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仕事柄、人間を観察するという癖がある。しかしながらいくら観察してもよく分からない。もちろんその時々の面白い事例には出くわすことも増えるのだが、個人というレベルになると、「その人がどんな人なのか?」などということは、分析をしてもよく分からない。

自分を省みて思うのだが、誰もが相手に対して「あの人はこんな人」というレッテルを貼っている場合が多い。まず第一印象から始まり、交流する中で様々に相手を分析していく訳だが、何年付き合ってもその人の「本当の姿」などというものに出会うことはない。乱暴な言い方をすれば「本当の姿」や「実態」などというものはないのかも知れないと最近は思っている。

僕の経験上の話しだが、不思議なことに第一印象が良い人ほど後で「こんな人とは思わなかった」などということになるし、その逆の場合もある。要するに、自分では相手を分析しているように錯覚しているのだが、実のところそれは「単なる思い込み」に過ぎなかったりするのだ。では何故、印象の良い人ほど後で幻滅してしまうのだろうか?それは簡単な理由のように思う。印象が良ければその人に対する「期待」が大きくなるのだ。ここで言う期待とは、換言すれば「自分の欲求」である。相手に対して期待が大きければ、期待通りにならない不満も比例して大きくなる。例えば10人の友人が全員、自分のお願い事に手を貸してくれなかったような場合でも、その10人に対する自分の不満は同じではない。結果が同じでも心情的には大きく違うのだ。その10人の中に、自分が期待していた人が1人いたとすれば、その人への幻滅は大きいだろう。残りの9人はさほど悪く思われないだろうが、その1人に対しては激しい嫌悪感を感じるだろう。まあ、こんなふうに思っているのは僕だけなのかも知れないけどね・・・。

まあ、要するに、自分がしている「あの人はこんな人」という分析はまったく当てにならないということである。しかし、数十人、数百人、誰についても「こんな人」という印象を誰もが持っているのは確かだ。仮にそれが「自分の好き嫌いや気分次第」で相手に貼ったレッテルであったとしても「あの人はこんな人」という感覚は在るのだ。そしてある意味で「こんな人」という相手に対する分析の中には、自分の「欲求や願望」が大きく作用しているともいえる。それは、「こんな人であって欲しい」という妄想の産物なのかも知れない。

自分自身もそうなのだが、「こういう人だからこんな判断をするだろう」という思い込みがある。要するに「期待」するのである。これは予測や分析などではなく「自分の欲求」なのだ。自分のいい加減さをさらけ出すようで気がひけるのだが、僕の判断基準は何事も「好き嫌いと、その場の気分次第」であることが多い。自分なりの哲学や思想などというものを持っているように普段は錯覚しているだけで、結局は「好き嫌いと、気分次第」により、答えは左右される。思えば、そんないい加減な人間でいられるのは、責任も立場も無い状況に自分が身を置いているからかも知れないんだけどね・・・。

むかし、「私は印象が悪くいつも損をしているので、どうすればいいですか?」と質問を受けたことがあるが、「気にする必要はない」としか答えられなかった。相手が自分に抱くイメージも、自分が相手に抱くイメージも、どれも実態を分析して把握したものではなく、他者に対する想像であり、妄想であり、欲求であり、期待でしかない。勿論、個性もあるし、それぞれが違う人間であることは確かなことだが、「人間なんてみんな同じ」であるという印象も棄てきれない。相手に「この人はこんな人」というレッテルを貼った瞬間から、相手に対する公平な眼差しは曇る。そして客観的な観察や分析も不可能になる。

良いことだけなら問題はないのだが、相手と喧嘩や言い争いをした場合などは一方的に「剥がせないレッテル」を相手に貼り付けたくなるものだ。そしてその人は永遠に「敵」と見なされることになる。自分自身にも善い部分や悪い部分が混沌としているのに、相手にはお構いなしに善悪のレッテルを貼る。世の中が便利になって、宇宙に行ける時代になっても、人間関係が単純になることはない。どんな相手と向き合うときも「この人はこんな人」というレッテルを貼らずに、その時々で迷ったり、困ったりしている人間性を愛することが出来るようになりたいものだ。相手に不満を覚える時こそ、自分の我欲を正すべき時なのかも知れない。などと、僕が書いても説得力はまったくないだろうけどね・・・。
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