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2009.11.06 おくりびと
おくりびと

 早朝5時、自宅の電話がけたたましく鳴った。朦朧とする中、受話器を取ると父の声がした。「ばあちゃんが、今朝の4時に亡くなった。直ぐに帰ってきなさい」。祖母の訃報を知らせる電話だった。僕は「うん」と短く答えて受話器を置いた。
 それは故郷の酒田市に帰るということだった。よくよく考えれば奈良から山形の酒田市はかなりの距離がある。帰郷のルートは沢山あるのだが、急な知らせの為にこちらも段取りを付けなくてはならない。通夜は明日だからそれに間に合えばいい。僕は早速、帰省の準備に取りかかった。
 そしてその日の夕方、奈良を出発して大阪駅へ向かった。17時47分発の青森行寝台特急「日本海」に乗るために。
 この列車を僕が選択したのは何故だろう。飛行機も新幹線も止めにして、何故に寝台列車を選んだのだろうか。故郷を離れて15年という歳月を記憶の中で蘇らせるには飛行機や新幹線では早すぎると、僕は心のどこかで感じていたのだろう。
 「日本海」は空いていた。わずか数名の乗客が乗り合わせているだけだった。寝台の片隅には缶ビールを開ける音が響き、長い旅の小さな宴会が始まっているらしかった。北へ向かう列車の中には、懐かしい東北弁の会話がかすかに響いて、僕は故郷へ向かうこの事実を噛みしめていた。
 酒田駅に着くまで約10時間ある。大阪駅を出発した「日本海」の車窓には見るべき景色はなく、どこか心の中の不安のような鈍い光を放つ夕暮れだけがそこにあった。皆と同じように僕も缶ビールを開けた。駅で買い込んだ幕の内弁当を肴に、それを一気に胃袋へ押し込んだ。車内には自動販売も移動販売もなく、そのことが更に僕を憂鬱にさせていた。もう手元にはウイスキーの水割の缶があるだけで、したたかに酔って寝てしまうことすら出来なかった。
 僕には故郷でもう一つしなければならないことがあった。それは数年前に亡くなった同級生へ線香を手向けることだった。僕は、ガタガタと揺れる列車のデッキで彼の奥さんに電話をして、明日、自宅へ伺うことを告げた。
 眠れない夜を過ごし、やがて列車は酒田駅に到着した。そこで下車したのはわずかに3人の乗客だけだった。早朝4時、懐かしい故郷の駅には寂しさと不安が入り交じった空気が漂っている。ふと、改札を出る時に一人の男が目に入った。それは古い友人だった。僕が驚いていると彼は、「久しぶりだの」と、庄内弁で話し、そして微笑んだ。訊けば、亡くなった同級生の奥さんが、僕の帰郷を友人達に知らせたらしかった。「寝ないで待っていた」。そんな友のひと言に、僕は疎遠になってしまった故郷の人々に詫び、そして変わらぬ温かさに感謝した。友は別れ際、僕に香典を手渡した。「そんなことはいいよ」と僕が言うと、「お前のばあちゃんには、子どもの頃に世話になったから」と短く答えて去っていった。僕は人気のない道路に佇んで、友の車が走り去るのに手を合わせた。
 実家には早朝から家族が集まり、頭を悩ませていた。葬式に誰を呼んだらいいのか分からないのだ。そんな思い悩む家族の傍らに祖母は眠っていた。顔にかけられた布をそっと持ち上げると、まるで眠っているかのような穏やかな顔がそこにあった。
 祖母は99歳の天寿を全うした。長い間一人で暮らし、多くの友人に囲まれて過ごした。しかし、すでにその友人達も、ひとり、また一人と亡くなってしまい、晩年は寂しい時間を過ごしたらしい。
 そんなこんなでいると、納棺のために葬儀屋さんが来た。父はおもむろに「葬式の参列者が10人ぐらいしかいないんです」と言った。葬儀屋さんは穏やかな口調で答えた。「沢山の方を見送って来た方は、自分を見送ってくれる方がいないものです。気にすることはありません」。その言葉が僕の心に響いた。思えば、「おくりびと」という映画でロケ地になったのもこの酒田市だった。納棺師という世界を描いたこの映画の「おくりびと」というタイトル。まさに祖母こそが「おくりびと」であったのだろう。
 やがて納棺師が祖母の身体を洗い清め、冥土への旅立ちの支度が始まった。僕は細くなってしまった祖母の足に脚絆を履かせ、手に数珠を持たせた。
 その夜はお通夜、翌日は葬儀とおきまりの進行が進み、いよいよお棺の蓋が閉められる時が来た。出棺の時でさえ参列者は皆、穏やかな表情を浮かべていた。誰もが99年の祖母が生きた時間にどこか満足していたのか、泣くものはいない。僕はふと、これはある意味でお祝いなのかもしれないと感じていた。大往生という言葉がこれほど真実味を帯びた瞬間を、僕は今まで経験したことがなかった。惜しまれながら去る人もいれば、「お疲れ様でした。ありがとう」という言葉が似合う去り方もあるのだと。
 夕方には葬儀も無事に終わった。僕は家族に別れを告げて予約してあった駅前の古びた旅館へ入った。風呂に入り身支度を調え、知り合いの経営する飲み屋へ向かった。遠回りをして懐かしい通りを眺めながら歩く故郷は、どうみても寂れていた。かつて子ども達であふれていた神社には雑草が生い茂り、よく行った商店も全て閉店していた。久しぶりに戻った故郷の姿に僕は困惑し、二度と帰ってはこないであろう酒田のあの賑わいを思い出してはため息をついた。繁華街に着くと日曜日ということもあって、知り合いの店はことごとく休みだった。仕方なしにビールを買い込んで旅館へ戻った。 
 最近は駅前の空洞化が進み、大型店は郊外へと移転してしまったらしい。駅前のデパートもとうに廃業してしまい、何年もの間更地になっている。旅館の窓から通りを眺めても、時折、車が通りすぎるだけで人影は少ない。向かいの飲み屋のママが暇をもてあまし、玄関の前の花壇の草をむしっている姿が見えるだけだった。
 翌朝、電車の出発時間よりも2時間ほど早く旅館を発った。子どもの頃に遊んだ駅前を時間をかけて散策し、またいつ戻ってこられるかも分からない故郷を目に焼き付けた。酒田駅の駅舎の横には古くからやっている立ち食いソバ屋がまだ健在だった。懐かしく思い暖簾をくぐった。かき揚げうどんを注文し、期待しながら口に運んだ。しかし、その味は想像を裏切った。塩辛くて食べられないのだ。僕はその時、愕然とした。昔は美味しいと感じていた故郷の味が、今の僕には美味しいと感じられないことに。うどんを一口食べるごとに、僕は流れた歳月の重さを感じていた。
 そして、いよいよ故郷とお別れする時間が来た。特急いなほ号で日本海を眺めながら帰ることを僕は選んだ。列車の到着を知らせるアナウンスが響き、酒田出身の歌手である岸洋子の「夜明けの歌」のメロディが3番ホームに流れた。
 その時、3日間泣かずに過ごした僕の目に涙があふれた。
 「おくりびと」という言葉と祖母との別れに、僕は故郷での忘れものに気がついた気がした。その想いを胸に抱えたまま、僕は奈良の街で今日も生きる。




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