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2010.06.20 父の日
今日スーパーで柿の種をもらった。
父の日だから、男性のお客にプレゼントしているという。
思えば僕は父の日を祝ったことがない。
そして母の日も祝ったことがない。
それどころか、赤いカーネーションには嫉妬さえ感じて少年時代を過ごした。
それにも増して、父や母に抱きついた温もりの記憶もない。
要するに僕の記憶の中には「家族」という体験が欠落しているのだ。
いや、家族の記憶は別の意味で鮮烈に刻みつけられているのかも知れない、心の負の遺産として。
実のところ僕にとって「家族」という言葉は、身勝手な人間の集合体という意味でしかない。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、僕なら「衣食足りて血縁を知る」と手直ししたい。
血縁などというものは、ある程度の豊かさがないと感じられない。
自分のことで精一杯な人間の集合体と化した家族には血縁などというものは無意味に近い。
家族という体験の欠落した人間は、将来どのように育つのか?
僕は小学生の頃、教師に「こいつは将来、犯罪者になる!」と断言された経験がある。
なので僕は生理的に教師という人間が嫌いだ。
学校という現場は社会の縮図そのものであり、様々な社会問題が形を変えて閉鎖的な空間で同じように繰り広げられている。(今は知らないが)
ということで、家族の欠落した人間の末路は詩人であった。ということだったわけだ。
数年前に自分の少年時代の事を「記憶の欠片」と題して書いたことがある。
1章を書き上げる度に暗い水の底に沈んでいくような嫌な連載となったが、書き上げた。
今は、演劇で「家族」というのを本公演に向けて稽古している。
20人以上の人間が家族の繋がりやその温かな愛を伝えるために日々精進している。
それは、家族という体験の欠落した作家によって書かれた家族の愛の物語なのだから、矛盾しているかも知れない。
逆に、家族という愛情の中で過ごしてその愛情を見過ごしている人間も大勢いるはずだ。
家族という闇の中から見た「家族」は、何処までその真理に迫ることが出来ただろうか?
それは、家族を知らない詩人が書いた理想の家族という幻想かも知れないし、願いなのかも知れない。

今日はスーパーの店員がくれた父の日の柿の種をつまみに、酒を飲もう。




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