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2010.04.08 太郎と敏子
15年前に山形をトランクひとつで出てきてから、
大阪に3年、川崎に7年、そして奈良に住んで5年になる。
大阪に出てきた当初は不安な生活が続いた。
演劇をやり始めたが、金には苦労した。
どうしようもなく体力も気力も減退した日には、
なぜだか万博記念公園の太陽の塔を見に行った。
青空を背景に孤独に手を広げる太陽の塔に僕は自分自身を見ていた。
岡本太郎という偉大な父を失った今でも彼は孤独に手を広げて立っている。
やがて神奈川県の川崎市に劇団ごと引っ越した。
僕が住んでいたアパートは生田緑地の裏側にあって、そこからも公園に行けた。
数年するとその緑地内に岡本太郎記念館が建った。
太陽の塔に励まされながら川崎までやってきてしまった僕は、
なぜだか言い知れぬ縁を岡本太郎に感じていたのだ。
しかし、この偉大な芸術家は数年前にこの世を去っていた。
ある日テレビを見ていると、岡本敏子さんという方が出ていた。
後に彼女が岡本太郎の養女となっているのを知って、様々に調べてみた。
彼女は女学生時代から太郎と行動を共にした内縁の妻のような存在だと知った。
二人は結婚というスタイルにもこだわらず、子どもも確かいなかったと思う。
岡本太郎と生活を共にした彼女ほど太郎を知っている人物はいないと考えた僕は、
自宅であった青山の岡本太郎美術館に電話をした。
受付嬢が電話に出ると僕はおもむろに「敏子さんにお会いしたい!」と切り出した。
彼女はその当時でもかなりご高齢で少し病気がちであったのだ。
受付嬢は不審な様子で「どちらの山吹様でしょうか?」と尋ねてきた。
僕は会うのが当たり前だといったような口調で「詩人の山吹です!」と答えた。
ついで、「お約束のない方とはお会いできませんが」などとマニュアル通りに答える。
僕は「だからその約束を今しているんです!今日の午後に会いたいのです!」と伝えた。
困った受付嬢は「しばらくお待ち下さい!」と言って何処へ消えた。
しばらくすると受付嬢が余所行きの声で言った「敏子さんがお会いするそうです」と。
駄目もとで掛けた電話に成功して僕は喜んだ。
そして早速、電車で青山に向かった。
僕が受付に到着すると、敏子さんは2階から笑顔で現れ歓迎してくれた。
自宅の隅々まで彼女が案内してくれ、誰も知らないエピソードまで聴かせていただいた。
庭に出てぼんやりしていると、作品の椅子に座って良いと言ってくれ、
よく分からない角のある半鐘まで叩いて良いという。
僕と彼女はそれから展示室のロビーでしばらくの間話をした。
最後に僕は敏子さんに質問をした。
「太郎さんは、世の中に何を言いたかったのだと思いますか?」
質問した後で、これは愚問だったと気が付いたが既に遅かった。
すると敏子さんは少女のように目をキラキラさせながらこう答えた。
「そりゃあ、あなた!芸術でものを言ったのよ!太郎が描いたり作ったもの全てで言おうとしたのよ。だから、こんなにも沢山の作品があるの。全部で言いたかった、全部がメッセージなのよ!」と。
僕はこの言葉に感動した。
芸術家として最後まで生き抜いた偉大な男を垣間見た気がした。
そして、その偉大な芸術家に寄り添うこの偉大な女性であり、最大の理解者である敏子さんに感動した。
僕は帰り道で考えた。僕が何故あの太陽の塔が好きだったのかが分かったような気がしたのだ。
好きという表現よりも「あこがれ」と言った方が正しいかも知れない。
太陽の塔は、死ぬまで芸術家でありつづけた岡本太郎そのものである。
僕もいつしか本物の太陽の塔になりたい。
虚空に両手を広げ、評価だの名誉だのと言った余計なものを持たず、ただ、詩を書き続けたいと。
そんな大切なことを教えてくれた敏子さんも数年前に亡くなった。
芸術家も詩人も商売人になりつつある現代に、
太陽の塔は何かを教えてくれているような気がしてならない。
お近くの方は、改めて見に行ってみたらいい。
きっと、僕の書いた意味が理解できると思う。









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