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2010.04.15 僕だけの悟り
僕は人前で話す機会が多い。
詩の学校やら演劇やらの生徒を合わせると50名以上いて、
毎月何度も話をする。
しかし僕は素晴らしい人格者ではないし、相当にかけ離れている。
僕はよく、聖書やら仏教やらの言葉を引用したりもする。
だからといって何教でもない。
簡単に言えば誰の言葉だろうと言葉の持つ力を重要視しているから、
そんなことは関係ないのである。

考えてみれば世の中には多種多様な宗教がある。
みんな何かを信じたがっているのは確かなことだ。
しかし、46年生きてきたが神仏にはお目にかかったことがない。
僕は神仏も宗教も否定はしないので、多分彼らは留守なのだろうと思うことにしている。
信じるかどうかは別にして僕は多少は宗教に詳しい。
宗教に興味があると言うよりは、その美しく力のある言葉の数々が、どのような視点から生まれるのかを研究している間に詳しくなってしまったというのが事実だ。
例えば仏教なら悟りというのがある。
僕に関して言えば到底たどり着ける境地ではないし、たどり着きたいという欲求もない。
簡単に言えば僕は煩悩の塊である。
頭ではよく分かっているつもりでも、心の中からそれを消し去ることは出来ない。
思わないようにしよう!などと言ったところで効き目もない。
雑念だらけの毎日を過ごし、詩だの釣りだの、酒だのタバコだのにうつつを抜かして生きている。
他の人はよく分からないが、悟りとはかけ離れた世界に僕は生きているし、多分これからもそうだ。
「先生は悟りの境地ですね!」などと言われるとどこかに逃げ出したくもなる。
しかし、別の意味での悟りならある。僕だけの悟りである。

まず、特別なお方でなければ悟りの境地には至れない。
どう自分をごまかそうが煩悩は常にある。
あるものを無い!と否定しようが、あるのは事実である。
であるから、肝心なのは「神仏に頼らず、戒心百万遍を以て自ら律すべし」となる。
簡単に言えばこれしか出来ない。出来そうにないのである。
悪しき心や悪しき習慣、様々なる欲が自分の中にあることを認め、
その度ごとに心を戒めながら生きてゆくという意味だ。
煩悩は打ち消しがたい。しかしそれを減らすことは出来そうだというのが僕の考えだ。
欲を消し去ることに必死になるのではなく、欲に向き合い自らを戒め律するのである。
これは、不治の病を治そうと必死になる事ではなく、
不治の病と上手く付き合いながら生きてゆく方法なのだろう。
まあ、凡人の僕はこんな感じで過ごしている。

さあ、今日も酒飲みの時間帯になってきた。
今日も戒心は出来そうもない・・・が、どうだろう?
一杯だけ、減らしてみる?ん?無理?



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