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愛の反対は憎しみではなく無関心です。
マザー・テレサ


「愛」に向き合う時間

 今年(平成十八年)は東大寺のイベントで念願の瀬戸内寂聴さんのご法話を聞くことが出来ました。そのとき寂聴さんは「愛」についてのお話しをされました。お聴きになられた読者の方も多いと思います。
 内容は「慈愛」と「渇愛」のお話しでした。「慈悲」とは見返りを求めない愛のことで、仏様が人間を無償の愛でつつんで下さっているというもの。それにひきかえ、人間同士の愛は「渇愛」だというのです。それは自分の損得や見返りを求める欲があるからだと。ユーモアをまじえながらのご法話は大変素晴らしいものでした。
 そして講演が終わり沢山の聴衆の人込みの中を歩きながら聞耳をたてていると、皆さん「愛」について語り合っている。法話も素晴らしかったが、人々が法話によって「愛」について語らう“きっかけ”を頂いた。そのことの方が素晴らしいのではないかと感じた帰り道でした。
 瀬戸内寂聴さんというお方は、宗派や宗教の垣根を越えたお話しをされる方で、法話の中にキリスト教の聖人やマザー・テレサといった名前も出てきたりします。その「何事にもとらわれない自由な心」が人々を惹き付ける魅力なのかもしれません。
 僕は数年前の冬に京都を旅していたとき、嵯峨野の鳥居本にある「寂庵」を訪ねたことがあります。勝手にお伺いしただけですので当然、門は閉まっていました。しかし何かしらお手紙を書いて投句箱に入れた覚えがあります。もちろん返事などは来るはずもありませんが。

愛の実る丘

 それは二十年程前の話です。
奈良の話ではありませんが、その年の秋から冬にかけて僕は素晴らしい出会いに恵まれました。皆さんにもご紹介します。
舞台は秋田県。秋田市の湯沢台に「涙を流す聖母マリア像」で知られる「マリアの家」という修道院があります。  
 最初に訪れたのは秋。その修道院は、時間が止まってしまったかのような、小高い丘の上にひっそりとありました。車を降りて畑の横の道を建物の方に向かいました。すると遠くに人影が見えました。修道院のシスターです。彼女は相当にご年配のシスターで、しかも片手には小枝を持ち、何やら落ち葉をかき分けているように見えました。僕が「こんにちは」と声を掛けるとそのシスターは優しく微笑んで「こんにちは」と答えてくれました。「何をなさっているんですか?」と尋ねると、顔をあげて上を指差します。見上げるとそこには大きな栗の木があります。「栗の実を探しているのよ」僕は注意深く木を眺めましたが、もう晩秋のことなので栗の実は一つもありませんでした。今度は地面を見ましたがそこには沢山の落ち葉があるだけでやはり栗はありません。「栗はもうないですよ」と僕が言うと、シスターは皺だらけの手を僕に差し出して、手の平の上の小さな栗の実を見せてくれました。とても小さな実が三個、そこにはありました。まだ二十代の若僧だった僕はその時こう思ったのです。「修道院だから、食べるものにも困ってんだな」と。シスターはまだ小枝で落ち葉をかき分けて、栗の実を探しています。「ほら、あった」確かに栗は落ち葉の下に僅かながらまだあったのです。「本当だ。まだ探せばあるんですね」僕はそう言うと一緒に栗の実を探し始めました。僕も数個見つけました。
 良く晴れた青空と、遠くから聞える鳥の鳴き声、そして秋の風が冬の訪れを囁きかけるような、そんな午後です。
 僕は拾った栗の実をシスターに手渡しました。そのとき彼女はしみじみと小さな栗の実を見て愛しそうにこう言いました。「せっかく生まれてきたのだから、探してでも食べてあげなきゃね」と。
 僕はその言葉を聞いた瞬間、何故か泣きそうになりました。そして自分の心の中のうがった考えに気づき愕然としました。それは貧しいからなどではなかったのです。そして、誰かが見ているからという、うわべだけの行為でもありません。それは僕が来ようが来なかろうが、そんな事には無関係に実践されている修道院での生活の一場面なのです。神仏に自分を捧げ人々の幸福を願う心は、どの宗教にも変わりはないのです。そしてその日、僕は「愛」という目に見えないものを目撃したのでした。幾千万の言葉より、それは確かな「愛」でした。
 まさに瀬戸内寂聴さんの言う「慈悲」の心なのかも知れません。
 その年の冬、僕は再度「マリアの家」へと向かいました。自宅からは二時間半の距離です。しかし厳冬の秋田の冬は山形以上に厳しいものです。
 やっとのことで丘の麓まで辿り着きましたが、膝の上まである雪に、どうしても先へ行くことが出来ませんでした。しかしこの丘の上の修道院ではシスター達が今日も祈りの生活をしているのです。
目の前の足跡ひとつない真っ白な雪を眺めていると、欲を捨て去る事の出来ない僕たち人間に、雪が何かを教えてくれているような気がしました。僕は手を合わせると、そのまま引き返しました。
「慈悲」と「渇愛」。言葉で聴いて、頭で理解するのは簡単ですが、僕達の行いはどれほど仏の心に叶うものなのでしょう。
 東大寺で瀬戸内寂聴さんのご法話を聴きながら、僕はふと、この栗の話を思い出したのでした。
そしてこの冬には、仏様の慈悲に満ちた真っ白な汚れのない雪が、奈良に住む僕たちの上にも舞い降りて来ることでしょう。




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