ。僕の説明は正確なものではないかもしれないが大きく外れてもいないと思う。もっと単純化して言えば、「絶対に正しいという事柄は存在しない」という考え方であるのだから「人それぞれ」なのだ。換言すれば、「お互いの相違を認め尊重する」という視点が存在する訳だ。なので議論などして何らかの結果を出す必要もなく、最終的な答えはないのであろうし、出す必要もないのだろう。まあ、「絶対に正しいという事柄は存在しない」という立場なのだから議論の余地もないし、それ故に議論など不要で不毛なのだとも言える。まあ、少なくても間違った判断からは逃れられるし、「それぞれ」自体が価値観を持ってしまう。

僕はこのような思考パターンや主義には反対しないが、それが及ぼす弊害はあるのだと思っている。では、怒鳴りまくる祖母のような厳格で不条理なまでの善悪の区別が最高なのかと言われればそうでもない。しかし、そのような絶対的で普遍的な価値観も必要なのだとは考えている。例えば、震災の時、駅の階段に礼儀正しく座っている日本人を海外のメディアが賞賛したことがあった。「日本人は緊急時に於いても礼儀正しく冷静な判断の出来る世界でも希有な民族である」といった内容だっただろうか。これは礼儀正しさではなく、日本人の普遍的な精神文化のなせるわざであったのだろう。「価値相対主義には弊害がある」と書いたが、僕の日常を振り返ればそれを容認している側面も多い。このことは自己矛盾であると思うが僕の中ではバランスを保っているから不思議だ。いくら世の中の風潮が個人主義的で価値相対主義を便利に使っていても、日本人の心の中には僕たちを日本人たらしめている不変の価値観が歴然としてあるのだ。それが先に述べた震災時の行動にも表れているのではないだろうか。

話は変わるが、先日「11.25自決の日~三島由紀夫と若者たち~」という映画を観た。ここでは三島事件に対する私的な見解は省略するが、個人的には敬愛する文学者のひとりであることは間違いない。しかしながら、三島由紀夫が現代人に残した問いかけを無視することが出来ずにいることも事実である。彼が守ろうとした「日本」や「日本人の文化」とはいかなるものだったのか?誠に私的な戯言になってしまうが、僕が思うにそれは、戦前や戦後を通じ、いかなる精神的、文化的抑圧にも屈しなかった日本人の精神性であると思う。これもまた幼稚な頭脳では観念的なことしか書けないのだが、絶対に消えることのない「民族的普遍性」のことなのだろう。価値相対主義とは間逆の絶対的な日本人の精神性。例えば廃止になった修身の教科書に出てくるような、親孝行や親切、勤勉、真面目、嘘をつくな、友情を大切に、人を欺くな、正直、礼儀といった多様で伝統的な精神文化の共有ことである。修身の教科書は軍国主義を増長させるという方もいるのだが、それが軍国主義とどのような相関関係を持っているのか僕には判断できない。しかし、修身書を読んだ感想としては、述べられている内容に正当性を感じた。換言すれば内容を否定する論法が見あたらないし、否定する要素を見つけられなかったのだろう。この「正しさ」を感じてしまう僕の中には文頭の祖母の教えがベースにあるのかも知れないし、日本人たる血がそう思わせるのかもしれない。

どんなに資本主義経済が発展し、個人主義や価値相対主義が台頭しても、日本人の中には確かな精神文化が根付いている。そんな風に感じてしまう。人間以外の大きな力、そこに畏敬の念や畏怖の念を感じ、それを大切にしているところにこそ日本人の日本人たる源流がある。まあ、釣りが好きとか嫌いとか、酒が好きとか嫌いとか、取るに足りない価値観の相違に関してはなんら問題視していないが、善悪や日本人の精神文化を真っ向から否定するような価値相対主義は、やがてその相対的であるが故の限界と矛盾を生じるであろう。「人それぞれ」とても公平で他者に干渉しない便利な言葉に、現代社会を読み解く鍵があるような気がする。まあ、その論理も人間社会における人間が人間に対する価値観の話なのだから、誰にとっての価値であり、誰にとって都合の良い価値観であるかは限定的になってしまう。更に越境的な見地からすれば善悪も答えもないのだろうが、いずれにせよ人間社会の中で暮らし、そこから脱することの出来ない庶民のひとりとしてはそう思うのである。

人間はそれぞれの主観によって思考し、価値基準が形成される。故にその価値観は相対的であり、絶対的な善悪も、その論理上では生じない。しかし、絶対的な善悪の基準を人は必要とするであろう。何故なら人は集団を形成しながら生きる形態の中に実存している。その集団における自由の定義が、現段階の社会構造からすれば、絶対的な善悪の基準のうえに形成される以外に成り立たないとも思う。「人それぞれ」「他人は他人」「自分は自分」一見して物わかりの良さそうな言葉は楽でいいが、それを全てに当てはめて考えることは危険である。「駄目なものは駄目!」理屈も知らされず、頭ごなしに叱られていたあの頃の不自由感がなぜだか愛おしく感じる。そして、祖母が他界して以来、また元の馬鹿ガキに戻ってしまうのではないかという不安も少なからずあることは否定しない・・・。


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