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2009.12.17 心の余白
心の余白

 近頃、めっきり文字を書かなくなった。思い起こせば古い詩や短編の手書き原稿はあるものの、最近の作品の手書き原稿はない。唯一あるといえば、いつも持ち歩いている創作手帖に走り書きされた言葉の数々だけ。不思議なことにパソコンで原稿を書くようになって以来、自分が書いた文章を思い出せないときがある。何故なのかは解らないのだが、指先に文字を書いた記憶が無いのである。ある時ふとそんなことに気がついてしまい、これではいけないと思うようになった。つまり、忙しさに言い訳をして、いつの間にか心の余裕を忘れ、早さと便利さに慣らされてしまっていたのだろう。
 やはり、書くのと打つのでは何かが違う。身体的な行為の差異をこのような形で認識することになろうとは思ってもいなかった。文字で表現することは同じでも、その手法が異なれば、どこかでギャップが生じる。ココロとカラダは密接に関係していることを改めて感じた。
 そんな自分を省みているうちに、少し気になることを思い出した。それは自己表現の不得意な大人が増加していることだ。自分の気持ちを上手く言葉で表現できない大人にしばしば出会う。そして最後には、自分に自信がない。自分には何もない。という呪文のような口癖を聞く羽目になる・・・。
 大げさかも知れないが、僕はそのことに少なからず危機感を抱いている。何故なら、心にあることを整理してそれを言語化するという行為は、人間の持っている身近で重要なコミュニケーション能力でもあるからだ。僕は表現の優劣を言っているのではなく、自己を表現する為の大切な手段のひとつが枯渇しはじめているのではないだろうかと、心配なだけなのである。   
 更に言えば、その抑圧された感情が様々な事件や犯罪の温床にもなりかねないということ。何らかの形で表現する手法を持っている人なら何も心配はないのだが、誰にも伝えられずに膨張して、不幸な形で爆発してしまうことが怖い。
言葉で表現するのが不得意でも別に構わないのだが、何らかの形でそれを表すのは大切なことだ。例えば仕事でもいいし、趣味や遊びでもいいから、それを通して自分の心にあることを多少なりとも表現出来ている人はある意味、健全だと言えるかも知れない。
 もし、自分の気持ちを上手く表現したいと思うのなら、はじめに自分の心を整理しなくてはならなくなるだろう。それにはまず、自分の内面と向き合う時間が必要だ。難しそうだが、そんな時間は簡単につくれる。日々の生活の中に「境界の時間」を設けることだ。そうすることで、自分と向き合う時間が出来る。例え1日30分でもいいから、何もしないで独りでボケ~ッとする時間を持つことだ。そんなふうにしていると様々なことが頭の中に明滅出没してくる。そんな時は結論を急がずに川の流れるように静かに整理を始めた自分の心に身を任せればよい。
ただし、僕のように日々、怠惰な生活を送っていると詩人になってしまうので、それもあまりよろしくないのだが、とにかくそんな時間は必要なのだ。
 つまり、詩と同じように人間にも「余白」がいるのだろう。また、「余白」とは、何もない空間ではなく、時として饒舌で雄弁なものでもあることを知っておく必要がある。大人になるということは「余白」を自分でコントロールすることでもあるだろうし、その意味を知る為の長い道のりが人生だとも感じる。
 また、そんな気持ちの表れかどうかは定かではないが、最近は様々な施設で習い事を始める大人が増えている。無理をしないで手軽に何かを始めるのも自分と向き合う良い機会になるだろう。
 そんなことで、僕自身も何らかの機会づくりのお手伝いが出来ればよいと思い、昨年から奈良のウェルネス倶楽部という施設で朗読を教えている。まあ、朗読教室というのは名ばかりで、ほとんど朗読はしない。僕の戯言と、全員でのディスカッションで2時間が終わるわがままな講座だ。 
 では何故、朗読の練習をしないのか?それは人間が物質的な豊かさだけでは幸福を得られないように、朗読者も技術だけでは魅力的な語りは出来ないと思うからだ。つまり、心の豊かな人間の中にこそ、魅力の母体があると僕は考えている。講座の中で自分と向き合い、自信を獲得して心の豊かな人間になることの方が大切だと思う。
 そして、秋からは、それを改め「詩の学校」を開講した。それは何故かというと、自分に向き合う時間を詩というスタイルでより客観的で実践的なアプローチとして更に効果的にする為だ。
 その施設では、とにかく元気なシニア層が多い。50代、60代、70代の女性が講座の中心なのだが、とにかく身も?心も若いし、自分の心に「余白」が必要なことを感覚的に知っているように思える。
 それにも増して彼女たちには、妻になり、母として生き、また妻として家族を支えてきた輝きと威厳がある。とにかく僕よりも全員が年上という状況の中で、どちらが先生なのかという区別も付かないまま、楽しい時間を過ごせることに日々感謝している。
 そしてやがて、その講座が半年、1年と経過していく中で感じることは、目を見張る個々の変化である。自分の心の中にあるものを外に表現することが出来るようになって、彼女たちは以前にも増して輝きだした。「今まで、そんなことは考えたことが無かった」という新鮮な驚きや、自分の中に眠っていた可能性に目覚めることで精神的に更に豊かな「余白」を生きることが出来るようになったのかも知れない。
 なんせ、詩を書くというのはお金がかからなくて済む。紙と鉛筆があればどこでも出来てしまう。また、教室などに通わなくても自宅で書けば、ほとんどタダ同然で自分に向き合う時間を作ることが出来る。
 また、このような機会を早い段階から体験することは重要だと思う。利益至上主義的な世界と向き合うことばかりが重要視される偏った価値観そのものを見直さなければならない時代が来ているのではないだろうか。
自分と向き合う「余白」を楽しみ、自分を表現する手段を獲得する。その自信こそが人生を豊かにするのではないかと、僕は思っている。
 やがて奈良の街にも白い雪が舞う季節。今年の冬はのんびりとコタツでお茶でも飲みながら、「余白」という忘れものを取り戻す時間を過ごしたい。
  




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