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2012.03.23 釣り師の血
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僕は物心ついた頃から釣りをしている。もう40年以上になる。しかし考えてみれば釣りというのは勧められて始める遊びではない。釣りをする人の血の中にはもともと「釣り師の血」が流れている。その血が河やら海やら湖やらと、世界中の水場へと釣り師を誘う。なので、釣り師でない方は釣りなどする必要もないし、何が楽しいのか理解できなくて当然なのだ。僕も以前はよく人に釣りを勧めたり、教えたりもしたが、今はもうそんなことをする気はない。まあ、教えて欲しいとか、連れて行って欲しいというお願いもたまにはあるのだがそんな気は毛頭ない。まあジャンルにもよるが、これは基本的に孤独な遊びなのだし、長年かけて学んだ釣り技は他人に伝授できるものでもない。孤独に釣行し、孤独に学ぶ。これがいい。しかも自分の中に釣り師の血統がなければ釣りは続かない。何故なら以前、僕に勧められて釣りを始めた友人の100%がもう釣りをしていないからだ。早い奴は1日で飽きるし、良くて半年や1年程度。これは彼らが飽き性なのではなく先にも述べたように血のせいである。

僕は釣りから多くのことを学んだ。地上でものを見るように、僕は河の中を同じくらい見てきた。そこには太古から変わらない命の営みがある。大袈裟に言えば、釣りをする行為の中には生きていく上で必要な学びがすべて備わっている。勿論、算数や英語は教えてくれないけどね。よくよく考えてみれば他者の生命を奪い、また自分以外の生命と知恵比べや我慢比べをする遊びは少ない。ハンティングとか・・・あとはなんだろうか。よく、「釣りは残酷な趣味だ」という人がある。ことにスポーツフィッシングでは釣った魚をリリースするから、「食べないのにもてあそぶのは最低だ」などとも非難される。その気持ちも分かるが、スーパーに並んでいる魚の切り身も肉のパックも刻まれる前は生きていた。誰かが殺す役割を引き受けているから、食べる方は心が痛まない。釣り師から言わせれば、この心理にもまた多少問題があるように感じる。

人間はだれしも他者の生命を戴いて生きている。そんな意識があろうがなかろうがそれは事実。ベジタリアンは知らないけど・・・。いつも自分が手を下す側にならないだけで、それを誰かがやってくれていることに変わりはない。僕は釣りをするとき出来るだけ魚の生命に敬意を払っているつもりだ。たまに指に針がブスッ!と刺さることがあり血が吹き出る。そんなときは「こんなに痛いんだな」などと想いながら改めて魚に感謝する。そう思うのなら釣りなどしなければいいのだが、そうはいかないのが釣り師の性なのである。「釣り師の血」と書いたが、それは換言すれば人間の狩猟本能の残りカスかも知れない。昔は楽しむためではなく勿論食べるために猟をしたのだろうが、現代となっては一般人が狩猟などする機会はほとんどない。しかし、それでは収まらないのが「血の記憶」なのだろうな。

僕は釣りバカだし、ただのバカでもある。好きな人と暮らし、質素な飯が食えて、釣りが出来れば何もいらない人間だ。もしも金があればプライベートリバーかプライベートレイクを手に入れて傍に小屋を建てて暮らしたい。しかしそう考えると莫大な金がいる。金がいるということは目の色変えて金儲けに時間を費やすことになる。もしも人間が200年生きるのだとしたら、100年は人を足蹴にしながら金を儲けて、残りの100年で釣り三昧をするのも悪くないが、そこまで人生は長くないのでプライベートリバーもレイクも諦めるしかない。せいぜい近くの野池でのり弁当でも食いながらぼんやりする。これもまた分相応であろう。

今年は2度ほど既に竿を出したが、1月の釣行は惨敗に終わった。行った湖は全面氷で覆われ釣りにならなかったのだ。それでも少し溶けた氷の隙間に疑似餌を投げ込み10時間もマイナス8度の湖岸に立ち続けた。生命ある相手と遊んでもらうのだから、釣れないからといって退却は出来ない。最後まで全力を尽くして敬意を払うのが釣り師のマナーである。そして釣れない言い訳を探しながら糸を垂れる。風がどうだとか、気温がどうだとか、天気がどうだとか、とにかく釣れない日の晩酌をやり過ごすためには言い訳が必要なのである。それに釣れた話しとなれば話す度にサイズが大きくなるのは古今東西同じであろう。たった1匹の出会いを何年間も昨日のようにありありと思い浮かべることが出来る技も釣り師は備えている。まあ、その翌日は腰が冷えすぎて腰痛になり、病院に行った。大量の湿布を医者に要求し、温シップの方が効果があるという医者の見立てを無視し、冷シップが欲しい!とダダをこね呆れられたという落ちがあるんだけど、まったくもって釣りバカに付ける薬はない。

ここに住むようになってから釣りも環境も随分変わった。近くには山女魚や岩魚が棲むような渓流はない。田舎に住んでいた頃は車で15分も走れば素晴らしい渓流が無数にあったし、海までは5分で行けた。しかし今は海もない所に住んでいる。浜育ちの人間が海無し県に住んでいるということは、冷蔵庫の飲み物がビールではなく発砲酒だった時ぐらいの残念さがある。そしてよい渓流が近くにないということは、ワインのコルクが途中で折れて、どうにもこうにも出来ない状態の焦燥に似ている。と書いたが、結局全部酒のたとえになってしまう自分自身がいちばん残念だ。

海もいいのだが、僕はやはり河が好きだ。それは水の流れが釣り師の心を洗ってくれるからだ。目の前を流れ去る水を見ていると、自分もこの世という河を流れる水にしか過ぎないと感じる。誰かと出会い、肩を寄せ合い会話をしながらも時は流れ、誰もが下流へと進んでいく。やがて海にたどり着き淡水は海水となり姿を変える。しかし、海にたどり着いた自分は太陽に照らされ蒸発し雲になる。雲は風に運ばれまた地上に降る雨となる。立場も肩書きもやがて消え失せ、僕は循環する自然の一部である自分を悟る。結局僕は、森であり、土であり、岩であり、水であり、魚でもあるのだ。僕はすべての中の一部分でしかなく、すべてが僕でもある。これは人間同士の絆や連帯感とは別のものだ。河の中に立っていると、何者でもない自分を感じる。そして何者にもなり得ない自分を感じる。やがて自分という存在が紛れもなく在るという感覚だけが残る。そしてそれが肉体ではないことを知る。換言すれば「釣り師の血」とは、生命が誕生した海への回帰を欲する「血」なのかもしれない。

いつものようにダラダラと戯言を書き連ねたが、何故こんなことを書いたかというと、単純に、もうすぐ釣りシーズンがやってくるからなのだ。しかし、皆さんは僕のような釣りバカになってはいけない。何故なら釣り場が混むから・・・。それに言い訳を考えるプロになってもいけないし、虚言癖があってもいけない。まあ、いい加減な詩を書いて、いい加減な人生を釣り暮らすなんて愚か者のすることに間違いなのだから・・・。



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