FC2ブログ
2011.05.23 損得勘定
学生時代に教育され、社会に出て更にまた教育され、資本主義の論理を説かれて経済至上主義の思考にどっぷりとつかる生活をしていると、損得勘定以外で事を為すことが難しくなる。人間というのは結局の所、損得であらゆるものを判断しながら行動している。などと書いている僕自身もその仲間のひとりなんだけどね。そんなふうに考えると組織というものは、何らかの共通の理念の元に集っているような様相を呈してはいるが、その実態はそれぞれ個別に自分の損得を判断して行動する人間が単に集合化している現象にしか過ぎないのかも知れない。だからといって全部がそうなのかと言えばそうではない。もう現代では「志」などと言う言葉は古くなって死語になっているかも知れないが、僕はこの言葉に言いようのない魅力を感じる。まあ、簡単に言えばオヤジになったということなんだけどね。その他にも惹かれる言葉はある「大義」とか「恥を知る」とか。このような言葉の陰には日本古来の武士道的な精神があるのかも知れない。世の中を生き抜く為には損得勘定は確かに必要であるが、それを超えた「志」も同じように必要だと思う。

個人で仕事をしていると組織のうっとうしさに気が病んでしまうことがある。それはどんな時かといえば、損得勘定抜きの「志」で事を為そうとするときだ。このような事をするときは出来る範囲は狭くなるが単独で行動する方が結果が出せる。何故かというと、自分の「志」に対して他者は「損得」を持ち込んでくるからだ。勿論、全員がそうであるという意味ではないが、現代人は中々「志」などでは懸命にはなれないのだ。損か得かの生活が習慣化している現代では、思考パターンもすべてそのようになってしまうのだろう。結局は理念も「志」もいつの間にか消え失せて、利害関係だけが残る。まあ、利益追求の商業活動ならそれでもいいのだが、それ以外ではうまくいかない。人間は心で繋がるという言葉は美しいが、現実には利害で繋がり、損得で動く方が圧倒的に多いのだろう。今までの自分を振り返って考えてみてもそれは当てはまる。自分自身の中に湧き起こる「何かしたい」という思いの為に犠牲になっていった人間がどれほどいたのだろうかとふと考えることがある。何かするための「機会」を与えてくれたのも他者であり、「場所」を与えてくれたのも他者であった。その挙げ句に失敗などしようものなら、その責任はいつも自分ではなく他者が取ってきたのだろう。「やりたい放題の事をやって責任は誰かが取る」僕の若い頃は、振り返ってみればまるで寄生虫のような生き方であった。機会を与えられたことに感謝も出来ず、場所を与えられたことにも感謝できず、傲慢な行動の尻ぬぐいは誰かがしていることにも気づかずに生きてきたのだろう。

結果的には自分を省みて得た経験から、人を嫌うようになり、組織を嫌うようになった。そしてそんなふうに過ごしているうちに気がつけば詩人というよく分からない名称で呼ばれるようになったのだ。しかしながらオヤジになった今でも「誰かを信じたい」という甘っちょろい妄念は消えないのだ。なので性懲りもなく組織を作ったり、集団で何かをしようなどと考えてしまうのだ。いつも「もう一度だけ」「これが最後」などと言いながら、いつの間にか大勢の人に囲まれてしまう毎日を選ぶようになっている。「相手の気持ちで考える」「相手の身になる」これは中々出来ないことで、感情移入は出来ても行動が出来ない。そして気がつけばいつも「損得勘定」が頭に浮かぶ。いつも「誰かがやるだろう」と甘えながら人間は生きている。金八先生は「人という字はお互いに支え合って立っている」と言うが、実際は「支えるだけの人間と寄り掛かるだけの人間」がいて、人という字は立っているとも言えるだろう。僕は今まで生きてきた中で「志を持って大義を為し恥を知る心」を持ち合わせた人間を一人しか知らない。考えてみれば、それだけでも奇蹟のようなことなのかも知れない。まあ、結局は何を書きたかったのかと言えば「自戒」の意味を込めて自分自身に「お前はどうか?」と、問い直したいだけだったのかもね。


僕の借金

あなたの優しさに答えられず
当たり前だと言い捨てた僕という人間

与えられたものにも喜べず
不満をさらけ出した僕という人間

投げ捨てた塵を掃除するあなたの姿に
気がつくこともなく暢気でいられた僕という人間

幼い子どもの飢餓に涙したその晩に
トンカツを平らげた僕という人間

募金箱に善人面をしながら
10円玉を投げ入れた僕という人間

僕という人間を許し
僕という人間を支えたあなた

僕には大きな借金だけがある
だからそれを返すために僕の人生はある






スポンサーサイト