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2009.08.18 桜と絵描き
桜と絵描き

ひとりの男がキャンバスを手に大きな桜の木の下に立っていた。
この男は絵描きであった。彼は玄人でもなければ、素人でもなく、ただの「絵描き」であった。
その桜の木は何故か道の真ん中に生えていたので、村人は皆その桜の木のことを邪魔だと思っていた。
その桜の木は、花の咲く春のたった1週間だけ村人に愛されたが、それ以外の季節にはやはり邪魔だと皆に思われていたのだった。
そして桜の木の前に立っているこの風変わりな「絵描き」は、春になろうが、秋が来ようが、誰からも愛されなかった。
そう、男は誰かを愛するだけに生まれ、決して誰からも愛されることのない孤独な「絵描き」だった。
そして、何故に愛されないのか、誰も知らなかった。

男がいつものように桜の木を見つめながら絵を書いていると、チリリンと微かな鈴の音が聞えた。見ると、花びらの上に小さくて、美しい少女が座っている。男は驚く様子もなく、ただやさしくその少女を見つめて言った。
「今日は、風が少し冷たいね」
少女は微笑みながら小さく頷いて、花びらの上でくるりと舞った。その度に左足に付けてある小さな鈴が、優しい音を奏でた。
「こんなところで絵なんぞ書いてたら邪魔になるぞ!」
苗を沢山積んだ手押し車の農夫が男に怒鳴った。その声に振り返るともうその農夫は後姿で遠ざかっていた。その後姿の肩口のところに、軽蔑という無言の意識が淀んで見えた。
男は気を取り直して、また少女に話しかけた。
「邪魔なんだってさ」
少女は少し寂しげな表情で笑って見せた。
「明日また来るよ」
男は少女に言うと、その日は家へと戻っていった。

それから毎日、男は桜の木の下へ出かけた。
そして男は少女の絵を沢山描いた。時に少女は男のキャンバスの上から鈴を鳴らしながら滑ったり、美しい桜色をパレットの中で混ぜ合わせたりして遊んだ。春の突風が吹くと、少女の巻き毛は風にたなびいて桜色の雫を地面に降らせた。
少女のその横顔は時として、大人の女の様に見えることもあった。男は少女の事を愛しく思うようになっていた。
少女も男のことが大好きだった。その証にいつも少女は左足の鈴を鳴らして答えるのだった。
しかし村人にとっては、毎日毎日桜の木の傍らで絵を書いているこの男は目障りだった。美しい花を見るために集まる村人達は、せっかくの気分が台無しだ。と、男に文句を言いながら皆、通り過ぎるのだった。
しかし、桜の花びらが風と雨に飛ばされて、枝だけになってしまうと、もう誰も桜の木を見ようとはしなかった。
花の終わった後にも、男だけはいつもの様に桜の木の下で少女の絵を描いた。来る日も来る日も男は少女に会いに行った。

ある日いつもの様に男が絵を描いていると、ひとりの見知らぬ紳士が男に声を掛けた。
「美しい絵じゃないか」
男が振り返ると紳士は続けた。
「君の絵を売ろうじゃないか。そうすりゃあ、金も入るし君は人気者になれるんだが、どうかな?」
「売るんですか?」
「勿論さ、全て私に任せておけばいいんだ。君を幸せな絵描きにしてやろうじゃないか。現に君は絵の具代にも困っているだろ?私に任せれば必要なものは何でもそろう。いつでも自由に絵が描けるんだよ」
男は紳士の後をついて行った。少女は遠くを見つめながらため息をついて、それを見送った。

翌日、男の家には大勢の村人と、見知らぬ人々が沢山集まっていた。週に一度の村の朝市のように人々はざわめき、そして興奮していた。
紳士が声高らかに叫ぶと一斉に手が挙がり、男の絵は飛ぶように売れた。その度に紳士の黒い山高帽には、金貨と銀貨が投げ込まれ、そのまばゆい光で男のみすぼらしい家の古ぼけた天井は夏の午後の日差しを受けて照り返る、川面の幾千万の光のように白く輝いて見えた。
そんな毎日が1週間ほど続き、遂に男の絵は1枚残らず売れ果てた。
その間、男は家の上座に人形のように座ったきり、一歩も外に出ることが出来なかった。
勿論、毎日通ったあの桜の木の下にも行かなかったし、あの美しい少女とも会っていなかった。
やがて、全ての絵を売りつくした紳士は言った。
「もう完売だ!もう絵はない。随分と高く売れたよ。君も嬉しいだろう?商売は貧乏人を相手にしてもしょうがない。みすぼらしい老人から、金の無い少女まで君の絵を欲しがったが、何とか金持ち連中に売りさばくことが出来たよ。明日の朝には精算といこうじゃないか。金貨を詰め込んだ袋を持って明日の朝にここに来るよ」
そう言って、紳士はそそくさと部屋を出て行った。
翌朝、紳士は現れなかった、翌日も、そのまた翌日も、あの紳士は現れなかった。
そして、あれだけこぞって絵を買い求めた人々も、今は誰一人として、男を訪ねては来なかった。桜の花が散ってしまった後の桜の木のように、もう誰も男を見向きもしなかった。
ひとりきりで、男はベッドに腰を下ろして、嵐のように過ぎ去った一瞬の栄光と、儚い夢の欠片を思っていた。
そして、大きくため息をついて、窓の外を見つめた。
思えば、あれから桜の木の下には行っていなかった。あの春の日にあれほど愛しく思ったあの少女にも会っていない自分に気付いて、男は我に帰った。
男は涙の溢れるのを感じながら、村はずれの桜の木の下へ駆け出した。
長い道の先には陽炎が揺らめいて、更にその先の桜の木は、涙が流れ落ちる前のまぶたの奥の様に、ぼやけて見えた。
やがて男は桜の木の下に立って、枝の先に少女を探した。
しかし少女は何処にもいなかった。
夕日が山の向こうへ落ちて燃え尽きるまで、男はそこに佇んでいた。しかし、少女は姿を見せなかった。
今や、あの軽やかな鈴の音は遠い昔の恋のささやきの様に、過去という名の鼓膜の中の思い出にしか過ぎなかった。
全ての絵と恋を失い、思い出さえも蜃気楼のように消え去ろうとする夏の落日の様に、男の夏は無駄に過ぎようとしていた。

そんな夏の終わりの朝、男は自分の玄関のドアを叩く音を聞いた。男はゆっくりと立ち上がり玄関を開けた。
そこにはひとりの少女が立っていた。
「何か用ですか」
男は少女の顔をぼんやりと見つめながら言った。
「絵を売って欲しいんです」
男は優しく答えた。
「せっかくだが絵はもう一枚も無いんだ。それどころか絵の具を買うお金も尽きてしまってね」
少女は明るい笑顔で言った。
「それなら私を書いてください」
男は少し戸惑いながら答えた。
「いいけど、描くものがあるかな・・・」
男は部屋の中を見渡して、小指ほどに小さくなった木炭の欠片を拾い上げ、向き直ると少女に言った。
「外で描いてもいいかい?村のはずれに、お気に入りの桜の木がある。もう枝ばかりになってしまったが、そこで絵を描きたいんだ。これが最後になるかもしれないけど・・・」
少女は小さく頷くと、優しい眼差しで男を見た。
男と少女はあの桜の木のある一本道を何も話さずに歩いた。
やがて桜の木の下まで来ると男は言った。
「ここだよ、」
少女は黙って桜の木の下に座った。
男はあの春の日に過ごした少女の事を思い出していた。
そして何か決心したように絵を描き始めた。
丘を渡って吹いてくる風が少女の巻き毛を揺らすと、男の目から涙が溢れて落ちた。
不思議なことに、白い画用紙に線を描く度、小さくなった木炭の端から桜の花の様な美しい色が生まれた。
それはあの春の日に、少女がパレットの中で混ぜ合わせた桜色だった。
「私を探していたのね?」
少女は笑顔で立ち上がると、男を見つめながらくるりと舞った。
チリリンと鈴の音が鳴り、夏の終わりの空に吸い込まれた。
少女は男の手を取って笑った。

それ以来、村の誰ひとりとして、この男の姿を見た者はいなかった。
やがてまた春が来て桜の花の咲く頃になると、
丘の向こうから、微かな鈴の音が聞えてくるだけだった。
しかし、その音は村の誰の耳にも聞えることはなかった。





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