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遅ればせながら映画「マザー・テレサ」を観た。
ロミオとジュリエットで一世を風靡したオリビア・ハッセーが主演の秀作である。
久しぶりに観たオリビアは意外にもマザーテレサの風貌に似ている。
美少女から見事に転身した彼女の、女優としての貫禄を充分に味わえる素晴らしい演技であった。
ちなみに今年はマザー・テレサ生誕100周年らしい。

最近になってマザー・テレサを誹謗中傷する記事が目だつようになった。
彼女の日記が発見され、出版されているらしい。もちろん英語・・・。
なので読めない。
「彼女は最後の50年間神への不審を抱いていた」とあるが、事実かどうかは定かではない。
マザー・テレサを偽善者呼ばわりする人間がいることも事実だが、そんなことはどうでもいい。
そして最後までイエスを信じていたかもどうでもいい。
しかし、この偉大な女性によって救われた命があることは誰も否定できまい。
私見で申し訳ないが、マザーテレサは修道女であったのだから、
活動の切っ掛けは神の愛の実践としての行動であったのも確かだろう。
そして生涯を貧しい者の中の、最も貧しい者に仕えることに専念したのも事実である。
しかしながら、切っ掛けはそれほど重要な問題なのだろうか?
人を正しい道に導く為の信仰を持つことは素晴らしいことだ。
その反面、不正な道に導くような信仰もあるのだろう。
なので、切っ掛けの主たる要因が神であろうが、隣のオヤジであろうが問題はない。
要するに、人間の心の中の「善」という母体が大切なのである。
それは「利己」から「利他」への精神的な改革でもあっただろう。
勝手なことを言わせてもらえば、マザー・テレサの中の「善」が神という名を借りて具現化したのである。
もしも彼女の中に「善の母体」がないなら、神は無力であったとも言える。
僕はマザー・テレサを想うとき、神とか信仰とかの視点では見ていない。
偉大な女性は神ではなく人間だったという真実。
そして、ひとりの人間の成せる偉大な行いの可能性をそこに見るのである。
「完全なる善」は神の専売特許なのだから、人間は「不完全な善」を行えばよいのである。
その不完全さこそが人間の業であろう。
そしてその「不完全な善」ゆえにマザー・テレサは偽善者呼ばわりされるのであろう。
世界は神のごとき純潔さと聖なる真理の成就をひとりの女性に望んでいるとも言える。
これは、人間に対して「君は神でもないし不完全であるから悪である」というのに近い。
そしてそのようなことに執着している自分の「不完全さ」を知らないまま批判しているのである。

マザー・テレサは人間の偉大さと、不完全さを教えてくれた素晴らしい人物である。
神でも聖人でもない、そのままのマザー・テレサが僕は好きだ。
彼女は留守がちな神々よりも、希望や愛を、そして人間の素晴らしさを教えてくれたのである。


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