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日本人なら日本語を読んだり、書いたり、話したり出来る。と、誰でも思い込んでいる。まあ、そう書いている僕自身も長いことそう思ってきたひとりなんだけどね。しかしながら、長いこと稚拙な言葉を口からでまかせに創作していると、時折言葉の不思議を感じることがある。それは、自分が「使う」又は「使おうと」している言葉に対する言い知れぬ「不安感」である。

その不安の正体は、「その言葉を使う資格が自分にあるか?」という不安だ。僕たちは自由に言葉を話したり書いたり出来るし、相手と話をすることも出来る。しかし、普段無造作に使っている言葉の意味や、それが指し示す本質をどれだけ当事者は理解しているのだろう。それにも増してその言葉を使うに相応しい自分であるかどうかも疑わしいのである。

むかし、誰かに「どうすれば言葉に説得力が出せますか?」と、質問されたことがあった。説得力とは換言すれば魅力のことであるから、魅力ある言葉を使いたければ、まずは自分自身が「魅力のある人間」になる必要がある。不思議なことに、魅力のない人間がどんなに美しい言葉を書き連ねても魅力は出ない。そう考えていると、「地下鉄は何処から入れたのか?」ということよりも気になって眠れなくなる。

更に軽薄な持論を展開すれば、「自分に見合う言葉こそ美しく魅力がある」とも言える。そして魅力が増すということは、「自分自身が成長した分だけ使える言葉が増える」ということなのだ。つまり、人生経験の少ない若者が身の丈を知らず悟りの境地のような言葉を使えばそれは美しくもないし、説得力もない。反対に経験豊富な年配が、若者のように世間知らずな言葉を並べ立ててもどうも説得力がないだろう。

こう考えていくと、身の丈や経験に裏打ちされた言葉というものはどれも美しいのである。若者の世間知らずな言動も等身大の言葉としては美しく説得力があるだろうし、年配の語る包容力と寛大さに裏打ちされた短い言葉にも美しさと説得力がある。まあ、僕のように日本語もあまり使いこなせず、「てにをは」も出鱈目な物書きは、人間としても出鱈目なので釣り合いがとれている。そして、その出鱈目加減が等身大であるからして、僕の言葉も美しく説得力に満ちあふれているのだと無理矢理信じ込みたい。

言葉を追いかけて詩を書いてきたけど、実は言葉に追いかけられ、必死にそれに相応しい人間でありたいと思いながら生きてきたような気がする。使いたい言葉があるのにそれを使える自分ではない。そんな焦燥感と悔しさに苛まれながら言葉を綴ってきた。誰かにどうしても届けたい言葉がある。しかし、今はそれをじっとこらえて寡黙に汗を垂らしながら、その言葉に相応しい自分を育てたいと思う。そして、酒と煙草と釣りがどんなに人間生成に役立つのかを証明したい。が、それは無理かも知れない。

PS:「このブログに温かいコメントを寄せてくださった多くの皆様へ」
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