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2009.08.18 二人
二人

男は疲れ果てた日雇いの人夫であった。
引っ越したばかりのこの部屋には家財道具もなく、薄汚れた敷きっぱなしの布団と洗面道具とヤカンがひとつだけあった。
雨続きで仕事も無い梅雨のある日、男は窓の外を恨めしそうに眺めながら、膝をたてたまま押入れの戸に寄りかかって座っていた。男は自分の人生を想っていた。もう20代も終りというのに女っ気もなく、ろくな仕事も金も無い自分を振り返り、ため息をついていた。その時、不意に押入れの戸が男の背に押されて外れた。膝をつきながら起き上がり、向き直ると、外れた戸の隙間から光が差し込んでいることに気が付いた。
「なんだろう?」男は戸を開けた。するとそこには野原が広がっていた。とても不思議な光景だった。野原は押入れの内側から丘になっていて、その先には青空と太陽が見えていた。
そして男は吸い込まれるようにそこへそっと足を踏み入れ、丘の上へと歩き出した。丘の上まで来ると景色が広がった。やがて何処からともなく芳しい香りが漂ってきて振り返ると、そこには女が立っていた。とても美しい女だった。
「ここに来ては駄目」女は優しい眼で、しかし厳しさのこもった声で言った。
「ここは何処?」男は女を見つめながら言った。
「ここは、あなたの来てはいけない場所。あなたはここに居てはいけない。早く自分の居るべき場所へ帰りなさい」女は男の目を見据えたまま答えた。
「どうせ、帰ったところで俺には何も無い」男は足元に咲いている花を足で揺らした。
「何も無いの?」
「何も無いね」
「そうなの?」
「そういうことさ」
「未来があるじゃない」
「どうかな」
「恋人が待っているわよ」
「いないよ、そんなの」
「いるわよ」
「女は昔っから、いないんだよ」
「未来には?」
「未来は知らないさ、でも、多分無理だな」
「早く帰りなさい。未来の時間を使い果たしては駄目」
「まあ、どうでもいいけど。そんなに言うなら帰るさ」男は不機嫌になって歩き出し、丘を下り押入れの敷居をまたいで自分の部屋に入った。そして振り返ると丘の上を眺めた。しかしそこには女の姿は無かった。
「頭がおかしくなりかけてるな」男は押入れの戸を掴むと、元のようになおした。そこには何も無い空っぽの空間と、押入れの棚があるだけだった。
「やっぱり」
男は薄汚れた布団にもぐりこむと、頭まで布団をかぶり眼をつむった。瞼の裏にはあの野原と、美しい女の顔が焼きついたまま離れなかった。

翌朝、久しぶりの仕事を男はすっぽかした。何をやっても無駄なような気がした。自分がいつからこんな風になってしまったのか男は考えていた。思えば学生時代は仲間も沢山いた。一度は人並みに就職もした。将来は喫茶店のマスターになりたいというささやかな希望もあった。
しかし、自分が動かなければチャンスは来ない。その事を男は知らなかった。ただただ、幸運が天から降ってくるような妄想だけがこの男の心を支配していたので、この男は今の様な暮らしをする羽目になった。そして、年月が過ぎ、その事を今や一番よく悟っているのはこの男だった。しかし、もはや何をやっても無駄なような気がした。出来ればやり直したいがそれは無理だった。ただただ無気力な毎日が、ただただ積み重なる日々だった。

最後の金で弁当も買わず、男は酒を買った。三本のカップ酒を一気に飲み干すと、世界はこの男の人生のように歪んで見えた。そして男は、酔っ払いながら押入れの戸を開けた。そこにはまた野原があった。男は黙って丘の上を見つめていた。そしていつしか男は泣いていた。どうしようもなくこの人生が悔しかった。汚れたシャツの袖で涙を拭い、目をあげるとまたあの女が立っていた。
男は立ち上がると野原に踏み出した。
「ここに来ては駄目」また、女が言った。
「俺はもうどうでもいい。そこに行ってもいいだろう?」
「ここに来ては駄目」
「なぜ駄目なんだ!」
「未来の時間を使い果たしてしまうから」
「未来なんて、ないんだよ」
「いいえ、あるわ」
「何処にあるんだよ、もう疲れたんだ。俺はもう死にたい」
「恋人は?」
「恋人もいないし、誰も悲しみはしないさ。何も無い男さ」
女は優しく寂しげな顔で答えた。
「あるわ」
「何が?」
「希望よ」
「そんなもん無いよ」
「明日、仕事へ出かけなさい。あさっても、そのまた次の日も」
「何も変わりゃあしないさ」
「押入れの戸を閉めて、二度と開けては駄目。そして仕事へ行きなさい。そうしたら、私が傍にいてあげるから」
「君は誰だい」
「私はいつかやって来る人よ。あなたが私を忘れた頃に、私はあなたの所へ現れるの。でもあなたは私の事をわからないの、でもいつか、きっと私の事を思い出すわ」
「これは夢か?」
「いいえ」
「じゃあ、なんだ」
「ここはあなたの創り出した世界。あなたの理想の丘よ。でもそれは現実じゃない。あなたがここを彷徨っているうちは、それは決して現実にはならない。未来の時間を使い果たしてしまっては駄目。さあ、帰って。明日は必ず仕事へいきなさい」
「ずっとここに居られれば、現実なんていらない」
「現実の世界で、あなたの理想を叶えるのよ」
「どうだろうな」男はため息をついて答えた。
「大丈夫よ、さあ、行って」
「君はどうするんだ?何処に居る?」
「あなたが丘の上から見下ろしたあの遠い街に住んでいるの」
「そこに行こうじゃないか」
「行けないわ。道が無いもの」
「じゃあ君はどうやって来たんだい?」男は女を改めて見つめた。よく見るとその女の足は傷だらけで、そこには血が滲んでいた。女は何も言わずに少し微笑んで見せた。
「最後にお願いがあるの。現実の世界に戻って私を探して」
「ああ、そうだな」男は女を見つめながら静かに言った。
女は振り返ると丘の向こうへと歩き出した。男はわずかに女を追って走り、そして立ち止まった。男の足元いちめんに野バラが咲いていた。痛々しい棘の上を歩きながら女はやがて見えなくなった。男は黙って暫くそこに立っていた。

気が付くと、男は薄汚れた布団の中にいた。起き上がると少し頭が痛んだ。水を飲もうと台所まで行き、戻ってくると男はまた布団の上に座り込んだ。
「また同じ夢か」男はぼんやりとしながら、さっきの夢の出来事を思い出していた。
そして無造作に押入れの戸を開けてみた。やはりそこには野原は無かった。しかし蛍光灯の明かりに照らされた押入れの奥に何かが落ちているのが見えた。そこには一本の赤い野バラがあった。男がその花を手に取ると、何処からとも無く芳しい香りがして、耳の中で声が聞こえた。
「私を探して」
不思議なことに、男の胸に言いようの無い希望が、雲のようにわきあがってきた。男は布団の上に座り込んだまま朝を迎えた。洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。そして敷きっぱなしの布団をたたむと、身支度を整えた。男は一息、深呼吸をすると玄関を出た。外は晴れ渡り雲ひとつなかった。

老人はあるとき、そんな遠い昔の出来事を突然思い出した。
公園のベンチに座り、長いあいだ連れ添った女房と二人で、いつものように話をしている何気ない日だった。この二人の老夫婦は家族に恵まれ、二人の孫にも恵まれた幸せな人生を送っていた。
そして、老人はあの遠い昔の夢とも幻ともつかない出来事を、たったいま鮮明に思い出したのだった。
「なあ、お前、変な話をすると思うかも知れんが、遠い昔の若い頃に、不思議なことがあってな、それは・・・」と、言いかけて老人は話しを止めた。
何処からとも無く芳しい香りが漂ってきて、耳の奥で声がしたからだった。
それは、何処か懐かしい女の声だった。
「思い出したのね」
老人は少し驚いたような表情をして、女房の顔をしげしげと見つめ直した。あの夢とも幻ともつかない丘の上で出会った女の顔を、女房の顔に重ね合わせていた。
そして老人はひとしきり頷いて涙を一粒流すと、女房の肩を優しく抱いた。
二人は寄り添いながら、夕日の中にいつまでもいた。
赤い野バラの咲く頃の、そんな一日だった。





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