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夏の風は音もなく吹き過ぎる
そして後には思い出だけが
波のように引いては寄せるだけ
永遠の波打ち際で
僕は誰かを待っている


 読者の皆さんからのお手紙、本当にありがとう御座います。今回は奈良市在住の玲子さんからです。色々と誉めていただいたのですが、自分でまた書くのも恥ずかしいのでそれは書きませんが、詩が同封されていましたので、掲載が遅くなりましたがご紹介いたします。
「空」
「雪が降り出したネ・・・」とあなたが受話器の向こうで静かに言う。/私は窓を開け、手のひらに落ちた雪を愛しく想う。/「今朝は、風がキツイみたいだネ・・・」/私に、風邪をひかぬよう、まるで子供に注意するかのようにあなたが言う。/「今、月がきれいに見えるよ。ホラ、満月だ。」/でも、きっとあなたの心の方が澄んでいてきれいよ・・・。/「これから、ひと雨ごとに暖かくなるんだね。花見に行きたいネ・・・」/果たせるかどうか、わからない約束を電話でかわす私たち。/どうか、あなたが早く元気になりますように。そうして、一緒に同じ空を見、風を感じられる日が来ますように。/今、目の前にスッとかかった虹を見て、そう強く願った。
 玲子さんの大切な友人がご病気で入院しているらしく、その友人を想いながら書いたそうです。お互いを思い合うお二人の心が見えるような詩です。共に見上げた同じ夜空の満月は闇夜を照らす希望です。月のない暗黒の空があなたの希望を覆い隠してしまう時にも、遥か彼方の夜空にはいつも「希望」があります。どうぞ勇気を持って頑張って下さい。

夏のゆくえ

真夏の太陽に照らされた
下界の午後は静かです

熱く焼けた石たちも
陽炎の向こうに憧れるほど

けれど動くことも出来ず
少年の僕は一人たたずみ
サンダルの下に草を感じながら
足元を走る澄んだ水に
この世の時の流れる様を
ぼんやり眺めてた

高い空に吸い込まれて
僕の魂は
空気に溶けていきました

頭上の雲の切れ間から
雲雀たちの鳴く声が
消えそうな記憶の片隅に
響いてたあの日

風はひゅんと吹き過ぎて
旅人のように戻らない

きっと戻ってこないだろう
きっと戻ってこない夏

泣きべそ顔の少年と
吹き過ぎたあの風と
走り去ったあの夏の僕も
山吹草太「5つのパンと2匹の魚」より


悪ガキのすすめ

 奈良に来てから2度目の夏が来た。去年の夏の思い出のひとコマは、高山の野池で地元の子供に混じって魚釣りに興じたことだ。子供たちに「おっちゃん」と呼ばれてしまい、もう「おにいちゃん」ではない自分を自覚しながら、その日は多少うなだれ気味で釣り糸を垂れていた。
 「おっちゃん!釣れたら頂戴。食うねん」と彼らが言うので、冗談だと思いながらも早速釣れた魚を渡す。すると彼らはその辺から小枝やワラを集めだして、おもむろに点火。半ズボンのポケットに忍ばせた百円ライターを自慢げに見せる。ここで大人は注意するべきなのだが、悪ガキの先輩としては昔の自分を見る思いがして、どうも言い出せない。そのうちにイイ臭いがしてくる。何か悪い予感がしたのだが的中してしまう。
 「おっちゃん!焼けたで!」と、お声がかかる。近づいてみると黒コゲの魚にカブリつく子供たち。「おっちゃん食うか?」と、彼らの視線は僕に注がれる。みんなで食べればいいよ。などと大人の余裕をかましたのだが、「気持ちが悪くて食えない」とは最後まで言えなかった。
 考えてみれば、生き物を殺し、調理して食う。それは普通の事の様だが「殺す」はいつも誰かがやる。僕たちはスーパーなどで、パック詰めされた肉やら魚やらを買うのが日常だ。言ってしまえは、ポテトチップスも魚も、感覚的にはただの商品としてしか目に入らないのだ。このことは真面目な話し、少々怖い感覚だ。食べる為に生き物の命を奪うという事実を知らないで過ごすと、命の大切さを知らずに育つ。昔、近所で飼っていた豚を毎日見に行った。ある日おじさんが、明日は豚をツブすんだよと言った。ツブすとは殺すということだと知ってショックを受けた。肉屋にお使いに行く度に、あの豚の顔が頭に浮かんだ。ごめんね、と言いながらそれでもトンカツを食べる自分に、なんとなく後ろめたさを感じたものだ。
 生命の消えゆく瞬間の切なさは、アタマからではなく皮膚から感情に入ってくる。カエルの尻に爆竹を詰め込んだり、黙って持ち出した小刀で指に怪我をしたり、そんなことをしているうちに感情が育ってくる。命の大切さや痛みを学ぶには、多少の悪さも必要なのかもしれない。高山のこの子供たちは、幼い日に過ごしたこの一瞬の夏に、かけがえのない多くの事を学ぶことだろう。
 これは蛇足だが、様々な体験や感覚を磨いて来なかった人間は将来こうなってしまう可能性が高いので注意。僕の妹の友人などは「カレーって作れるの?」などという質問を平気でしてくる。インスタントカレーで育った子供には、カレーはレトルトパックに入っているという感覚しかない。それはそれで害はないのだが、こんな人もいる。電気ポットをガスコンロにかけてドロドロにしてしまう主婦とか、お米をとぐのに洗剤を入れてしまう大学生とか、信じられないことが次々起きる。洗顔フォームを歯ブラシに付けて歯を磨いた僕も単なるアホだし、家庭訪問に来た先生に、麦茶と蕎麦つゆを間違えて出した弟は更にアホということになるのだが、前者と後者では間違いの種類が違う様な気がする。読者の皆さんはどう思います?





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