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いつの頃からだろうか、宿題でもないのに文章を書くようになったのは。
多分それは10代の頃だったと思うが定かではない。

学校の勉強は苦手だったが、何故か国語だけは好きだった。
それは、国語の回答にはすごく幅があり、
とんでもない答えでなければ先生が○をくれるのを知ったからだろう。
勿論、ずばり正解しないと駄目なものもあるが、
この曖昧さは数学にはあり得ないことだ。

中学2年の国語の時間に教科書に載っていた誰かの詩の感想を求められ、2時間話したことがある。
つまり、当日の1時間しゃべり続け、翌日の授業は僕の感想の続きで終わった。
まあ、今から考えれば異常なことだろうが、当時の先生達にははそんな余裕もあった。
他の教科の成績は1とか2だったが、国語だけは良かったのを覚えている。
作文の授業があった翌日には先生がみんなの前で僕の書いたものを読むのが通例だったし、
短歌を書けば、職員室に呼び出され、国語科の先生全員に質問されたり絶賛されたりした。
しかし僕は、何故自分が文章を書けるようになったのか不思議だった。

思えばそれは、不遇な少年時代を過ごしたことに起因しているかも知れない。
大人の都合を突きつけられ、人の心を洞察する習慣がついた。
そしてその苦しみや悲しみから逃避するために、別の世界を創造した。
簡単に言えば、想像の中で創造された世界が僕の居場所だったともいえる。
やがて抱えきれなくなった心が、僕に文字を書かせたのだろう。

書くということは、刻みつけることに似ている。
自分の感情を彫るのである。
では何故に彫るのか?それは恐らく不安からだろうと思う。
また、書くことでそれを客観視できるからだろう。
文章を刻み込む度におとずれる言いようのない安堵感。
僕は生きることで背負った重荷を書くことでそこに置くことができた。
現実の不幸を紙の上に刻みつけてしまえば、また新しく生まれ変われるような気がした。
そしてそれは、今も続いている。
僕にとって書くことは単なる伝達の一手段ではない。
人生に起こる様々なことを真剣に吟味してゆくように、言葉を推敲してゆく。
ここには自分が自分に課した掟があるだけで、他から完全に解放された自由な世界がある。
現実的には稚拙な文章しか書けない愚かな詩人であろうとも、
書いているときだけ、僕は完全に自由なのである。
求めても得られない不安と得たものを失う不安の中で僕たちは生きている。
プラスもマイナスも考えなくてすむのは、酒を飲んで煙草を吹かし、
自分の世界に浸っていることができるこの瞬間だけなのだ。



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