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2009.08.18 水底の街
水底の街

何日も前から、男はその赤ちょうちんの灯りと、古くて薄汚れてはいるが、趣のある暖簾を眺めていた。旅の途中に立ち寄る飲み屋には、何か言い知れぬ期待感があるものだ。その反面、一見さんの自分が、見知らぬ店の玄関を開けるのだから、多少の戸惑いがあるのも事実だった。しかしその夜、彼はとうとう、その店の前に立って決心したのだった。

「こんばんは」男は言った。
女将らしき女が答えた「いらっしゃい」
「今日は冷えますね」
「もう、春なんだから、冬よりはましさ」客の男が口を挟んだ。
「でも、雪代が山から流れ込んでいるから、水は随分と冷たいよ」もう一人の客の女は男の顔も見ないで話した。
男は言った「水って、何の水ですか?」
「川の水さ。あんた、随分と変な人だね」客の男が言った。
「何かおかしいですか?」男は聞いた。
「からかうのはよしなさいよ。」女将が優しく客を諭した。
男は椅子に腰掛けて、冷え込んでしまった手をこすり合わせた。
「熱燗を下さい」男は気を取り直して言った。
「ごめんなさい。熱燗はないのよ。」
「そうなんだ。皆さん何を飲んでるんですか?」
客の男が男をしげしげと見つめながら言った。「人間だ」
客の女も振り返って話した「やっぱり、人間なんだね。あんた」
女将は黙って、グラスを男の前に差し出した。
「うちは、これしかないのよ。どうぞ」
男はそのグラスに口をつけた。
「これは、水じゃないですか」
「そうよ。早く海に行けるように。飲みなさい」女将は優しく言った。
「まだ、未練があるよな。お互い」客の男が言った。
「何の未練です?意味がよく分らないんだけど」
「あんた。この店の前の旅館に泊まっているんだろ?一週間ぐらい前から、あんたがぼんやりした顔で、窓に腰を下ろしながら、こっちを眺めていたのを、見ていたんだよ」
「そうですよ。この店の川向こうの旅館だけど」
「川向こうね」客の男は何故か寂しげだった。
「それで、とうとう、こっち側へ?」客の女が聞いた。
「初めての店は、なかなか、入りづらいものでね」男は言い訳した。
「誰だってそうよ。私なんか3年もかかっちゃったわよ」
「3年ですか?長いですね」男は冗談だと思った。
客の女はため息をついて答えた。「子供がいたからね」
「子供が寝ないんですね」
「そうじゃないのよ」客の女は泣いているように見えた。
女将は優しく、客の女の手を握って、何度もうなづき、静かに口を開いた。
「急ぐことはないけど、もう、仕方が無いのよ。早く海に行きなさい。水平線の向こうまで続いている塩水の中に、涙を捨ててくるのよ、そうしたら悲しくなんかなくなるからね」
「そうかな。女将はなんで、海に行かないんだい?」客の男は呟いた。
「私はね、誰よりも先にこの街に来たのよ。だから、後から来る人たちの面倒を見るの。あなた達の様な人をね」
女将は優しく悲しげな眼差しで皆を見た。
「何の話か、よく分らないな、僕には」男は少し不機嫌になって、柱時計に目をやったが、それは止まったままだった。
「今に分るよ」客の男は言った。
「どうなんでしょう」男はため息をついた。
客の女は、一升瓶を持ち出して、男のグラスに中身を注いだ。
「明日、三人で海に行かないかい?わたし、なんか、今なら海にいけそうな気がするんだよ」
「急に悟りを開いたって、訳かい?俺はいやだね」客の男が言った。
「そういう訳じゃないんだけどね、仕方ないんだよね」
「いつまで経っても、未練ってもんがある」客の男はグラスを一気に飲み干して言った。
「そりゃそうだけどさ、もうあんたの恋人もとっくに結婚して、
今じゃあ誰も花束さえ、流してくれないじゃないか。そろそろ決心しなよ」
「嫌なこと言うな、お前。だけど、お前の子供は毎年来るじゃないか。いいのかい。永遠のお別れだぞ」
「とっくに、永遠のお別れじゃないか、お互いにね」客の女はグラスの水滴を指でなぞりながら呟いた。
「そりゃあ、そうだ」客の男はきっぱりと言った。
二人のお客は泣きながら、笑っているように見えた。
男は言った。「そういうことか。そういうことなんだ」
女将が、男に優しく言った。「そういうことなの。辛かったわね」
男の目からは、いつしか涙が溢れ出していた。
「もう少しここで飲んでてもいいかな?朝には僕も海に行くよ。僕には、未練に思う相手もいないから」
「いいわよ」女将は言った。
それから、三人はもう一本、新しい一升瓶を開けた。
もう、誰も泣いてはいなかった。
三人は海に着いたらどうしよう。などと、夢の話をして朝まで騒いだ。
河原では沢山の赤色灯が音もなく点滅を繰り返し、
作業服の大勢の男たちが長い棒を川底に突き刺している。
そして、その川面には向かい岸の飲み屋の赤ちょうちんが、
風に震えながら揺らめいて映っている。





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