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2011.11.28 19人目の人
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近頃のニュースを見れば、「アラブの春」というような言葉が頻繁に引用され、急速な民主化が世界各地で進んでいることが分かる。しかし、このようなニュースを見る度に僕が思い出すのは1989年に起こった「天安門事件」である。22年という歳月を最近と感じるか、昔と感じるかは個別なのだろうが、僕にはつい最近の出来事のように思える。

僕の周囲には若い人もたくさんいてこの事件は彼らが生まれる前、もしくは生まれて間もない頃に起こった事件だったりするので、事件自体を知らない若者も増えている。そして、世界が急速に民主化の動きを見せている現在、天安門の惨劇は忘れ去られようしているようにもみえる。僕は専門家ではないので、ここで天安門事件の詳細や背景を語ることは出来ないが、1943年に中国共産党の毛沢東が天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言したその場所で悲劇は起きたのだった。民主化を願う人民のデモを、中国人民解放軍が武力弾圧するという悲劇的な形で結末を迎えた。更に書けばその弾圧とは人民に対しての無差別発砲や装甲車でひき殺すといった過激な弾圧であったことは事実であろう。この時の犠牲者は明確ではないが、一説によれば数百人から数千人が亡くなったという。まあ、何も政治的な批判や他国の悪口を書く気もないのだが、人道的な見地から見てもこれは容認しがたい大事件であったことは間違いないだろう。

経済成長著しい中国は、いまや世界経済の中心地的な立場であり事実そうなっている。僕がなぜこんなことを書く気になったかと言えば先月に中国で起きた少女の死亡事件がとても衝撃的であったからだ。これは最近の出来事なので誰もが知っているだろうが、こんな事件だった。「広東省で悦悦ちゃんという2才の少女がワゴン車にはねられ重傷を負ったが、こともあろうに道に倒れている少女の傍らを18人もの人間が助けもせずに素通りし、19人目の人に助けられたが、やがて死亡した。」というショッキングな事件が防犯カメラの映像で明らかになり世界に衝撃を与えた。

中国では経済成長の陰で「人心の荒廃」が進んでいるという。格差が生み出す「人間関係の希薄さ」を指摘する専門家も多い。詳しくは知らないのだが、以前には倒れた老人を助けた人が、その老人から訴えられるというよく分からない事件もあったという。この悦悦ちゃん事件を知って僕は直ぐに日本のことを考えた。これは中国という隣の国で起きた他人事などではないと思った。日本でも「人間関係の希薄さ」という言葉が使われるようになってから久しく時が過ぎた。こんなふうに書けば、読者の皆さんは「日本人はそこまで酷くない」と思うだろうし、僕もその意見に反対ではない。もしも日本でこの少女のように災難に遭った人がいれば、誰もがみんな躊躇せずに助けることだろう。少なくとも現段階においてはだが・・・。

僕は昔から中国という国の偉人が好きだったし本も沢山読んで感銘を受けてきた。あらゆる意味で日本は中国や朝鮮の影響を強く受けてきたし、その文化や思想は日本の文化の礎となったことも確かだ。しかしながら、急速な経済成長や強烈な格差社会、天安門の事件やこの悦悦ちゃん事件を考える度に、日本と日本人のこれからの行く末に照らし合わせて考えざるおえなくなる。確かに日本は平和な国であり、自国の国民に無差別発砲したり、自衛隊が僕たちを装甲車でひき殺すようなことは起こらないだろう。しかし、平和という名の陰に隠れた「見えない無差別発砲」や「装甲車でひき殺す」のと同等の行いを日本の国民が受けていないとは言い難い。それは政治不信や国そのものへの不信感が増大していることが証明している。例えば例の国民年金問題は無差別の発砲行為に似ているし、税金の無駄遣いは国民の財産を装甲車でひき殺すのに似ている。

ひとくちに「人心の荒廃」などと言うが、人心の荒廃ということが起きる背景は昨日や今日に突然起きるものではなく、積み重なるものなのではないかと個人的には思うのだがどうだろうか?小さなことをないがしろにして放っておくことは、少女を見殺しにする心理と似てはいまいか?「日本人はまだ大丈夫」そんなふうに暢気に構えている内に大変な事態になりはしないかと心配になるのは僕だけではないだろう。自分のことを大切にすると同時に他者に対しても愛情を向けられるのが日本人の良さなのだから、そんな素晴らしい国民性を僕たちは失うことことのないように注意を払わねばならない。

アラブの春に代表される急速な民主化によるギャップ、経済成長による格差社会の肥大化。持つ者と持たざる者の不公平さによる人心の荒廃。戦争が生み出す悲劇と平和が生み出す悲劇。物質主義や経済至上主義ばかりに目を奪われがちな現代において「人の心」という、安易に取り扱うことの出来ない繊細なものにも注意を払わねばならないと個人的には思う。そしてそれは「政策転換や見直し」といったシステムで解決出来るようなものでもない。「隣に誰が住んでいるのか分からない」「近所付き合いが希薄になった」その次はどんなことが起きるのだろう?天安門で自由化を求める学生達を殺したのはその国で生きる同じ人民であったし、少女を見殺しにして通り過ぎた18人は極悪人ではなくごく一般の人だったのだ。僕たちは少女を助けた19人目の人になれるだろうか?そして19人目を待たずして、1人目の人が少女を救う世界になるように願いたい。

まあ、知ったようなことを書き連ねてしまったが、僕は実際には中国をあまり知らない。むかし、上海や蘇州を旅したことはあったが、それだけで中国を見たことにはならない。おまけに天安門広場のある北京には行ったことがないときているから説得力に欠ける。ふらりと北京に行く時間は充分にあるのだが、書斎の貯金箱にどれだけ小銭が貯まっているか貯金箱と相談である・・・。

とりあえず身近なことから他人を思いやる行動に出るのが先決だ。だから、今から僕はよそから頂いた野菜を、隣のおばちゃんにお裾分けに行く。そして野菜をお裾分けする代わりに、何か晩飯のおかずをおばちゃんがお礼にくれるのではないかと期待している自分自身の歪んだ心を正したい。僕は19人目の人になれるだろうか・・・。

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