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僕の好きな映画の中に、大人の恋を描いた「メッセージ・イン・ア・ボトル」という映画がある。この映画は公開されるとチャート1位を獲得し、「マディソン郡の橋」を越える大ヒットとなったから観た人も多いかも知れない。

しかし、観ていない人のためにザックリとあらすじを・・・シカゴの新聞社で調査員として働くテリーサ(ロビン・ライト・ペン)は、休暇中の海岸でビン入りの手紙を拾う。そこに書かれていたのは、いまは亡き妻に贈られた愛のメッセージ。さまざまな手がかりからビンを流したと思われる男性をつきとめたテリーサは、彼ギャレット(ケビン・コスナー)を訪ねてノースカロライナへ。手紙を見て来たことを切り出せないまま、ギャレットと愛を深めていく。しかし、ついにギャレットが手紙の件を知ってしまう日が来る。といった内容だ。

まあ、個人的には「マディソン郡の橋」の方が好きなのだが、この物語も中々いい。恋愛の構図としてはこうだ。ギャレットという男が亡き妻のキャサリンにあてた手紙を瓶に詰めて海に投げる→そしてそれをテリーサという女が海岸で偶然拾う→恋に落ちる→しかし、その男は亡き妻のキャサリンことを忘れられずにいる=葛藤!ということなんだな。

物語の中でギャレットとキャサリンはまるで恋人のような時間を過ごし、お互いをとても気に入っているのだが、ギャレットの心の中にはいつも亡き妻のキャサリンがいる。要するにギャレットの愛する女はこの世の人ではないわけだ。良き想い出のままそこに存在しているキャサリンは不動の地位を得ている。これが問題だ。良き想い出の中に住む恋人。これは厄介だ。要するにギャレットとキャサリンの間にある関係は生きている者が亡くなった者へ寄せる一方的な想いであり、ギャレットが愛し続ける限りキャサリンは永遠に不滅の存在なのだ。片方だけの想いだけで永遠に続く愛。これは片想いだった恋がいつまでも忘れられないのに似ている。しかも相手が死んでいるのだから、愛想をつかして別れるようなことも起きない。このようなギャレットとキャサリンの不滅の関係の中に挑む女がテリーサなのである。

余談になるがギャレットを訪ねたキャサリン役の女優ロビン・ライト・ペンは美人だ。いや、好みだな。いや、役柄がいいのかもしれない。どこか健さんを待ち続ける健気な倍賞千恵子のような雰囲気がある。しかも、浜辺を歩くキャサリンのタイトなワンピースが良い。上半身の濃紺がボディラインに沿ってグラデーションしながら足元に向かって色を失ってゆく。その衣装はこの先の二人の道行きを物語っているようで美しくも儚さが漂っている。と、まあ、それはいい。

この映画では現世での愛を封印したギャレットが、再び愛することに目覚める映画でもある。ギャレットはやがてテリーサとの恋に生きる決心をするのだが、それを成就させたのは「待つ」という時間だったし、テリーサの「一途さ」でもあった。多くを求めず、それでいて決して引かない心の強さが彼女にはある。そこのところの微妙な関係こそがまさに「大人の恋愛」なのかも知れない。

要するに大人はどんなことにも「最適解」を持っているのだ。安易に答えを出したり、結論を早まることをせず、「現時点で最も良い答え」に対して心を開く余裕こそが大人の智慧なのかも知れない。考えてみれば人生にはうまくいかないことの方が多い、結果や結論、または正解が欲しいのに見つからない、そんなときがよくある。しかし、いつもその都度の最良の答えはあるのだ。それが「最適解」なのだろう。僕はこの言葉を知ってから、よくこれを使うようになったし、ストイックな性格でせっかちな自分自身の心を治めるのに役に立っている。決めなくていい、正解を急がなくていい、いま出せる答えがいまの最高の回答だ。これはとても楽である。しかし、何でもかんでもそうはいかないのが辛いけど・・・。

この世を見渡せば、賛成と反対のプラカードを持った群衆が主義主張を唱えながら対立し、罵倒したりされたりしながら時には暴力だの戦争だのなんてことが日常茶飯事だ。時には「何も決めない」という選択肢があってもいいし、お互いに譲歩した中で見えてくる「最適解」に満足することも必要なのかも知れない。と、まあこの話は脱線だな・・・。

自分の心が誰かに向かって開かれる時間を待っているギャレット。そして、相手の心が開かれるのを待っているテリーサ。心の中の微妙な動きが感じられるストーリーは秀逸だ。しかし!ラストには納得いかない。ラストのシーンは嫌いだ。もう何十回も観ているのだが、ラストは観ないことにしている。しかも何度も観ているうちに変な妄想にもとりつかれた。例えば、ボトルに手紙を入れて海に投げ入れた男がケビンコスナーではなく、髭の生えたメタボなオヤジだったらと考えたらなんとなくやるせないし、手紙を拾った女がロビン・ライト・ペンのような美女ではなく、ヒョウ柄の服を着た大阪のオバチャンだったしたら・・・などと、ラストシーンへの不満が物語そのものを否定させるのだ。それほどラストは衝撃的だった。

それから僕は、「メッセージ・イン・ア・ボトル」という題名を見て自分の仕事のことを思った。日々、詩を書いていると、それこそボトルに手紙を入れて海に投げ入れている気分になる。誰かに届くのか?届かないのか?それは分からないのである。それでも日々海に投げ込まずにはいられない。せめてそれを誰かが読んでくれれば有り難いし、出来れば、拾ってくれる人はヒョウ柄の服を着た人ではないことを祈りたいが・・・こちらも・・・ケビンコスナーではないので・・・仕方ないですなあ!

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