FC2ブログ
2011.03.23 震災と心災
僕の記憶では「言って良いことと、悪いこと」を小学生の頃に習った気がする。中国が台頭し日本経済を追い抜いたとかで、彼らとの関係においてよく引き合いに出される話なのだが、彼らは歯に衣着せずにはっきり物事を主張する国民であるらしい。僕には中国人の友人がいないから実際のところは不明なのだが、それが本当だとすると日本人とは明らかにアイデンティティーが違うのだろう。

日本人は言いたいことがあってもそれを飲み込んだり、また、オブラートに包んだりするのだが、相手が歯に衣着せずに対応してくるとしたらやはり日本人としては困惑してしまう。しかし、国民性という視点で考えればこのような日本人の態度はマイナスな点ばかりではなく、それこそが日本人が世界に誇るべき「優しさや思いやりの心」の母体なのだとも言える。相手を思いやることで「話す、話さない」と判断しているのだろうし、ある意味それは日本古来の「おくゆかしさや謙虚さ」の表れであるのだ。

今何故こんな話をするこというと、その日本人のアイデンティティーが崩壊しつつあるからだ。ひと昔前なら、個人的な悩みや苦しみはもとより、自分の抱えている過去や胸の内などは、隠すのが常識だったような気がする。それにも増して他者に対する言動においても「言って良いことと、悪いこと」は、たとえ喧嘩といえども許されるものではなかったように思う。言葉の揚げ足をとったり、勘違いするなどということは日常茶飯事だが、勘違いも出来ないような露骨な言動を多用することは避けていたはずだ。しかし今その常識とやらは崩壊寸前である。

では何故そんなことが起きてしまっているのだろうか。僕が思うにそれはやはりインターネットの普及と比例していると思う。主張する手段を持たなかった一般庶民や弱者が表現手段を手に入れたのである。そのこと自体は良いことなのだと思うが、年々過激さを増していることは問題である。世間ではインターネットの功罪が取りざたされているが、功罪を語るつもりはない。いずれにしろ全てにおいて一長一短あるものだからである。それでは何がそんなに問題なのか。それは、顔の見えない匿名の環境によって引き起こされる過剰で自制心のない個人的主張の肥大化である。ネットの掲示板では、特定の事象についての論争が連日繰り広げられている。その多くは主観的な主張の攻防であり読んでいると虚無感さえ感じる。さらには個人や団体を名指しで誹謗中傷する書き込み。しかしこのどれにも共通するのものがある。それは「他者を裁く」という思い上がりである。そしてその論理の裏付けは個人の主観と感情に支配された単なる戯言である場合が多い。何故このようなことが平然と連日行われているのだろう。それは簡単に言えば、その対象になる人物や団体を「思いやる」必要がない環境だからであろう。顔をつきあわせて話をすれば、誰もここまで言いたい放題な態度は出来まい。要するに直接ではなく間接的に機械を通じて行われる環境において意思の疎通など必要ないからである。であるから主張はおのずと一方的になるのであろう。書くだけ書いて、返事を読まなければ簡単にシャットアウトできるし、犯罪行為に該当でもしなければ責任もとる必要がない。相手を否定さえすれば、自分の主張が正義になるような勘違いを起こしてしまう。まさに無法地帯と化した仮想現実の世界が現実の世界の人間関係を崩壊させようとしている。「他者を裁く」という行為がストレスの発散の手段となる危うさが現代には蔓延っている。

もう一つは「過剰な擁護」であろう。話は変わるが、鮭を沢山捕るために養殖を始めて数年もすると、触っただけで壊れてしまうような卵が出てくる。換言すれば「困難に対する耐性の退化」という現象が起きてくるのである。そしていったんそうなってしまえば、擁護し続けることしか手段はなくなる。何故、鮭の話などするのかと疑問に思うかも知れないが、このことは人間にも当てはまるし、その壊れてしまう「卵」が、「心」に変わるだけだからだ。過剰な擁護は人間の心を弱くしてしまうのだ。本来なら擁護することで弱い部分を補い、本来の強さを回復できるように努めることのために擁護する必要があったのだが、このことが本末転倒しつつある。擁護することで、弱さを助長させてしまうような「過剰な擁護」である。その結果、前例の鮭の卵のように、擁護し続けなければならない状況に陥る。これも換言すれば「擁護」ではなく「破壊」にしか過ぎない。過剰な擁護が人間の心を壊し、壊した心をまた擁護するという悪循環に陥ってはいないだろうか。幼子に飴を一つ与えれば、二つ目を欲しがるだろう。このとき親は際限なく与え続けるかといえばそうではないだろう。どこかの時点で「もう駄目」と言わざるを得ないのだ。これが、過剰さに対する節度であろう。

東日本大震災は甚大な被害を出し、多くの犠牲者と被災者と破壊された街を生んだ。僕は報道でその惨状を観ながら別のことを考えていた。それは、目に見えない所で発生している「心の大震災」つまり、「心災」である。この内部で起こる甚大な被害は目に見えない。泣き叫ぶ者も死んでゆく者も取りざたされない。年間3万人の自殺者も、同じような数の児童虐待も本来なら国と国民をあげて擁護するべきなのだ。自制心を失い虚無というバーチャルな電脳広場で裁きを繰り返す者たち、擁護されながら壊されてゆくその心と精神。それも同じように手当するべきなのだ。この東日本大震災は日本人にとって岐路となるだろう。被災された人々に寄り添い、被災しなかった人々に寄り添い、見えない場所で今日も発生し続けている「心災」にも寄り添う必要があるだろう。そして僕自身も変わらなければならないだろう。反省し学び直さねばならないだろう。ぼんやりと怠惰な日々を過ごしいても良かった時代は大津波と共に過ぎ去った。「何が出来るかを考えよう」などと、暢気なことは言っていられない時代の幕開けに気がつかなければならない時が来たのだ。これからの困難な時代に何を抱えて歩めばよいのか、それは「覚悟」という二文字なのではないかと思っている。


スポンサーサイト