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風呂のない家

 僕が生まれた祖父母の実家には風呂がなかった。そのかわり銭湯は目と鼻の先にあり、僕は毎日そこへ通った。
 その銭湯の横の路地には薪が山と積まれており、いつもそこを通ると木のいい匂いがしたものだった。番台のばあさんにお金を払い中に入ると、そこには退役軍人らしい片足のないおじいさんやら、何時間も居座って番台のばあさんに毎度怒鳴られている太ったオヤジなど様々な人間模様を見ることが出来た。
 親とは離ればなれに暮らしてはいたが、父は時折、実家へ顔を出すのであった。まあ、何かの気まぐれで言ったのだろうが、父が「たまには風呂にでも入りに来い」と、僕に言ったことがあった。しかし、父と継母、そして弟と妹が暮らしている家は、川の向こう側で、実家からは20分ほど歩かなければならない場所にあった。
 次の日、中学生の僕はその言葉通りに、夕方の町を歩いて、あの苦い思い出のある家に向かった。風呂に入るためだった。
 玄関で声をかけると、継母は不思議そうに僕を見つめて、「中に入れ」と言った。
「もう沸いているから、先に入りなさい」僕は弟や妹を待たせて先に風呂に入った。
 そこには僕の存在しない生活空間があった。他人の家の風呂にお邪魔しているようなそんな居心地の悪さを感じながらも、本当なら自分もここでこの風呂に入るのが当たり前になっていたかもしれないと感じて複雑な気分だった。
 やがて、僕は風呂から上がった。一番風呂に入るのはそれが初めてだったかもしれない。弟や妹を差し置いての一番風呂に気分を良くしていると、継母が風呂場でなにやらごそごそとしている。廊下からその様子をそっと見ると、なんと風呂の水を全部抜いて掃除を始めていた。それからしばらく経って、継母が言った。
「さあ、お前達もお風呂へ入りなさい」弟と妹は茶の間で素っ裸になるとはしゃぎながら風呂場へと消えていった。
 継母と弟と妹が風呂に入っている間に、僕はそっと玄関を出た。川に架かる橋の上から遠い夕焼けを眺め、淀んだ川の水に自分の姿を映して僕は呟いた。
「僕は、そんなに汚いんだ」
 実家に帰ると、祖母は「風呂はどうだった?」と僕に尋ねた。僕は元気を装いながら明るく答えた「うん。よかったよ」と。
「銭湯はお金がかかるから、また行ったらいいよ」
「そうだね、でもちょっと遠いから、たまに行くよ」
 それから数日経ち、僕はまたあの家に向かった。「なるべくお金がかからないように、僕が我慢をすればいい。風呂に入りに行くだけのことだから」と、自分に言い聞かせながら。
 しかし、その日は少し遅い時間になってしまっていた。玄関を叩くと継母の声がした。「ちょっと待って」茶の間では何やら小声で会話する様子がした。「入っていいよ」という声で僕は茶の間の障子を開けた。そこにはさも都合悪げに丸い卓袱台を囲んで継母と弟と妹が座っていた。
「風呂だね。もう沸いているから勝手に入りなさい」
「みんなはもう入ったの?」
「ああ、みんな入ったよ」
「そう」
 僕は茶の間を横切り風呂のある廊下へ出た。すっかり冷めかけた湯船につかりながら、僕は少し考えていた。それは、どう言い訳をすれば、この家に来なくて済むのかということだった。
 僕はそそくさと風呂をすまして家を出た。外は真っ暗だった。やけに星だけがキラキラと輝いている夜だった。そして、その日は、更に心に深い悲しみを背負い込んでしまった日だった。
 あの、卓袱台の下に隠された夕飯を僕は見てしまっていたからだ。それは、僕の知らないもう一つの家族の夕食だったのだろう。それ以来、僕は風呂に入るためにあの家に行くのを止めた。祖母にどんな言い訳をしたのか、今では思い出せない。




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