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僕は芝居を18年ほどやっているが、自分で脚本・演出・主演をしたのは一度だけで、後は役者などやらず脚本と演出だけに集中してやってきた。脚本と演出をしなくても済むのなら役者も悪くはないが、全部をこなす為の能力は僕には無いらしい。とにかく、芝居をやるには脚本がいるので僕が書くわけだが、これは非常に孤独な作業である。誰かに助けてもらうことも出来ないから、何十時間も机に向かってひとりで集中していなければならない。それに「お客さんの反応はどうだろう?」などと考え始めるとプレッシャーも凄まじいことになる。芝居はやはり脚本が重要で、「脚本がつまらなければいかなる優秀な役者をそろえても無駄である」とも思っている。脚本家がいればそれに文句を言えばいいのだが、自分が演出する脚本を自分が書くので、脚本家としてのプライドと演出家としてのプライドが僕の中で闘いを始めるわけだ。

そんなふうにしていると「自分で書いた脚本は自分が一番理解している」というのは嘘であることに気づく。僕は自分で書いた脚本を演出しながら、脚本を書いた作家(自分)を分析し、客観的に洞察しなければならない。綴られた言葉を演出家として新しく読み直す必要があるし、「コイツはこれが言いたかったのか!」などと気がつくことも多いし、しかもその「コイツ」が自分なので、よく分からないことになってくる。要するに、脚本を書いている自分と、演出をしている自分は同じ人間ではないのだ。なので、自分で書いたのに、「この作者は能無しだ」などと思うことだってあるわけだ。

それにも増して演出をするのは困難なことだ。演出家は物語に対する明確なイメージを打ち出さなければならないのだが、それに固執してしまうと役者の個性や能力を引き出せずに、独断的な芝居構成に陥る。要するに、役者を能力と個性を持っているひとりの人間としてではなく人形、又は駒のように扱ってしまう危険性だ。もちろん僕には芝居を「こういうもの」と決めつけてしまう権利もなければ資格もないので、あくまでも個人的な考えなんだけどね。

それにしても一番精神に堪えるのは芝居のキャストを決めなければならない時だ。これはいつも苦手であるし、できればあみだくじで公平に決めたいところなのだがそうもいかない。僕の所属しているような演劇カンパニーではなおさらキャスト決めは難しい。全員を公募形式で募集してオーディションなどをする場合は、心情的なことをあまり考えずに済むのだが、同じメンバーで毎週稽古をしながら和気藹々と過ごしているような状況では、どうしても心情的な面に配慮することになる。全員が一所懸命に芝居に取り組み、誰もが長時間に及ぶ稽古に耐えている姿を僕自身がよく知っているからだ。「全員に良い役を与えたい」そんなふうに考えてはいるが、CMのように「幕が開いたら全員が主役で全員が桃太郎!」などということは出来るはずもないのである・・・。

結局はキャストを決めることになるのだが、仕方がないので僕は自分なりの決め方をしている。まずは、役のマッチングや年齢、性別、演技力など、演出家として当たり前のことを考慮して配役する。その後は個人を掘り下げて考える。「この人は演技力もあるのだが、今、この役を与えたら、今後どうなるか?」とか、「演技力はないが、ある種の壁を越えるための機会を与えたい」とか、「この人は、この舞台で何を学ぶべきなのか?」とか、彼らの今後について考えるのである。まあ、こんなことを考えている時点でプロの演出家としては相応しくないのだろうが、それも仕方がない。なんせ、そう考えながら今までやってきたのだから。勿論、お仕事がプロ相手となれば話は別で、誰よりも手厳しい演出家に変貌するわけだが・・・(笑)

いずれにせよ、誰でも主役をもらえば嬉しいし、脇役をもらえば口惜しい、通行人ならなお悲しい、落選ならお先真っ暗である。それを痛感してはいるのだが全員を満足させることも不可能というのが実際なのだ。芝居を創っているとこれは本当に人生の縮図なのではないか?と、思うことがある。主役、脇役、通行人、落選。誰もが人として生まれ、同じように努力をしながら慎ましく生きる中で、人生の演出家にある意味でキャスティングされ来たのだろう。そう考えれば、世間的に僕はいつも通行人役だったし、時には舞台にも出られない落選組だった。いつも主役になれない悔しさを噛みしめながら生きてきたように思う。若い頃は、手に入れられないものを欲しがり、なれそうもない目標に憧れもしただろう。与えられた役に感謝も出来ず、愚痴を言いながら歩んできたのだろう。そんな僕が今度は演出家という立場で、喜ぶ人や悔しがる人を生み出さねばならないのは皮肉なこととも思える。

芝居はみんなで創る、しかし、個別には派手な役も地味な役もある。世界で暮らすのも同じことで、裕福だったり、貧困だったりもする。僕は今でも片隅にただ存在している庶民でしかないが、大人になって少しばかり学んだことがある。どんな役回りでどんな暮らしをしていようとも「心の豊かさ」とは、なんら関係がないということだ。そしてもうひとつ学んだことがある、派手、地味、大きい、小さい、裕福、貧困、多い、少ない、豊かさ、貧しさ、目立つ、目立たない、持つ、持たない、主役、脇役。多くを得れば多くを失い、失えばまた与えられる。過剰と不足に向けられた自分の視点を切り替えることだ。換言すれば、得たものに感謝し、失ったものに感謝することなのかもしれない。幸せとは豊かさと貧しさの差異ではなく、外側に囚われず、環境に左右されない「不動のやすらぎ」の中にこそ存在できるのかも知れない。しかし、残念なことにその「不動の安らぎ」の境地には中々なれない。なので釣りとアルコールで微調整しなければならないのである。川岸で魚と戯れているとき僕は主役でいられるし、部屋で酔っぱらっているとき僕はシェイクスピアにもなれる。とりあえず、朝になれば夢は覚めるんだけどね・・・。




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