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2009.08.18 岐路
岐路

日本海沿いのとある港町を、一人の旅の男が歩いていた。
その男は何処へ向かうともなく歩き続け、やがて地元の漁船や外国船の停泊している港の船着場までやって来た。そこで男は不思議な光景を目にした。それは岸壁と海の間を輪になって飛んでいるカモメの群れだった。カモメは幾重もの輪になって、しきりと同じ場所を低空で飛んでいる。そして素早く水面からくちばしで何かをすくい取っては、次々とまた順番の輪に合流するのを繰り返していた。
ふと見ると、その輪の中に一人の女が座っていた。手には袋に入った海老せんべいを持って、ひとつずつそれをつまんでは、キラキラ輝く穏やかな海へと投げていた。なるほど、と、男は思った。
女は長い髪を潮風にさらしながら、口元には寂しい笑みを浮かばせていた。その女は海のように美しかったが、時折指で頬を撫でる仕草が泣いているようでもあった。
男はゆっくりと女のそばに近寄った。男はいつの間にかカモメの輪の中にいて、翼がおこす風の鳴く様な音を耳元で聞きながら、女に声を掛けてみた。
「すごいカモメですね」
「ええ」女は男を見ずに答えた。
「餌ですか」
「そう、海老せんべいよ」
「そんなの、食べるんだね」
「そうよ、大好きなの」
「いつもあげてるんですか」
「ええ、たまにね」
女は最後の海老せんべいを海に投げ、袋を逆さまにして、残りくずを払い落とすと袋をよじって結び、それを手にしたまま振り返って男を見て言った。
「旅行?ここの人じゃないんでしょ?」
「はい。一人旅でぶらぶらしてたんです」
「そうなんだ」
「ええ。今日はここで宿を探そうと思ってるんです。何処かいい旅館を知りませんか?」
「なぜこんな所へ来たの?観光地でもないのに」
「のんびりしたいから、どこでも良かったんです。でも海が見たかったんで、行った事のない日本海沿いを旅しようかと思ってね」
「そうなんだ。あんまりロクな旅館はないのよ。ここは昔、港町としてすごく栄えてたらしいんだけど、その頃は遊郭があっちこっちにあってね、それが現代になって商売替えして旅館をやってるのよ」
「遊郭ね」
「見たことないけど、そういう話よ」
「ずいぶん昔の話だね」
「ええ」
「あの丘の所に白い灯台が見えるでしょ。あそこの周りに旅館が何軒かあるわ。良かったら案内するけど、今からじゃ夕食は作ってくれないかもね」
「ああ、メシならよそで食うから、泊まれればいいんだ」
「そう。じゃあ行きましょう」
男は女について歩き出した。さっきまであんなに沢山いたカモメの群れはいつの間にか消え去って、そのかわりにトンビが風に乗って羽ばたきもせずにゆっくりと弧を描いて飛んでいるのが見えた。
男は歩きながら考えていた。この美しい女を前にして、男は男である自分を感じていた。せめて夕メシぐらい誘ってもいいだろう。と、男は考えていたのだった。見知らぬ土地は一人旅の男をいつもより大胆にしてしまう。そして男はきりだした。
「会ったばかりだけど、何処か魚の食える居酒屋でも案内してくれると助かるんだけどな。良かったら一緒にどうかな?案内してくれるかわりに、僕が君にご馳走するけど」
「いいけど。それじゃあ、私がいつも入り浸っているお店を紹介するわ。そこにあなたが来るっていうのはどうかしら?」
「ああ、いいね。そうしよう。何か地図を書いてくれれば行くよ」
女はレシートの裏に小さな地図を書いた。
「この旅館の通りの坂を登って行くと、今度は長い下り坂になるの、その2本目の十字路を右に曲がって、銀行のあるT字路をまた右へ曲がって。そしたらまた港へ続く道に交差するんだけど。その通りの左側に「待夢里」ってバーがある。居酒屋じゃないけど、マスターが色々作ってくれるわ。いい。9時ね」
「ああ、それじゃあ後で」
女は小さく手を振って坂道を登ってやがて消えた。あの美しい女とこの後に一杯やれると考えてだけで、泊まる宿などどうでもいいように思えた。そして男は一軒の宿を見つけた。「縁屋」という名だった。少し小太りのおばさんが、にこやかに対応してくれ、その晩の宿は決まった。部屋に入ると男は風呂で汗を流した。旅館にしては小さな浴場で、他に泊り客はいない様子だった。部屋に戻るとお茶のセットと、少し小さめの布団が敷かれてあった。シーツは糊がきき過ぎていて妙に他人行儀に見えた。珍しいチャンネル式のテレビが一台と衣文掛け、窓からは手入れをしていない雑草の生えた庭が、月明かりに照らされているだけだった。
「9時か。まだ間があるな」
随分と長く歩いたせいで、足の裏が少し痛んだ。
「時間まで横になるか」
男は携帯電話のアラームをセットして、掛け布団の上にそのまま横になった。そしてやがて深い眠りに入っていった。
やがて、時間が来ると携帯電話のアラームが無作法な音を部屋中に響かせ、男は目を覚ました。やけに体が重かった。部屋にあった三面鏡を覗き込むと、少し顔と瞼が腫れぼったく感じられた。男は洗面所で顔を洗い身支度を整えた。そしてまた三面鏡を覗き込んだ。左右、正面、どこから見ても寝起き顔だった。男は眠ってしまった事を後悔したがもう仕方のないことだった。
「まあ、いい。やがてよくなる」
そして、男は部屋を出た。薄暗い宿の廊下を渡り、玄関の横の帳場に声を掛けようとしたが、明かりは既に消えていた。宿の玄関にも内鍵が既にかけられていたが、男はそっとそれを外すと、外に出た。
そこは人影もまばらな寂しい通りだった。男は坂を登りそして今度は長い坂を下った。2本目の十字路を右に曲がって、銀行のあるT字路をまた右へ曲がった。遠くに小さな看板を見つけた「待夢里」と書いてある。
「ここだな」男は路上に駐車してある車のガラスの中の自分を見つめ、少し跳ねた髪の毛を手のひらで押さえつけた。細い階段を上ると意外と小綺麗なバーのドアを開けた。
「いらっしゃい」店のマスターは何か察した顔をして男を見て、次にカウンターに座っている女に目配せをした。女は椅子を回して男を振り返ると、隣の椅子に手招きをした。男は店の中へと進み、女の傍らに腰を掛けた。
「付き合わせてごめんね、一人旅だから寂しくてね」
「いいえ、私はいつもここに居るんだもの、変わらないわ。気にしなくていいのよ」
そんな会話をしている間に、マスターがお絞りとお通しを持って奥の厨房から出てきた。
「こんばんは。旅行よね。やつれてんじゃない?」
その口調はマスターと言うよりは、ママという感じだったが、やはりどうみても男だった。マスターの飾り気のない一言で店の空間が和んだ。他には誰一人としてお客はいなかったが、白い壁に質の良い一枚板のカウンターのある落ち着いた店だった。そしてその空間には、微かに聞えるジャズと柱時計の振り子の音が心地よく響いていた。マスターは箸とお絞りといわしの煮付けをテーブルに置いた。
「何を飲む?一緒でいい?」
見ると、女の前には国産のウイスキーが瓶ごと置いてある。
「いいよ。君は?」
「ソーダ割りだけど」
「じゃあ、それで」
ウイスキーを入れたロンググラスには透明な氷が縁まで詰め込まれ、開けたてのソーダが注がれると美しい気泡と泡がカウンターの上まで跳ねて踊った。
「いわしの煮付けってウイスキーにあうんだ」
「あうわよ。ここは置いている酒は洋酒だけど、肴はたいがい和風なの。なんにでもあうのよ」
「出されたものを楽しむのも、いいもんよ。私だって考えて作ってんだからね」と、マスターは笑った。
「君のお陰で宿も見つかったし、ありがとう」
「いいのよ」
「港でさ」
「何?」
「カモメに餌をあげてたじゃない」
「ああ」
「もしかしたら、泣いてた?」
女は深呼吸すると明るく答えた。
「うん」
「なぜ?」
「泣いてた理由?」
「うん」
「それは、聞かない方がいいんじゃない」
「ごめん、余計な詮索だよね」
「聞けば、あなたの人生がすっかり変わってしまうかもよ。だから聞かない方がいいよ。って言う意味よ。別に怒ってないよ私は」
「人生が変わる?」
「それを聞いてしまって、その後はどうするの?あなたが私を助けてくれるんだ」
「まあ、なるべく力になれると思うけど」
「あはは。だから、聞かない方がいいのよ。あなたは優しそうだし、多分私を助けてくれようとするかもね。でもそれが問題なんだわ」
「何が問題なんだい?」
「聞いてしまったら、後戻り出来なくなるって事よ」
「そんなことって、あるのかな?」
「あるわ」
女は真剣な眼差しできっぱりと答えた。マスターは何処か遠くを見つめながら、自分の酒をひとくち飲んで口を開いた。
「人って、何処で、どんな風に、人生が分れて行くと思う?」
「どうだろうな、自分で決めて来たけど、僕はね」
「そうね。でも、もしこうだったら。もしああだったら。って考えたことない?」
「うん。あるね」
「みんなあるのよ。もし、もし、ってね」
女は優しく口を開いた。
「マスターが言うように、ね。あなたが私の涙の訳をもし、聞かなかったら。って、将来考える様な事が起きるのが私は怖いのよ」
「もし、聞いていたら。って、考えることも有り得るな」
「そうね。分かれ道って、何処にでもあるのよ。特別ではない日常の中に運命をひっくり返すような分岐点があって、誰もそのことに気付かないままその線を越えてしまう。その後で、もし、もし、って、起きてしまった事を後悔するんだわ。そしてある時はまた同じように、もし、もし、って、起こらなかった事にも後悔するのよ」
「怖いね。出逢いって」
「でも、誰にも出会わずに生きることも出来ないんだわ。もし、あなたが旅人でなかったら、話をしてしまったかもしれない」
「よそ者だからかい?」
「いいえ。じゃあ、例えば明日は何処へ行くつもりなの?
「明日で旅は終わり。家へ帰るよ」
「帰りたい?」
「そりゃあ、もちろん帰りたいさ。旅には終りがあるからね」
「人生はどう?」
「もちろん。誰にでも終わりは来るさ」
「そうね」
「だから、私はあなたが帰れなくなるような事はしたくないのよ」
「そんなに、大袈裟な事かな」
「聞いたら帰れないわ。どうする」
「それは、ちょっと困るな」
「まだ、聞きたい?」
「いや、いいよ」
「分ってくれたんだ」
「どうかな。多分聞いても聞かなくても、後悔するような気がする」
マスターは立ち上がるとそれぞれのグラスに新しいウイスキーのソーダ割りを注いで、明るく笑って言った。
「お互いの人生と、お互いにほんの少しだけ交差している道に乾杯」

僕は翌朝、電車に乗って帰路についた。
そして飛び去る車窓の風景に「もし」と言う言葉を抱えて生きていく自分のこれからを思っていた。





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