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近所の山に大きくて静かな池がある。木立に囲まれ、風のない日は鏡のような水面に周りの山が映し出されてとても美しい。僕は暇があればよくこの場所に行く。釣り竿を片手に15分も原付で走ればその池にたどり着く。思えばこの2年間、暇があれば日課のようにここに来て釣りをした。何百回、何千回とキャストを繰り返したが、一度たりともアタリすらなく、水面はただ静まりかえっているだけだった。

普通に考えれば釣りなどというものは余暇に趣味で行くものなのだろうが、僕にとってそれは日々の日常的なことなのだ。夜になれば酒を飲み、昼間はプカプカと煙草を吹かしながら釣りをする。そしてたまには詩を書くのである。そうやって過ごし、いよいよ金が尽きそうになると雑誌の編集者に電話して、「何か仕事をくださいな」といった具合にたまには労働するのだ。

僕にとっての釣りは換言すれば「禅」のようなものだ。釣っている時間は「坐禅」でもしているような穏やかで満ち足りた気持ちになれる。無心のようで無心ではなく、常に様々な事が明滅し出没しているのだが、頭で何か考えるといういうよりも肌で思考しているといつた方が感覚的には近い。友人がスローライフの団体に所属しているのでお誘いを受けるのだが、何かの団体になどに属さなくても僕は最初からスローライフなのだ。

釣りに関して言えばこんな話があるのを知っているだろうか「ある時、橋のたもとで男が釣りをしていると、立派な身なりの偉いお方が通りかかったらしい、そこでその偉いお方は男にこう言った。(お前は真っ昼間から暢気に釣りなんぞしているが、出世には興味がないのか?)すると男は逆に尋ねた(出世したらどうなるんです?)すると偉いお方は答えた(出世すれば金も手にはいるし、何でも好きなものが食える。それに何でも好きなことをやれる時間も手に入れられるぞ!)すると男は更に尋ねた(偉くなって自由な暮らしが出来るようになったら、その暇な時間ははどうするんです?)すると偉いお方は言った(そうだな、毎日のんびりと釣りでもするか!)そして男は最後に言った(そんなことなら、わしは最初からやっていますよ)と。」この話を思い出す度に、不思議と自分の怠惰な生活へのやましさも将来に対する不安も消え去る。

僕にはほとんど物欲といったものがない。死なない程度に仕事をし、そこそこの便利な物を使って生活する。使い方も分からないような電化製品も持っていないし、車は動けばそれでいい。パソコンも持ってはいるが、それは単なる仕事の道具にしか過ぎず、本など頻繁には出版できないのでブログなどを書いてお茶を濁す日々を送っている。若い頃は「修羅」と呼ばれ、今は「仙人」と呼ばれている。しかしながら仙人ほどの智慧もなく、なんら人生の手本にもならず、血液はアルコールで満たされ、全身は煙に茶色く染まり、稚拙な言葉を創作しては戯言を語り、近寄れば魚くさいだけである。その反面、現代人は酒は飲まないし、煙草も吸わない。釣りもしないので、非常に繊細で男前が多い。そして、そんなスマートな人種が街を闊歩する姿が日本の原風景となりつつある。そしてその歩いた後にはコロンのに匂いが漂うのである。

釣りの話から随分とそれてしまったが、その池には今日も出かけたのであった。そしてようやくその日が来たのだった。今日のようにどんよりとして気圧に変化のある微妙な日には何かが起こる。などと釣り人はよく考えてしまう。ので、釣り竿片手に2年間沈黙しっぱなしのあの池に向かったのだった。そしてやはり予感は的中した。

渾身の竿先から放たれ、弧を描いて飛んでいく疑似餌は、風に乗ってかなりの飛距離を出した。疑似餌を水面と水面下の狭間をすれすれに潜行させた瞬間、竿の全身に鋭く鈍いアタリがあった。そのまま竿をあおりつつリールを回転させて素早く合わせを食らわす。するとズッシリとした魚の重さを感じ、水面下を縦横無尽に逃げまどう魚影が見えた。彼は全身全霊を尽くして抵抗するべく澄んだ水の底に潜行した。姿が消え去り、水面を引かれてはち切れそうになった糸が生き物のように右へ左へと走り出す。竿を下げ、魚の抵抗を受け止める為に動きに合わせてこちらも竿先を左右に向き変えながら耐える。やがて観念した彼は銀色の横腹を水面に踊らせて浮上してきた。これが、2年間という月日を費やして僕が捕らえたたった1匹の獲物であった。針の傷跡ひとつない美しい魚体が、入道雲の切れ間から射す光に照らされて輝いて見えた。一尺以上もある見事な魚だった。

僕は20年前の田舎での渓流釣りを思い出していた。そういえばあの川にも2年間通い詰めた。そして今日のように2年目に小さな山女魚を釣りあげたのだった。思えば、河や湖そして海、それぞれの世界を満たしていた水は穏やかなる心のあり方を僕に教えた。そして魚たちは待つことの素晴らしさを僕に教えてくれたのだった。すべての価値観が軽薄短小を賛美しても、長い時間をかけて学ぶことの大切さは消え去らない。人間の命のサイクルは自然に比べれば儚く短いかも知れないが、そうであるからこそ、100年1000年単位で物事を考える目線が大事なのだろう。「学ぶ・創る・渡す」人間は自然を自分の中に宿している。どれを欠いてもその世界は循環しない。「過去に学び、自ら創り、未来へ渡す」それが生命の営みの基本なのだろう。どんなに美しく清浄な水も、行き止まり、停滞すれば自ら腐る。生命とは換言すれば循環という永遠の中にしか存在できないのであろう。無学な僕の良き教師は自然そのものであり、心を開いて相対するだけでこの世の大切なことのすべてを教えてくれる。それこそが、どんなに高性能なコンピュータにも不可能な完全なる調和の智慧である。

と、まあ、最後だけ少しいい感じの言葉を書いてみましたが・・・いかがかな?

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