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2年ほど前に某宗教施設からの依頼で講演したことがあった。
何故に僕が講演をを頼まれたかは定かではないが、その時そこの幹部の方がこう言った。
「君はひとり宗教だね」と。
あれからその意味を考えていたのだがよく分からない。
また、「君の作品には我々の教義に似たエッセンスがある」とも言われた。
それもよく分からない。

僕は宗教を否定していない。しかし、自分自身は何教でもない。
思えば実家は曹洞宗だった。要するに禅宗である。
小学生の頃は訳も分からず教会に出入りしたりもしていた。
クリスマスのケーキとサンドイッチが目当てなのでイエスキリストなど知らなかった。
どの宗教に生まれようが当の本人は何にも興味はなかった。

大人になってから僕は二人の人物を知った。
それは、キリストとブッダであった。
この世界の宗教の双璧とも言える人物を散々調べた。
ある時はキリストに興味を持ち、ある時はブッダに傾倒した。
しかし現在までに何教にも属していない。
このことは幸運なのか、不運なのか分からないが、とにかく宗教を持っていない。

僕がいつも興味を惹かれたのは伝記でも奇跡でもなく彼らの言葉であった。
その真理に満ちた言葉は、僕に宗教を超えたインスピレーションを与えた。
何らかの宗教を信じている方には申し訳ないのだが、僕は彼らの言葉からひとつのことを学んだ。
それは、何故人間は宗教を信じるのか?そして何故それが必要なのか?宗教とは何か?
様々な疑問が尽きることなく出てくるのだが僕の答えは明快だ。
それは、「己の心を修めることを他に求める欲求である」
だから、自ら心を修めることが出来れば宗教はいらなくなる。

イエスとブッダの双璧のどちらかを選択、もしく諸々を信仰する事を否定はしないが、
「何を信じるか?」という問いは元来愚問である。
勝手な考えだが、教義とは「考える種」でしかない。
それを丸飲みにして自己を限定すれば、他と対立せざるおえない。
換言すれば、どの宗教も対立などしていない。
対立しているのは人間である。

偉大な先人の考える種を謙虚に受け止め、それを捨て去る所に真実はある。
その捨て去ったものは消え去る事無く蓄積され大地を形成する。
そこにはもはや「何を信じるか?」という問いはなく、自らを修める道だけがある。
「愚かで健気で愛おしい」人間の本来の姿がある。
僕たちは悩み苦しみ死んでいくことから逃れることは出来ない。

天国を望まず、悟りを望まず、愚かな人間であることを楽しむ。
死を考えるよりも生の意味を考えよ。
生は死のための余興ではない。
あらゆる宗教の終着点は死である。
しかし、それを考えるのは生の情熱であろう。
イエスとブッダの言葉の中に生きる情熱を感じるのは僕だけだろうか?
誰も殺してはならないし、誰も死なない。
死に怯えることなく、生を楽しめばいい。

ある意味、天国もなく、悟りもなく、死もない。
ただひたすらに、君の手の温もりを追いながら永遠の生が続く。

と、酔っぱらいながら書いてみたけど・・・どうかしら?


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