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誰も知らない恋の物語
 
今はすっかりこんな姿になってしまいましたが、私もかつては美しい緑色でした。
体は無垢の木、手足はお洒落なデザインの鉄製です。
いつも不機嫌だけど腕のいい職人と、飲んだくれだけど春の新緑にも負けぬほどの素敵な緑色を混ぜ合わせるペンキ屋のおやじ。
人は男と女の間に生まれるといいますが、私はこの二人の父との間に生まれたのです。
あれから20年、幾千万の靴と、数千匹の犬と気まぐれな猫たちが通り過ぎ、大小様々なお尻と、痩せっぽちの人生とやらが泣いたり笑ったり、時にはささやきあったり、それはまあ賑やかな日々でした。
新参者の私は、はじめの頃にはずいぶんと皆に嫌がらせをされたものです。梅雨の雨は私の手足を弱らせ、秋には沢山の枯れ葉が私の体を覆い尽くしました。
しかし、嫌がらせだと思ったのは私の勘違いでした。彼らには彼らの変えられぬ運命(さだめ)と自然の法則があったのです。そう、仕方のないこと。分かりますよね、仕方のないこと、です。
ああ、そうそう、そんなことはどうでもいいことでした。
あれは19年前の春。ここに来て1年目の春。そうあの春のことです。彼女はあの噴水のしぶきの作り出す虹の向こう側からふわりと現れたのです。いや、そこから生まれたのだと思いました。いいえ、彼女は汚れのない水そのものでした。
そして彼女の衣は風になびく絹のようにその裾を広げ、顔には限りない優しさをたたえていました。私は居ても立ってもいられずに思い切って叫びました。
「こんにちは」するとどうでしょう、彼女も優しく私に微笑み返しました。
「はじめまして。私は、私は椅子です」彼女は何も言わず、それでいて全てを理解したようなそぶりでひとつ頷きました。
「えっ、そっちへ?今すぐ行きます」私はそう答えた自分の運命(さだめ)を呪いました。一歩も動くことが出来ないのです。私は両手両足の四方を、このいまいましい石畳に縛り付けられ、身動きひとつ出来ない自分に初めて気がついたのです。
愛しい人が微笑んで私に手招きさえしてくれているのに、どうあがいても彼女の元に駆け寄ることが出来ないのです。わたしはふと、いつだったかこの私の上で今の私と同じようなことを語る二人の男女のことを思い出しました。
恋人達は涙に暮れ、男は必死に弁解していました。
私は生まれながらにして椅子なので、男の言うことに嘘のないことはお尻の熱で分かります。そう、誰も私に嘘は付けないのです。
気の毒なあの日のあの男。彼も又、椅子に座った椅子だったのかもしれません。両手と両足を石畳に縛り付けられた哀れな男。
私は不自由な身に生まれたので更によく分かるのだと思いますが、肉体のいかなる困難も不自由も超えて、心というものは跳躍し飛翔して止まないものだということを。そして、その跳躍し飛翔して止まないこの心というものの為に、命はどんなに思い悩まねばならないのかということを。
あれから20年私は神の残酷さを知り、すっかり無神論者になり果てました。見るだけで触れてはいけないと神は言います。私の情熱は彼女に触れて、そしてこの手でつかみ取り、噛み砕いて飲み込んでしまいたいと感じているのに。そう、彼女と何もかもを共有したいと願っているのに、「見るだけだ」と神は言います。「道徳」とは、なんと残酷な仕打ちを私に課すのでしょう。
そして、20年目の今日。全ての運命(さだめ)を跳ね返す嵐がやってくるのです。今日、この公園は不気味なほど静まりかえり、昼から次第に風も強くなってきました。今夜、老いた私の体は、この風に耐えられそうにありません。夢を抱いて生きて恋をしたものの、何も得ることが出来ず、与えることも出来ず、私は私に与えられた運命(さだめ)という人生を生き、そして今夜私はきっと朽ち果てて死んでしまうのでしょう。
そして、私の思ったとおり、風は嵐となって私に襲いかかりました。運命(さだめ)と道徳に縛られていた私の両手と両足は、大地から解き放たれ体は265枚の破片に分割されてこの世のありとあらゆる方向へと吹き飛ばされました。
そして、やがて朝が来て気がつくと、私の心臓は彼女の懐の中に抱かれていました。もはや私は心だけになってしまいました。水面に漂う私の心臓。
その時、彼女はそっと私にささやきかけました。
「ずいぶんとあなたを待ちましたよ」心だけになってしまった私もそっと彼女にささやきかけました。
「私はずっと、彼方を想っていました。しかし私は、人の子のようにあなたを海にも、山にも、連れて行くことは出来ません。そしてあなたを抱きしめるはずの両腕どころか、体さえもなくしてしまいました。何もない心だけの私はなんの役にも立ちません。もうあなたを愛する資格さえ失ってしまったのです」
「いいえ、そんなことはありません。私もずっとあなたを想っていましたよ。この千の目に映るあなたの心はいつも正直でした。人の子は時に、その愛する者さえ責め立てます。自由な体は心と同じように跳躍し、飛翔します。そしてやがて心は置き去りにされ、果てしのない理想と欲望の中に死に絶えるのです。幾千万もの人の子が、私の足のこの見事な彫刻を褒めたたえましたが、皆、通り過ぎていきました。そして、たった一欠片の心さえそこにとどまることはありませんでした。私の懐の上に漂うあなたの心臓も、やがては一片の塵も残さず跡形もなくこの世からやがて消え去ることでしょう。それでも、私たちはなにか消えないもので結ばれ続けるでしょう」
そして私たちは心だけで抱きしめあい、心だけで口づけを交わし、心だけでひとつになったのです。
誰も知らない静かな恋の始まりは、終わらない恋の始まりでもありました。





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