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2011.12.08 詩の可能性
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僕は詩を書く人なのだが、記憶を遡っても「詩のブーム」などなかったし、何らかの形で世間から脚光を浴びることもなかったように思う。勿論、一部の詩人がもてはやされるような一過性のブームはあったろうが、「詩」全体、又は詩人という存在が時代の表舞台に立つことはなかった。また、出版社の中でも「詩集は売れない」というのが悲しい通説になってしまっている。

しかし、ここ数十年でパソコンなどの普及のせいもあってか「詩人」が急増したように思える。まあ、詩で食えている詩人はほんの少数であり、詩では飯が食えないというのも詩人の常識となっているから、趣味で書いている方がほとんどだろう。そしてご多分にもれず、その食えない詩人が僕自身であるという事実はここでは考えないようにしたい・・・。

ひとくちに詩人といってもそのスタイルや目的も千差万別である。僕自身は、文学というカテゴリーにおいての「詩」というものにはあまり興味がなく、自分の詩を世間様に認めてもらおうとか、本を沢山出したいとかいう欲求もほとんどない。ではなぜ詩を書いているのか?それは、「詩の可能性」を探るためである。詩の可能性と言っても文体や表現方法の可能性を探りたいのではなく、「詩」または「詩作」が、人間の精神にどのような変化と作用を及ぼすのかということに興味がある。僕は「詩の学校」や「演劇創作集団」を長年続けてきたが、そこで関わる老若男女がどのように精神的な変化を遂げ、それがどのように個人の生活又は社会生活に作用を与えてきたのかを考えてきた。また、その結果を事例として沢山みてきた。

ではなぜそんなことに興味があるのかを書こう。それは僕自身の体験を検証するという個人的な発想から出発していることは間違いない。不遇な少年時代を過ごした自分という存在を観察するとき、そこにはいつも「詩」の存在があった。苦しみや悲しみの中でも何らかの希望を見いだせたのはこの「詩」のお陰であった。僕の生まれた家はとても貧乏で、家族という温もりも欠落していたが、現在のように暢気な飲んだくれとして適当に生きてこられた怠惰な人生を支えたのも「詩」であった。

一見他人からは平穏無事に生きてきたように見える人でも、誰もが人に言えない悲しみや苦しみを体験してきたはずだ。そして、どんなに不遇で不幸な人生を過ごそうとも、「時間を巻き戻すことは出来ないこと」をみんな知っている。要するに、「あったことは、無かったことにはできない」のである。しかしながらこれも同様に、その「あったことを解決したい、もしくはその傷を克服したい」と誰もが思うのであろう。そして僕も同様であった。「過去に起きたどんなことも帳消しには出来ない」のが人生であるし、また、それが現実なのである。それでも人は生きていかねばならない。そのときどうすれば良いのだろうか?

誰もがそうであるように、僕自身も抱えてしまった「巻き戻しも帳消しにも出来ない過去」に向き合わねばならなかった。そんなふうに年月を過ごしているうちに、いつしか詩を書くようになっていた。誰にも言えない心の内を紙に文字として置いてみるとき、僕の心は軽くなった。詩人になろうという気も、詩を書きたいという欲求も無かったが、詩を書き続けた。それは、僕の心に必要な行為であったからだ。もしかしたら、「詩」ではなくても良かったのかも知れない。しかし貧乏人が出来ることは紙と鉛筆を用意することぐらいだった。大金と時間を費やして専門家のカウンセリングを受けるような状況にはなかったし、当時は「心のケア」などという言葉もシステムもなかった。

そして現代という時間軸に話しを戻せば、精神的な疾患を抱える人が激増している。病気になってしまえば専門家の範疇になってしまうが、その予備軍は何十倍も何百倍も存在するのではないかと感じている。僕は世間を斜めに見ているのかも知れないが、「対処法」ばかりが目立つ。要するに精神を病んだ人に対する対処法である。それは素晴らしいことなのだが、対処法では問題解決にはならない。それは様々なことにも当てはめて考えられる。問題があることを前提にした考え方自体を見直さねばならないのだ。このままの状態が続けば「一億総患者状態」となりかねない。などと書いたら大袈裟だろうか?

優しさや思いやり、助け合いながら人は生きる。しかし、病んだ人が増えすぎれば本来助けを必要としている人の存在が見えなくなり、やがてすべてが平均化されてしまうような気がする。「時間は巻き戻せないし、過去を帳消しにはできない」しかし「何らかの形で解決したい」。僕たちはこの難問に答えることが出来る。それは、「悲しみや苦しみ」を解決しようとすることよりも、「すべてを抱えたまま立ち上がれる自分になること」だ。それには自助努力が必要であり、どうしても無理なら誰かに助けを求めることが出来る。しかし、まずは自分で何とかしてみようとすることが大切だと思う。

僕はたくさんの人に詩を書くことを勧めている。特に子どもたちの「心の闇」の問題は深刻だ。自分と向き合うというのは中々出来ないものなので、詩を書くことを勧めているのだ。自分の中にあるものを紙の上に置いてみる。「なんだかスッキリしました!」僕が知る限りでは、高い確率で誰もが笑顔でそう答える。学者ではないからなぜそうなのかは知らない。でも、「スッキリする」ことは事実である。そしてそれを続けた人は次にこう話す「詩を書くようになってから自分が変わりました」と。もちろん、良い方にである。更に言えば、文学的によい詩を書く必要はないし、良い詩など初めからない。詩には善し悪しなどないのであり、あるとすれば「それぞれの好み」があるだけだ。要するに普遍的な意味で良い悪いなどないということだし、まあ、それは多くのものにも当てはまる。「詩の学校」などと名前を付けてはいるのだが、この教室に数年通っている方でも文学的な意味で詩が上達した人はいない。しかし、豊かな詩が書けるようになったことは事実である。心穏やかに人間らしい豊かな詩が書ければ、その人は豊かな人生の中を生きているのだろう。もし、詩を書いても何ら効果がない場合でも、被害は紙と鉛筆代ですむから気楽だ。

コラムの初めに「詩のブームはなかった」と書いたが、これからもブームにはなりそうもないし、詩人が食えるような時代がくるような予感もないのだが、稚拙な詩を書く詩人の端くれとして言いたいのは、詩は文学である以前から、あらゆる可能性の原点であったということだ。その時点で詩は「詩」という名前すら与えられていなかっただろう。換言すれば、「詩」の原点とは「感情が生まれ出る場所」という意味であり、「自分という意識の誕生する原始」であるとも考えている。人が肉体という実存の中に宿る自分の心や感情や精神といったものを理解するとき、それは「詩」という混沌を出発点としている。そして、その出発点から寄せ来る波は、あらゆるものに形を変えて自己の多様な表現の母体となっていく。詩を文学として極めようとする価値以上に、詩に内在する可能性は更に大きなものである。詩を書くときそこに在るのは自分自身の内側であり、心や精神といった自分でも中々コントロールすることの難しい目に見えないものが具現化された姿そのものである。紙に書かれた文字とその内容を目を通して見るとき、そこになにが生ずるのだろうか。自分でも気がつかなかった葛藤や喜びが在るかも知れない。詩を書くことは「自分の肉体を通して自分自身を凝視すること」でもあろう。などと書いていながら、なにを書きたかったのか分からなくなってきた自分自身がかなりうっとうしくなってきたのも事実だ。とにかく、詩が商業的な意味でのブームになることを期待しているわけではなく、もっと生活や日常に取り込まれていくことで、何らかの良い作用が生じることを期待するし、今後もその機会をつくる仕事を続けたいと思っている。

ちなみに、生徒の詩が文学的に上達しないのは彼らに才能がないからではない。正直なことを書けば、教えている僕自身に文学的な詩を書く才能がないのだから仕方がないのである。そして生徒も僕にはなにも期待していない。だから、今日も気楽に飲んだくれて怠惰な夜を迎えられるのだ。



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