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2011.07.07 感傷気分
自分が歳を取ってしまって自身の関心事に変化が生じたのか、それとも現実に人そのものが変容を遂げたのか。それは判断しかねるが、人に会う度にどうしても気になってしまうことがある。それは「私事の吐露」である。恥ずかしげもなく饒舌にそれを語る現代人によくお目にかかる。

僕の中には私事は他言しないものとしての認識がある。これは男の美学とかの話ではなく、単に「格好悪い」という思いがあるからで、簡単に言えば「同情されたくない」という虚勢の表れかも知れない。数年前に僕は「記憶の欠片」という連載を書いたことがあるが、それが「私事の吐露」であった。書く前にずいぶんと悩んだのだが、もう40年以上他言したことのない子ども時代の話だから、覚悟を決めて書いたのであった。幼い頃の記憶を辿りながら書く為には、忘れてしまいたい体験を再度詳細に思い出さねばならず、酷く体力も精神力も減退したのを覚えている。何故書いたのかという理由はひとつ「過去との決別の証」としてだった。

この作品を書いた後に、同級生の女性から珍しくメールを頂いた。そこにはこんなふうに書いてあった。「あの頃同じ青春時代を過ごしたあなたが、実はそのような状況にあったことを私は全然知りませんでした。改めて当時の私たちが、あなたよりも随分と子どもだったことを思い知らされ、涙が止まりませんでした」と。親友と呼べるような人間にさえ自分の苦労や悲しみを僕は話したことがなかった。当時から僕は、個人の悲しみや苦しみなど、自分で抱えて乗り越えるものだという認識がとても強かったのだ。そして、世間を見渡してもそんな弱音を許容するような時代ではなかったのも確かなことだ。

しかし現代では関わり方のスタンスが大きく変容しているように思える。それは、付き合い始めた初期段階で私事を饒舌に吐露する人が多いということである。時間をかけてお互いを観察しながら理解を深めてゆくという事が希薄になっているような気がしてならない。それは何らかの精神的な防御のような役割を果たしているのかも知れないが、有無を言わさず自分と言う人間への理解を強要してくる。つまり、のっけから自分がいかに人や世間に虐げられてきたか、とか、私はこのように弱い面を持っているとかを強調してくる。要するに、「こんな風に見られたい、こんな風な自分を理解して欲しい」と主張してくるのである。この手の人は非常に付き合いづらいし、最初から免罪符をちらつかせてくるのでこちらは以降、腫れ物にでも触る感じで付き合い始めることになる。

この様な人がいることの善し悪しを問う気もないのだが、よくよく話を聞いてみると、どの辺りが「不幸」なのかがよく分からない。どの辺りに疎外感を感じ、何故に強烈な自己限定を自分に強いるのかも不明なのだ。確かに、話を聞く中で、「そんな体験をしたのだから仕方がない」と思える人もいる。しかしよく分からないのが、一見して「充分に裕福に育ち、幸せなのでは?」と思える人でもこの手の人は存在するのである。まあ、幸不幸の尺度など個人的な感覚なので何とも言えないが・・・。もしかしたら「恵まれていて幸福なこと」に対する拒否反応ではないかと最近は考えるようになっている。もしかしたらこのような事は、「不幸」という何らかの元凶が歴然と存在しているのではなく、「平凡で平和で恵まれすぎていることに対する不満」ではないのかとさえ思ってしまう。不遇である自分を設定し、その感傷的な世界に浸る事に何らかの生きている実感を得ようとしているのではないだろうか。もしそうだとすれば、それは「不幸」などではなく「不満」であろう。そしてその不満こそが本人の言う「不幸」の母体なのかも知れない。

そして「不幸」や「不満」は、人生の付録でもあり、その付録から逃れることは何人たりとも出来ない。またその反面、「幸せ」や「喜び」も付録として付いていることも確かだ。その中でも「不幸」や「不満」というのは、大きな箱に入っていて目立つ。しかし「幸せ」や「喜び」は、小さい箱に入っているため忘れがちである。僕たちはいかに自分が不幸で虐げられているかを観察するのではなく、いかに自分が幸せで恵まれているかを観察するべきである。平和で恵まれているにもかかわらず、その中から些細な不幸だけを取り出して、感傷の中に居場所を創造することは不毛なことであるし、何ら生産性を伴わないばかりか、自身を本当の意味で不幸にしてしまう。時には、いかに自分が恵まれているのかということも大いに観察するべきなのである。

「我慢」や「忍耐」とかいう言葉は最近では冷笑される死語であるかもしれないが、不幸や不満を漏らさず、自分で抱え込み、それでも生きてゆける強さは時代が変わっても必要なものであり、そこで熟成されたものこそ人間の強さを育むのかも知れない。水がこぼれたら、誰かが拭いてくれるような至れり尽くせりは、優しさという名前の付いた甘やかしになりかねない危険性を孕んでいる。まずは水がこぼれてしまわないように自助努力をすること、それでもこぼれてしまうなら、大いに手を貸し助ければいい。親切な人が周りで雑巾を手にして、誰かの水がこぼれるのを待ちかまえているような優しさは筋違いなのである。

などと、書くだけ書いてしまってから僕自身がこれを読み返しながら自らを反省するんだけどね・・・。




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