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震災後、よく聞く言葉は「自分にいま出来ることを考えよう」というフレーズだろう。
このフレーズを安易に飲み込んでしまう前に考えねばならないことは「想像する」ということだ。
出来ることはそれぞれに沢山あるだろうが、その出来ることに節度を与えるのが「想像力」というわけだ。
そしてこの「想像力」は、行動の前段階に位置していなければならないだろう。
何故なら、苦しんでいる人は自分ではなく他者であるからだ。
この辺りの関係性を軽視するとどうなるだろうか?そう、話は簡単で「余計なお世話」になる。
余計なお世話ならまだいいが、折角の善意が悪意にに満ちたものにさえ見えてくる危険性もあるだろう。
そうならないためには、「自分にいま出来ることを考えよう」を鵜呑みにする前に他者の状況を思いやる必要がある。

例えば、僕は稚拙な詩を書く詩人であり、演劇もやっているが、出番はまだ遠いと感じている。
そもそも文芸や芸術などというものは、衣食住という最低の暮らしが土台にあってはじめて楽しめるものだ。
しかし、いま苦しんでいる人々にはそれすらない。それにも増して家族や友人の死を突きつけられている。
そこで想像力の出番だ。
例えば、自分が住む家を無くし不安な状況の時、詩を読みたいと欲するか?
食べ物もなく空腹に苛まれているとき君は演劇を観たいと欲するか?
全員が思わないとは断言は出来ないが、おそらくそんなものは読みたくも観たくもないだろう。
それなのに、奉仕する側の一方的な論理だけで他者に「出来ること」を押しつけることは悲劇である。
そして、人間を「被災者」としてひとくくりにする目線も大変危険だと感じている。
コミュニティとはいわば個人の集合体であるから、その集合体を形成しているのは個人である。
だからひとくちに「被災者」と言っても、状況や心情は人の数だけ多様なのであろう。
要するに「被災者は個別の苦しみを背負っている」のであって、「被災者」という言葉でひとくくりにしてしまう論理は乱暴であり、想像力の欠如だとも言える。

こんなメッセージも気になる「自分は○○だから、○○しかできない」と自己限定した上で、「自分にいま出来ること」を押しつけてくる。他人の悪口を書くつもりはないので、例えば自分に置き換えて書いてみるとこうだ。
「僕は詩人だから詩を書くことしかできない。だから被災者を勇気づける詩をおくります!」と公言したとしよう。
そして、そう公言した日が、その被災者にとっては未曾有の恐怖といままさに向き合っている時だとしたらどうだろうか?
また、「避難所生活の方を勇気づけるために避難所で演劇をやりたい!」と、公言したとする。
そして、その公言した日、被災地では誰もが食料もなく餓死寸前で、肉親の安否を気遣い眠れない夜を過ごしていたとしたら?とてもこんな異常なことは言えないし、言うべきでもないと、誰もが思うだろう。
だからこそ、「自分にいま何が出来るかを考える」前に「想像力」が必要なのだ。
そして肝心なのは被災者に向き合う自分を「詩人」などと考えることそのものがナンセンスである。
人に向き合うのであれば「人」として、最善を尽くす覚悟をするべきなのだ。
「○○だから、○○しかできない」そのような考えを否定するつもりはないが、それを発揮するべき「時」というものは判断するべきだろう。
折角の善意が実りの多いものになるためには「待つ」ことも必要だし、「謙虚さ」も必要なのだ。
それまでは、詩も演劇も出番はない。
ひとりの人間として、小さなことをさせてもらうしか仕方がないのだ。

衣食住が満足いくほど足りることはないかも知れないが、被災者の心に「退屈だなあ」という余裕が出来る日を待ちわびたい。そのときこそ、普段役に立たない詩人の出番がやってくるかも知れない。演劇をみせることで笑ってくれるかも知れない。「いま出来ること」に節度を持たせるには「いま何をやるべきか」ということを判断するための「想像力」が不可欠だろう。



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