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2011.12.22 察する力
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最近は書店や図書館で「読み聞かせ」というのが頻繁に行われている。これはおそらく、いま教育現場で問題になっている子どもの「読解力」の低下を、何とか向上させようという試みなのだろう。ちなみに「読解力」という語を辞書で引くと(文章を読み解く力)とある。近頃の学校ではこの「読解力」と「表現力」に乏しい子どもが増加しているらしい。

そもそも子育てをしている親というのは何を目標にして子どもの教育をしているのだろうか?優秀な中学や高校を卒業させ、名門大学に入れることだろうか?そしてやがては、安定した会社へ就職させたいのだろう。しかし、よく考えれば人間は社会に出てから歩む時間の方が遙かに長い。勉強も大事なのだが、この「読解力の低下」は、社会に出てから子ども自身の足を引っ張る結果になりかねないから注視しておかなければならない。

僕は教育者ではないので、実際に教育関係者が不安視している「読解力不足」という意味がどのようなものであるのか、その実態を知らない。自分なりに解釈すれば、「読解力」とは、辞書にあるような(文章を読み解く力)という解説よりも更に現実的な意味合いとしては広義なのではないだろうか。「読解力」とは、換言すれば「察する力」のことであろう。勿論、勉学をする上において、実際的な読み解く力は大切なことであるが、社会に出て実際に使う機会が多いのは「読解力」の進化系である「察する力」なのではないだろうか。

よく考えてみれば、「察する力」とは生きる力のことだともいえる。これはなにも子どもだけの話ではなく、大人の世界にもいえることで、「指示待ち」「言われたことしかできない」「応用が利かない」という人間が多くなってきている。もしかしたらこれは、子ども時代からの「読解力の低下」を野放しにしてきた結果なのかも知れない。「1を聞いて10を知る」というような人はほとんどいない。1を聞いて5を知ることが出来れば、かなり優秀な方で、1を聞いても、それすら理解できない人もいる。中には、「言葉の意味自体が分かりません!」などと平気で答える社会人にも僕は実際に遭遇している。

この「察する力」の低下は、様々な社会問題の元凶ではないだろうか?極言すると、相手の気持ちを「察する」ことが出来なければ、人間関係も、社会との関係も崩壊する。こう考えていくと、「察する力」は非常に重要で在ることが分かる。そして現実にいま、子どもたちの「読解力」は低下しているらしいのだ。その力の低下が「察する力の低下」と、どのような相関関係にあるのかは、教授ではないので知らないが、まったく関係がないとはいえないだろう。「読解力」と「察する力」そして「想像力」はセットのような気がする。もっと拡大解釈すれば、いじめや、不登校、さらには原発問題や放射性物質の曖昧な基準による混乱。これらもすべて、読解力の低下、察する力の低下、想像力の低下が招いたものである。などと書いたら飛躍しすぎだろうか?

これも持論だが、長いこと詩や演劇などで多くの生徒達を教えてきた経験から言えば、先にも書いた「読み聞かせ」の実践だけでは「読解力」は身につかないだろうと思う。例えば、文章を読むという行為にはふたつの側面がある。ひとつは「書かれてあることを理解する」。そしてもうひとつは「書かれていないことを察する」ということである。これは他者と話しをする場合にも生じてくる。「相手は何を語ったのか」そして、「相手は何を語らなかったのか」である。僕たちは日常「書かれていることだけ」を重用視する。しかし、社会で実際に必要なことが多いのは、「書かれていないことを察する」ということだ。また、他者との会話の中でも、僕たちは「相手が話した内容」だけに執着し、理解している場合が多い。しかし、「相手が何を語らなかったのか」も語られた言葉と同じように重要であることに中々気がつかないのである。読解力は、察する力に進化し、察する力は想像力を生み出す。もうひとつの「表現力の低下」は、前途の3つが備わっていなければ当然のごとく低下する。要するに入力がなければ出力する術もないのである。

まあ、いつもの如く知ったように書いたのだが、自分自身が「読解力不足」のガキであり、勉強もできないばかりか、何をやらせても劣等生だったので大変苦労したのであった。しかし、孤軍奮闘の甲斐あり、大人になった今では「魚の気持ち」と「酒の気持ち」が分かるようになった。僕の「読解力」も多少は向上したのかも知れない。なので、お酒の気持ちを察して、スコッチを開けようと思う。これは、飲んだくれの末期的な症状などではなく、酒に対する「思いやり」であると最後に付け加えたい。




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