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都会は石の墓場です。
人間の住むところでは有りません。
ロダン


パリで想う奈良とNara

 パリのホテルの部屋に何気なく置かれていた冊子。傍らにはスコッチ、口にはタバコをくわえながら、読めもしないページを開いてみた。何処かで見た風景、何処かで見た建物。それは東大寺の写真だった。ページ上で僕が理解出来る文字はたった一言「Nara」だった。Naraか、奈良ね。意味も無い独り言。十時間以上のフライトで肉体には力が無かった。やがて氷をたっぷりと入れたシーバス・リーガルの水割りが血液のように体の中に浸透してくる頃、月夜に照らされたマロニエの梢に風が吹きすぎるのを眺めながら、僕は異国の地で世界中の人達の瞳に映るであろう「Nara」を想像していた。それは、僕たち日本人には見ることの出来ないもうひとつの「奈良」なのかも知れない。

旅行と旅の時差

 「旅行」と「旅」の違いはなんだろうか?などと勝手に仮説をたててみた。
そこで東京にいる友人などに奈良をどう思うか?と、聞いてみたらこうだ。
「京都へ行って時間があれば奈良にも寄りたい」などとおっしゃる。失礼な話しだが、まあ僕と同じ小市民の意見なので気にしてもしょうがない。(正直に書いていますので、読者の方は笑って許して)
 奈良生まれの奈良育ちの何処かの社長さんも苦笑いしながら話す。
「奈良は交通の便も良くないし、もっとなんかやり方を考えないと駄目だね。奈良に来ることは来るんだけど、宿泊せずに通り過ぎる観光客が多いような気がするんだけどね」と分析なさっておられた。
「奈良も京都みたいになればいいな」などと過激な事を笑顔で話す中学生は、ある意味素直でかわいいとも言える。
 僕が考えるに、感覚的な問題なのだが、
点から点への「旅行」をしたいと考える方たちにとって、奈良は確かにベストな位置にはない。しかし「点と点」を結ぶ「線」のような「旅」を目的に場所を探すとなると、日本国内でも思い当たるような場所は少ないのではないだろうか。奈良の世界遺産を「点」で追っても「奈良」は見えてこない。奈良を観光したことのある友人に、奈良はどうだった?と聞いてみると、「奈良の大仏様はデカいね」もしくは、
「鹿が普通にいるんだね」である。だいたい答えはこの2種類が多い。まさに「点」の旅行であり「点」の思い出しかないのだ。
 このことには現代人の時間の感覚と価値観が大きく影響していると思う。高速移動が常となり、身体だけは移動できたが、心はまだ百キロ彼方の自宅周辺をウロウロしていたりするのだ。よく考えれば普段の生活だってそうだ。ありとあらゆる物が溢れかえり、使い方も解らない電化製品にタコ足配線。その内に自分が誰かもわからなくなり、「癒し系」などと大見出しで書かれた本を購入する羽目になる。短縮・小型化・多機能。何もかもが軽薄短小になり、そんな価値観が神のごとく世間の道の真ん中に鎮座しているのである。
 「そのうち奈良へ行くから案内してくれ」と東京に住む知り合いからよく言われるのだが、大阪に泊まるから半日だけ案内しろ、などという話になってくると、大仏様と鹿の絵葉書を送りつけてやりたくなる。記憶だけならそれで充分なのかもしれない。その半面、本当の意味で奈良に向き合い、奈良を楽しもうとする方々に、この土地は沢山の事を教えてくれることも事実。しかしそれは等身大の時間を費やすということでもある。
 東大寺の伽藍を吹き渡る風に銀河の匂いを感じ、大仏様の唇に大いなる慈悲の心を見ることが出来たなら、奈良は初めて自身の奈良になる。奈良公園の鹿たちがせんべいを食べている傍らの森では、ビニール袋を食べて死んだ鹿が転がっている。それぞれ訪れた土地で、何か大切なものを感じることが、「旅」であり、それは人生そのものなのだ。どうぞ、奈良というこの空間にあなたの時間を費やしてみてください。と、ご提案などしたい。

奈良を愛する人

 毎回よくお手紙を頂く。それを読みながら感じることは、奈良に住む人々がいかに奈良を愛しているかということだ。ナラントは季刊誌なので、お手紙を頂いてからご紹介するまで季節が替わってしまうが、ご了承下さいね。
 奈良市在住のペンネーム桂(かつら)さんが送ってくださった手紙には、その奈良を愛する心がよく見える。
 初夏の興福寺を訪れた時の風景。周囲の桜の木がすっかり葉になってしまった事や、3羽のツバメが低空飛行しながら楽しそうに遊んでいる姿。柵を飛び越えてゆく鹿に心躍らせ、カップルの乗った人力車に幸福の輪を見つける。
「ふりむけば万緑の中鹿おどる」ご自分の住む土地を愛する方の目線とは、実に温かいものだと感じました。お手紙ありがとうございました。
 最後に関係の無い話ですが、十津川温泉に行きたいのですが、誰か詩人をご招待して下さい。などと、振って終了ね。





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