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2011.12.29 善意の行方
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先日、インドの学校へ筆記用具を送った。それぞれの家で余っているノートや鉛筆を1年かけて集め、まとめて船便でインドまで送るのだ。まあ、ノートや鉛筆などは購入してもさほどの金額ではないが、使わないものがあるならその方がいい。僕が筆記用具を集めているのを知っている仲間たちは、家で余っている物や会社の不要品などをよく持ってきてくれる。しかし量が増え出すと、いささか不安になってくるのも事実。要するに中身の値段よりも送料の方が遙かに高いのだ。物は持ってきてくれるのだが、お金は中々持ってきてもらえないから、当然送料は僕が払うことになる。ノートと鉛筆が貯まっていく度に、「今で何キロだろう?」などと考えてしまうのが常である。

以前は僕も、不要品を集めている団体に持って行ったりしていたのだが、去年から自分で直接やるようになった。自分には不要品でも、それを求めている人がいる。何か良いことをしている気分になっていたのだが、実際は物を集めるよりもその後の方が大変なのだ。これは、自分でやってみて初めて気がついたことだった。ノートや鉛筆を持ってきてくれる人は、勿論善意で持ってきてくれる。しかしながら、それだけでは遙かインドの子どもたちの手までは渡らない。

今年は、震災もあったので、ボランティアという言葉を多く見聞きしたが、一般からの物資の援助にはどこの団体も慎重だったのを覚えている。たとえ善意であってもいらない物は集めなかったし、必要な物の優先順位が決められ、徹底されていた。善意が逆に現場を混乱させることや、その後の支援に支障をきたすことも分かった。同時に、人のために何かをすることの難しさを改めて学んだ年だった。

今年は僕も演劇を通して募金を呼びかけ、奈良に非難されている方々に支援金を渡すことができた。と、書けば知らない方は誤解するかも知れないが、僕は単なる言い出しっぺであり、多くの善良な方たちの寄付を支援事務局に渡しに行っただけなのである。また、今年からは震災で孤児や遺児となった子どもたちの為に積み立てを始めた。小学校で演劇をして戴いたお礼から積み立てる方式で、地域のどもたちが演劇を楽しむことで、被災した子どもたちを支援しようというシステムだ。演劇をする側も喜び、主催する側も喜び、子どもたちも喜び、遠い場所で暮らす子どもたちも喜ぶ。そして元気になった子どもたちが今度は演劇を見に来てくれる。まるで自然が当たり前のように循環するように、人の想いも多くの人の中で循環する。点と点の交流は直ぐに行き止まりになるが、円で繋がってゆく活動には夢がある。だから僕は、詩や演劇を文学とか芸能とか狭い範囲に置きたくないのである。なにも経済成長や景気回復だけが日本を立て直す手段ではない。行政を当てにせず、民間の力で出来ることから始める、そんな時代が来ているような気がする。

僕はこのようなことを始める前に、実際にいろいろと支援している団体のことを調べた。その中のとあるホームページに、「自分がもらう立場になって、考えて送ってください」という文言を見つけたのだった。その経過を読むにつれ、支援の発起人となる方の苦悩を感じた。そして、書かれていることはかなりショックな内容だった。「洗濯していない衣類・中古の下着・破損している物資・壊れた電化製品・小指程の長さまで使った鉛筆」そんな物を送ってくる人が実際にいるという事実。こうなると支援どころかまるで「ゴミ捨て感覚」である。更にショックなのはこれらを送ってくれた人は誰もが善意でしているというなんとも切ない構図である。こうなってくると、何が善意で、何処までが善意なのか分からなくなってくる。人間は自分の中の悪意を退けながら生きる訳だが、それと同時に自分の中の善意にも注意しなければならないような気がする。物とか金とかでさえ、時には悲しい善意になりかねないということを。

これも震災の時に学んだことなのだが、震災後、しばらくの間は一般のボランティアには自粛命令が出された。その代わりに阪神淡路大震災などのボランティア経験者や警察、消防や自衛隊といった専門家の方々が活躍してくれた。そのとき報道で聞いた言葉は「自己完結」という耳慣れない言葉だった。自己完結とは普段はあまりいい意味でつかわれないのだが、この場合の自己完結とは、「日常を送るために必要とされるほぼすべてを自らの装備と人員で補う能力を持っている」という意味で用いられた。このような非常時に及んでは、折角の善意が悪意に変わってしまうような最悪の事態が考慮されるから、この説明には説得力があった。その後は一般の方々の善意が大きく反映され、様々な支援が見て取れるようになった。しかし、政治の判断はあまりに遅く、国家の善意はあまり感じられなかった。これはとても残念なことだし、そして、それが今でも続いていることにはあきれ果てるしかない。

善意とエゴは紙一重かもしれないし、人のために何かやるということはとても難しい問題だ。まあ、僕には、人のためにどうの、というような崇高な大義名分はないかもしれない。正直に書けば自分のためにやっていることなのだ。今まで暢気に暮らしてきたが、誰かの役に立ったという記憶はほとんどないから、多少なりとも小さな行いで自分を慰めているのだ。まあ、集めたノートや鉛筆を自分で使ってしまったり、集まった支援金でスコッチを買ったりするようなことはないので、何処かのお役人や政治家さんよりはましなのかも知れない。などと、更に自分を慰めるのである。

むかし、三島由紀夫が「人間は自分のために生きることにさえ飽きる。しかし、自分以外の誰かのためにとか、国のためにとか、そういう大義名分がいまの日本人にはなくなってしまった」と語ったことがある。いずれにせよ、何かをするなら、自分の「善意の行方」くらいは、責任を持って見定めるべきだろう。自戒の意味も込めてだが、善意や善行とはそう簡単なことではないのだ。東日本大震災で多くの犠牲者と被災者を生んでしまった日本という国。震災がなくても毎年、3万人が自殺する日本という国。救われるべき人はあまりに多く、個人のできることはあまりに少ない。2012年の新しい年に、本当の善意の輪が結ばれることを信じたい。そして、それは街の片隅で静かに、褒められもせずに始まるべきだと思う。

個人的には、素晴らしい善意に満ちた人々に囲まれ、その方たちのお手伝が少しだけ出来た2011年という年に感謝している。そして、来年の課題は自分自身の救済でもある・・・。

さあ、旅の支度を調えよう。もし、良かったらご一緒にどうぞ。
みなさん、良いお年をお迎えくださいませ。



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