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安ホテルから戦争記念館へ向かう通り道にイスラム教のモスクがあった。
中はガランとして誰もいない様子だった。
こんな所へ入ってもいいのかは分からなかったが、とにかく階段を上り礼拝堂へ。
すると入り口に初老の男と老婆が美しいタイル張りの廊下に座っているのが見えた。
目があったので挨拶をすると初老の男は涼しい目元で微笑んで頷き、
老婆も物珍しそうに僕を見つめていた。
はてさて、本当にこの場所には来ても良かったのだろうか?
他には地元の人も、観光客もいない。
初老の男は何やら経文の書いてある紙を僕に渡してくれたのだが、読めるはずもない。
ただ頷いて微笑みを交わすことしかできなかった。
すぐにその場を立ち去るわけにも行かず、僕も彼らと同じように廊下に座り込んで、
しばらくは静粛な時間に浸ったいた。
門の外の道路には、相変わらずの雑踏と溢れんばかりのバイクが通り過ぎていく、
しかし、ここは何処か世間と切り離された空間のような異彩を放っていた。

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戦争記念館のことはあまり書きたくないと書いたのだが、
実を言えば何をどのように説明していいか分からないのである。
もし読者の中に興味のある方がいれば、自分の目で確かめてみるのが一番いいと思うからだし、
何枚かは写真を撮ってきたのだが、公開するにはあまりにも無惨なのでやめておこうと思ったからだ。
そこで僕の好きな戦場カメラマンの沢田教一さんの写真を一枚だけ載せる。
故郷を遠く離れたサイゴンで命を落としてしまった彼の冥福を祈りつつ。

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さて最終目的地のサイゴン大教会に着いた。
ここは聖母マリア教会とも呼ばれている美しい教会だ。
しかも1日中観光客を受け入れているわけではなく、午前と午後にそれぞれ数時間程度。
正面には大きな十字架のキリストが高い天井に吸い込まれるように掲げられ、
その両脇にはマリア様や精霊達の像やイコンが小さな区切りのある祭壇に祀られていた。
薄暗い礼拝堂の祭壇には蝋燭の火が点され、熱心に祈りを捧げる人たちが見える。

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僕も礼拝堂にひざまずいて祈りを捧げた。
ちなみに、僕はキリスト教徒でも仏教徒でもはたまた他の門徒でもない。
しかし、キリストにも仏陀にも多大なる教えを受けたと感じている。
失礼な話しだが、僕は昔から彼らを信仰の対象として見てはいなかった。
簡単に言えば尊敬する友人として彼らの言葉や教えを受け止めていたのだ。
そのスタンスは何十年経っても変わらない。
では何故に祈るのか?誰に祈るのか?疑問が湧いてくる。
僕は祈るときお願い事をしないようにしている。
換言すれば感謝の祈りである。
人間は自分以外の他と切り離され独立して存在するものではない。
人も自然も万物はすべて関わり合いその関係性の中で存在しているのだと僕は思っている。
だから、自分以外のすべてのものが感謝の対象であり、
祈るに相応しい自分自身の母体のような気がするのだ。
とは言え、たまにはお願い事もする。
しかし、僕のお願い事は神仏に対する絶対的な依存を意味していない。
簡単に言えば自分自身の決意を表し、気を引き締めるための願い事もどきである。

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年末にサイゴンという街で僕が祈ったこと、それは自分自身への戒めを込めた祈りだった。
それは、一粒の麦として生きるための階段なのかも知れない。
無心にも無欲にもなれず、日々を酒と煙草と詩で怠慢な日々を過ごしている自分への戒め。
光の中で光を見失いそうな焦燥と、贅沢で幸せな生活の中で肥大する傲慢さ。
幸福というものは心の中の傲慢さという垢の下にいつもある。
そして旅がその垢を洗い流してくれる。
少しばかり綺麗になった心の垢の隙間から小さな幸福が見える。
僕は更新され、また明日という旅路に出掛ける。

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出会いながら別れ

別れながら出会う

旅をしながら故郷を思い

故郷にあって旅を思う

光の中で闇に閉ざされ

闇の中で光を見つける

しかし人生は

いつも大河を彷徨う小舟

小さな櫂を手に

自分だけの海を目指す

good bye saigon


~サイゴン漂流完~






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