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「小さい白いにわとり」

小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。
だれがたねをまきますか。
ぶたはいやだと言いました。
いぬもいやだと言いました。
ねこもいやだと言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
だれがむぎをかりますか。
ぶたはいやだと言いました。
いぬもいやだと言いました。
ねこもいやだと言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
だれがこなにひきますか。
ぶたはいやだと言いました、
いぬもいやだと言いました。
ねこもいやだと言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなにひきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
だれがこなをこねますか。
ぶたはいやだと言いました。
いぬもいやだと言いました。
ねこもいやだと言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでこなをこねました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
だれがパンにやきますか。
ぶたはいやだと言いました。
いぬもいやだと言いました。
ねこもいやだと言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりでパンをやきました。

小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。
だれがパンをたべますか。
ぶたはたべると言いました。
いぬもたべると言いました。
ねこもたべると言いました。


この物語は僕が小学校一年の時に教科書で読んだもので、ウクライナの民話らしい。
なので、若い人は誰も知らないのではないかと思う。
あれから40年が過ぎたが、不思議なことに僕はこの物語を今でもよく思い出す。

この「小さい白いにわとり」は、ひとりで全ての仕事をこなすわけだが、仲間の「ぶた、いぬ、ねこ」は、誰もそれを手伝わないのである。なんとも切ない構図ではあるが、こんなことは世間ではよくあることなのだろう。この物語はウクライナの民話らしいから、日本もウクライナも、そして世界中どこでも似たような構図があるのだろうと想像できる。

ではこの物語から僕は何を学んだのだろうか?勿論ここに登場する「ぶた、いぬ、ねこ」のような自分の傲慢さに気がつくことも重要なのだが、「小さい白いにわとり」のように、自分のために汗水垂らして努力してくれている人が誰の傍にでもいるのだと、知ることも重要なことだと思う。その人は、時には目に見える場所で、そして時には隠れた場所で自分のために働いてくれているのだろう。

話は変わるが日本には「恥を知る」という言葉があった。過去形になっているのは現在ではこの「恥を知る」という精神が希薄になっていると個人的に思うからなのだ。まあいい。僕が言いたいのは自分のために働いてくれている「小さい白いにわとり」に気がつかない人は気がつくべきだということだ。そして、気がついたら「恥を知る」ことだ。それは、自分の中にある「ぶた、いぬ、ねこ」のような傲慢さを恥じるということである。「恥を知る」という言葉が希薄になってきていると書いたが、これは個人の主観である。しかし、それを知りながら更に「知らないフリをする」という悪循環を目の当たりにしてきたのも事実である。「恥を知る」という言葉は換言すれば恥を知って「生まれ変わる」という精神の再生を意味しているのかも知れない。

ここに書いたように道理を学ぶことはそれほど難しくないし、人間は利口なので自分のしていることにも容易に気がつく。しかし、「知らないフリ」をしてしまうのだ。だから、いつまでも「小さい白いにわとり」は、ひとりで種を蒔き、刈り取って、パンを焼かねばならない。そして「ぶた、いぬ、ねこ」は、何もせずにそれを食べ続けている。家族である為の資格や仲間である為の資格、そして地球で共に生きるための資格。もしもそんな資格があるとしたら、それは誰もが「小さい白いにわとり」のように「自分の中にある他者の存在と他者の中にある自分の存在」を分け隔て無く愛する精神なのだろう。

40年経った今でも僕がこの物語を忘れずにいるのは、もしかしたら今でも自分自身が「ぶた、いぬ、ねこ」のように、日々を傲慢に生きているからなのかもしれない。この「小さい白いにわとり」のような強さと優しさは、どのようにしたら得られるだろうか?僕にとって、小学校一年生の教科書に載っていたこの物語はいつも自分自身を戒める為の忘れられない物語なのである。

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