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「人生は退屈」そんな言葉を若者から聞いたことがある。いや、大人からもやはり「退屈・平凡・つまらない」という言葉を聞いたことがある。そのせいもあってか、挨拶代わりに「何かいいことない?」とか、「面白いことない?」とか会う度に尋ねてくる人もいる。僕は生きることほど面白い遊びはないと考えているし、別に探さなくても充分に楽しんでいるから、「いっぱいあるでしょ!」としか答えられない。しかし、どう考えても明日をも知れない僕のような人間より、彼らの方が優秀だし恵まれているように思うのだが、彼らはそんなに退屈しているのだろうか?そして何故退屈なのかもよく分からないのである。

僕は、「女性が夢中になれるもの」が何であるかを知らないが、男に関していえばこんな話しがある。むかし、僕の敬愛する小説家で釣り師の開口健が、「結局、男が夢中になれるのは遊びと危険である」と、著書の中でニーチェの言葉を引用していたことがあった。それにはまったく同感である。しかし、現代では「遊び」はどこか後ろめたく、「危険」は避けるものとして位置づけられているのではないだろうか。そしてこれらを避ける為の手段を教えてくれるのが教育なのかもしれない。どれを取っても平均的な人間で、勤勉で真面目、社会の一員として役に立ち、平穏無事に人生をまっとうする。そんな基本的な方程式を幼い頃から強制的に伝授されるのだ。換言すれば「リスクの回避」を学ぶのである。しかし、それを学んでもやはり「遊びと危険」の世界に戻ってくる男たちがいる。そして予想通り敗残者となる者も出てくる。しかし、その一方でリスクを避けていては体験できない人生の面白さを体験する者も出てくる。

僕の主観的な意見なのだが、「退屈・平凡・つまらない」という感覚は、「ノーリスク至上主義」を前提として生きることを選択した挙げ句の副作用であるとも感じている。「ノーリスク」とはいえ、現実にはどんな人生にも必ずリスクはあるものだ。しかし、極端にそれを避けることだけを選べばその弊害もある。もしも、「結局、男が夢中になれるのは遊びと危険である」という言葉が当を得ているとすれば、その遊びには危険が伴うし、危険にはどこか遊びが内包されていると言わざるを得ない。そうでないなら真の遊びとは言えず、真の危険とも言えないだろう。そう考えると「ノーリスク」という安全な生活は、男の本能に相反する方程式なのかもしれないとも思える。最近は「草食男子」などという言葉が地位を得ているが、気弱?消極的?ハッキリした意味は分からないが、何となくマイナスなイメージを受ける。その草食が注目を浴びるということは、元来、男子は肉食であるという観念があるからだろう。しかし、彼らは好んで草食になったのだろうか?それは分からないのだが、見方を変えれば、争いを好まず、冒険もしないことを良しとする風潮が彼らに草食であることを強要したのかもしれない。青白い顔をして気力も気迫も感じられない男たちに出会う度に思うことは、彼らに対する哀れみではない。彼らを狭い箱に押し込めた「何らかの作為的なシステム」に対する憤りである。

極言すれば「退屈・平凡・つまらない」というこの意見は正当なものであるし、彼らがそんなふうに感じていることに、僕は希望を見いだすことが出来る。要するに彼らの中には、満たされない欲求がある。誰もが「何かが違う!」と感じているのだからいたって健全。反対にそれすら感じなくなる方が問題である。だからといって、無闇に「遊びと危険」に身を投じることを肯定しているのではなく、習慣と惰性で、多少のリスクも嫌い、何もしなくなると楽しみもまたやせ細るのではないかと言いたいのだ。まあ、何ら不満を感じない人だっているのだから、そのような方は今のままで充分に満足なのだから心配はない。しかしもしも、いま自分が「退屈・平凡・つまらない」と痛感しているのなら、そんな無駄な我慢はしない方がいいのではないかとも思うのである。しかし、それには条件がひとつだけある。それは「リスクを100%自分で背負う」という断固たる意志だ。それは当然ながら、家族も含めた他者に迷惑を掛けないという節度も同時に持つことを意味している。もしもそれが無理なら我慢するしかない。ただし、意志を持って行動しても自分の満足する結果が得られるとは限らない。更に不満足な感情が増幅することもあるだろう。しかし、他人の決めた人生を歩むよりは、自分で決めた人生を歩む方が納得がいくし、思うようにならなくても納得するしかないのである。

「結局、男が夢中になれるものは遊びと危険である」これを、とても魅惑的な言葉に感じるのは僕だけだろうか?遊びも危険も何かの一部に存在しているのではない。人生そのものがそれを楽しむステージなのだ。自らリスクを背負い、与えられた箱を抜け出すとき人間はもっと自由に輝くことが出来る。人生をまっとうするということは、限りある命を楽しむことと同義語だ。「楽しむ・遊ぶ・面白い」この言葉に肩身の狭さを感じることはない。たまに誰かに「人生は遊びだ!楽しめばいい!」などと言うと、不真面目な奴と思われて鼻で笑われたあげく、相手にされなくなる場合も生じるが、それも別に気にすることはない。少なくとも、僕が生きる戯れの人生の隣にはいつも「遊びと危険」がある。詩人になることも、会社を辞めて世捨て人になることも推奨しないが、たまには、リスクを背負いながらもそれを楽しみ、徹底的に遊ぶことの出来る人生の醍醐味を味わうのも悪くない気がする。

リスクだらけになると、それもそれで嫌になりますが・・・。
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