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無心から発見する愛

■「詩人は小さな鍵を探す」
 詩人とは大地に隠れた「小さな鍵」を探す人のことだと僕は考えている。それは実生活とかけ離れた天上の理想でもなく、ファンタジーなどでもない。時には砂漠と森を彷徨い、時には街角のゴミ溜めやドブのヘドロをかき分けながら生きることである。だから詩人は大地から離れて存在することが出来ない。大地から離れた瞬間に詩は空想に過ぎなくなってしまうからだ。
 つまり詩人とは、言葉によって人生を開き、新しくする人の総称であるといえる。そして開かれた眼差しで、誰もが見つけられずにいる「小さな鍵」を探すのである。
また、生きるということは自分自身の心の扉をひとつずつ開放していくことでもある。人間の心には、鍵の掛かった開けられない扉が何と多いことだろう。

■「頭の学び」と「肌の学び」
 持論だが、教科書や本から学ぶことを「頭の学び」と僕は呼んでいる。それに対して経験や体験といったことを通して自ら学び取ることを「肌の学び」として、分けている。要するに僕が知り得たことはほとんどが「肌の学び」からなのである。つまり僕は、詩を書くことを経験し、詩人として暮らすことを体験して生きてきたのだ。実践してきたことから言えるのは、真に身になる智慧を持つには肌から学ぶ他にないということだ。ましてや永遠の謎である「愛」などという話になれば、理屈など通用しない世界なのである。愛の前に「頭の学び」で得た智慧など無力であるといえよう。
 数年前にそのことに気づかされることがあった。奈良の薬師寺で僧侶と話すご縁を頂いたときのことだ。まだ約束の時間まで間があるのでお写経場へと行ってみた。特に信心深いわけでもないのだが、そこで初めてのお写経を体験した。それが般若心経だった。写経し終えたときに、何故か目の前の雲が晴れたような気分になったのを憶えている。そこで僕は自分が何故、詩を書き続けているのかを知ったのだった。
 詩を書くことと写経することは何処か似ている。詩を書く時は言葉に集中するし、集中している間は「無心」でいることが出来る。般若心経を写経したり唱えたりする行為は、そのことで集中し、「無心」に至ろうとする修行であるから、やはり似ている気がする。もしかすると、僕が詩を書くことも、ある意味では修行の一環だったのかもしれない。自分でも気が付かないうちに迷いや恐怖に打ち勝つために詩を求めたのではないだろうか。それは換言すれば言葉の創造の中に生きる道を求めたとも言えるだろう。

■無心の中で愛を発見する
 般若心経の中に「色即是空 空即是色」というのがある。これを僕なりに勝手に解釈すると「色」とは体、感覚、イメージ、連想、思考という知覚を構成する五つの要素のことである。つまり身体から精神までの総称である。「空」とは文字通り、それらは何もないということだ。何もないと言われても僕のような凡人には理解できない。しかし、「かたよらない・こだわらない・とらわれない心」と訳せば何となく解る。「無心」になるとはそういうことなのだ。この教えから智慧を得てものをみるとき「おかげさま」と言う言葉が誕生する。
 例えばあなたが、東京の安いアパートにひとり暮らしで貧しい生活を送っているとしよう。そこに田舎からどっさりと米や野菜が届く。これで当分の間は食えると贈り物を喜ぶのだが、届いた食料を喜ぶだけでは「色」である。しかし、そこに届いた食料を「空」と悟り、「無心」になるとき、親の慈愛と深い恩を感じる事が出来る。その瞬間こそが「愛の発見」である。
  このとらえ方の差こそが、その後の人生を大きく左右してしまうかもしれない。
 とは言え、いきなり出家して修行というわけにもいかないので、その精神を少しでも日常に生かす方法はないものだろうかと考える。
 般若心経には「無」という字が20回以上出てくるが、これはすなわち自我を捨てよという意味である。自我とは「欲」と訳せば分かりやすい。欲は恐怖心を増幅させ欲求地獄を生む原因でもあるからだ。しかしそれもかなり難しい。
 最近では「足るを知る」という言葉がよく言われるようになった。今すぐに悟りを開くことは出来ないにしても、足るを知ることはすなわち空を知り、無心を得る素晴らしい発想だと思う。
 ついでに、詩を書いてみるのもいいだろう。結果的に何の役にもたたなかったとしても、損失はわずかな時間とインクと紙だけで済むから。
 僕の感覚では詩を書くことも、佛道修行も「とらえ方の訓練である」という点では同じである。広くおおらかな気持ちで人に接し、何事にもこだわらない自由な心と優しさが、愛を知ることの母体であることを僕は信じている。愛とは自ら発見し、獲得するものなのかもしれない。







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