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2009.08.18 横断歩道
横断歩道

ミニスカートをはいて、フランス人形の様な長いまつ毛をした少女が街角にひとりで佇んでいた。しかしそれは、この街ではさほど珍しい光景ではなかった。少女は金の為に春をひさぐ女であった。少女が指で合図を出すと、その気のある男は少女の後について裏通りの安い連れ込みホテルへと入って行く。少女は後ろめたさの漂う伏し目がちの大勢の少女達とは違っていた。人間の心を見透かしてしまいそうなその黒い瞳には、仕事に不相応な純粋なきらめきが河の底を照らす光の様に、深く冷たく漂っていた。男達がこの少女の身体を借用している間、少女はいつも違う事を考えていた。それは考えるというよりも、いつも頭に浮かぶある光景だった。それはいつも同じ場面であって、なぜその光景だけが繰り返し頭の中を駆け巡るのか、この少女自身にも解らなかった。

少女がまだ小学生の頃のある日、学校で交通ルールの指導会が行われた。優しそうな身体の少し大きい婦人警官が、手を上げて横断歩道を渡るやり方を、手取り足取り生徒全員に教える。この少女もそのやり方を習ったひとりであった。
学校からの帰り道に、少女は横断歩道の前で教えられた仕草で真っ直ぐに手を上げた。一台目の車は猛スピードで少女の前を通り過ぎて走り去った。少女は気を取り直して次に来る車を見つめて手を振った。二台目に来た車には中年の眼鏡をかけた女が乗っていた。女は少女の前をそのまま通り過ぎた。すれ違いざまにその中年の女と少女は目が合った。とても冷たい目だった。「邪魔だ!」と言わんばかりに少女を睨み付け、そして蔑んだ様な視線を少女に投げた。走り去っていく車のマフラーから立ち上る排気ガスが陽炎のように揺らめいて、その後姿が歪んで見えた。それから果てしなく時間が過ぎ、少女の目の前を多くの車が通り過ぎて行った。少女の目からは涙がこぼれた。それでも少女はそこに手を上げたまま立っていた。

翌日の放課後、少女は職員室へ向かった。担任の先生は算数の答案用紙を採点中だった。
「どうしたの?」
「横断歩道で手を上げても車が止まってくれないんです」
「そう、あそこは道路も広いし危ないから、気をつけないとね」
「何故ですか?なんで止まらないんですか?」
「そうね、みんな急いでいたのかしら」
「習ったことと違います」
「だから、気をつけないと駄目なのよ。さあ、もう帰りなさい」
「でも」少女がそう言いかけて先生を見つめると、先生は何もなかったように、忙しく算数の採点を始めていて、もう少女を見向きもしなかった。
それから少女は横断歩道で手を上げる事を止めた。そればかりではなく、大人達の言う「ルール」自体が薄っぺらの意味の無いただの習慣のように思えた。

少女は男達の欲望に身体を貸してやっているあいだじゅう、いつもその事を思い出すのだった。この少女にとって、信じることに値するものなどこの世には何も無かった。そして少女自身のこの身体も借り物にしか過ぎないと感じていた。
深夜の街をふらりと彷徨いながら足を止めると、テレビのモニターには嫌らしい目付きのオヤジと見当違いも甚だしい評論家のおばさん、そして子供たちの味方と称する偽者の教育者が映っていた。皆、好き勝手にわかった様な口振りで、自分の飯の種を稼ぐのに必死のように少女には見えた。
「何故、横断歩道で誰も止まらないのか教えてくれよ」
少女は吐き捨てるように言うと、暗い路地裏へと歩き出した。
閉店した飲食店の裏口には青いポリバケツに入った生ゴミが置かれ、そのポリバケツの割れた穴から茶色い汁が流れ出して、その裏通り一帯に異臭を放っていた。そしてその周りには数匹の野良犬がうろついている。少女は手当たり次第にポリバケツを蹴飛ばして倒すと中身を路上にぶちまけた。まだ濡れた白身のトロリとした卵の殻が糸を引いている。少女はその殻をハイヒールで踏みつけた。張り詰めた心が砕け散るような鈍い音が暗い路地裏に響いた。そして野良犬は餌にありついた。
暗い路地裏を抜けて街一番の繁華街に出た。そこは太陽の代わりに、昼よりも明るいネオンに照らされている場所だった。少女がその通りを歩くと、何処からとも無く口笛があちらこちらから鳴り響いた。それは眠らない街にたむろする男達の冷やかしの口笛だったが、少女は彼らをいちべつすることもなくただ真っ直ぐ前を見つめて歩いていた。すると、ある男が少女に声をかけてきた。
「何してんの?ひとり?」
少女は立ち止まり、男の目を見ながら言った。
「あたしは、病気持ちだよ」
すると男は顔をしかめながら走り去った。
「お前らも、全員、病気持ちじゃないか」少女は心の中でそう言って、また歩き出した。そんな風に長い夜をやり過ごした少女は始発電車で家に向かった。最寄の駅からアパートまでの道のりで、新聞配達の学生とすれ違った。学生は少女を見ると顔を硬直させて、少し赤くなりながら通り過ぎていった。少女は口元に少し笑みを浮かべながら、さび付いた薄っぺらいアパートの階段を上って部屋に入った。
「ただいま」部屋には誰もいない。その代わりにゲームセンターで集めてきた無数のぬいぐるみが部屋に整然と並んで、少女の帰りを待っていた。少女は服を無造作に脱ぎ捨てて、45度のシャワーを頭から浴びた。白い肌がみるみる赤くなり、湯気が立ち上り浴室を霧の中のように白くした。その浴室の換気扇は半年前から動かなかった。その役立たずの換気扇からは錆びた茶色い汁が水滴になって落ち、少女の洗いたての白い肌に血の様な色を滲ませ、やがてバスタブの中を流れ、何処へ続くとも無く開いた排水溝から流れていった。そのあとを少女の長い髪が何か後を追うように流れていった。少女は濡れた身体を真っ白なバスタオルで丁寧に拭き、それを胸の所で結んで浴室を出た。部屋の片隅には学生時代から使っていた姿見が一枚、壁に立てかけてあった。その前に少女は立つとタオルをはずし、鏡に映った自分の裸体を眺めた。美しい白い肌の表面にほんのりと湯気をまといながら、少女は自分の姿を見ていた。まとっていた湯気も消えうせ、肌に空気を感じた頃、少女は我に帰り、パジャマに着替えた。そして、そのままベッドへと倒れこんで眠ってしまった。

翌日の午後、少女は目を覚ますとジーパンとTシャツに着替え、薄っぺらいアパートの階段を駆け下りて、いつものコンビニへ向かった。小雨に濡れながら少女は歩いた。少女は傘が嫌いだった。傘をさすぐらいなら濡れた方がましだと昔から何故か考えていた。そして前方の信号の無い横断歩道の前に、黄色い傘をさしながら立っている小学生の女の子が見えた。女の子は手を上げては、車の止まるのを待っていた。しかし、車はその女の子の前を猛スピードで通り過ぎて走り去っていく。枯葉マークを付けた年寄りの運転する車がゆっくりと横断歩道に近づいてくる。女の子は止まってくれるのだと思い、歩道に手をあげたまま一歩踏み出してその車の運転席を見つめた。しかしその車も止まることは無かった。しかもその年寄りの運転者は少女にさえ気付いてはいなかった。きちんとアイロンをかけた線の美しい女の子の制服に路上の泥水が飛び散った瞬間、少女は女の子に駆け寄った。少女はその女の子の手を握り、声を掛けた。
「大丈夫?一緒に渡ろうね」
女の子は嬉しそうに少女の言葉に頷いた。二人は雨の中でやって来る車に手を上げた。やがて、一台の車が止まった。運転席に礼を言いながら頭をさげると、運転者は二人の顔も見ずに、手を払う仕草をして、「早く行け」と言わんばかりだった。少女は横断歩道を渡り終えると女の子の目線までしゃがみこんで言った。
「あなたは正しい事をしてるんだから、それでいいのよ。決して諦めては駄目。いい子ね」
女の子は少しキョトンとした顔で少女を見つめた。
「おねえちゃん、ありがとう」そう言うと女の子は明るく笑って走っていった。走りながら、何度も振り返り、黄色い傘をくるくる回して少女にさよならを言った。去っていく女の子を見つめながら、少女は自分の幼い頃を思った。
それ以来、少女は春をひさぐ商売をやめ、そして同時にあの横断歩道の光景を思い出すこともなくなった。
しかし、少女は今でも傘をさすのだけは嫌いだった。






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