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元気すぎる代償

 家庭や学校がどのようなものであれ、僕はとにかく暗い性格ではなかったし、元気であった。そしてその結果として、怪我ばかりしていた。
 最初の怪我は幼稚園でのトランポリンの事故だった。その面白さに興奮しすぎた僕は、あまりに高く跳び上がりすぎて床に落下し、左肘を骨折した。それが序章であった。 
 小学校に入学してしばらくすると、今度は近所の医者の家の庭に忍び込んで遊んだ。そこには大きな柿の木があり、子どもたちの遊び場になっていた。ある時、柿の木にぶら下がって勢いをつけたら何処まで跳べるかという競争になった。ガキ大将がやはり一番長く距離を跳んでいた。いよいよ僕の出番が来て柿の木の枝にぶら下がった。身体を前後に揺すりながら勢いをつけ手を離した。やっている本人もこれはかなり危険だと感じていたが、ガキ大将に負けたくはなかった。そしてやはり僕はやりすぎていた。前に跳ぶというよりも勢い余って回転してしまい頭から地面に落ちた。その時とっさに左腕で頭をかばったのだろう。幼稚園で折ってしまった同じ場所を骨折。そして、泣きながら走って家に帰った。これが2度目の大怪我であった。
 整形外科でギプスをされて、また不自由な生活が始まった。祖父も祖母も、「またか」と、あきれ顔だった。そのギプスも小学生の僕には何かの勲章のように思えたから不思議だ。どこかカッコイイとさえ思っていた。しかし、ギプスをはめた僕の出来る遊びは限られていた。外で野球も出来ないし、縄跳びも出来ない。欲求不満になった僕はある日の夕方、こたつに上がり、照明のスイッチのひもを隙の空いた前歯に差し込んで、そこからジャンプした。何故そんなことをしたのかはよく覚えていないが、結果は最悪だった。天井から外れた照明器具と一緒に僕は落下した。その時、運悪く左腕のギプスを強打してしまった。不思議と痛みはなかったのでそのまま1ヶ月放置した。
 やがて、整形外科でギプスを外す日が来た。小さな回転するノコギリに恐怖を覚えながらの数分を経てギプスは外された。その瞬間、医者が言った。
「なんでこんな具合になってしまったのだろう」祖母がどうかしたのかと尋ねると、医者は「変形したまま骨が癒着している」と言って首をかしげた。仕方がないのでそのままリハビリをすることになった。ギプスで1ヶ月も固定していると関節が元のように伸びるまで1ヶ月ほどかかる。やがて腕は曲げ伸ばしできるようになったが、関節は変形していた。まあ、何の支障もないのでそのままにしておくことが決まり、その件は終わった。
 家に帰ると祖父も祖母も口をそろえて言った。
「2度目の骨折だから、2度あることは3度ある。だから気をつけなさい」2度あることは3度ある。この言葉は小学生の僕にとっては呪文のような恐怖感があった。そして、やはりそうなる日が来た。
 いつものように駄菓子屋に向かって走っていた僕は、車に跳ね飛ばされた。気がつけば5メートルほど先の道路に転がっていた。無理矢理立ち上がり歩こうとした瞬間また転んだ。左足はふくらはぎのあたりから反対に折れ曲がっていた。しかもそれは2度もお世話になった整形外科の前だった。片足で飛び跳ねながら整形外科のドアを開けて叫んだ。
「先生!足が折れました!」その後の記憶は何故かほとんどない。病院のベッドで目を覚ますと、バラバラなはずの家族が勢揃いしている顔が目に飛び込んできた。気がつくと、僕は手術の間も駄菓子屋で使う為の30円を握ったままだった。結局、僕はその後病院のベッドの上で3ヶ月を過ごしたのだった。
 怪我が治り学校へ通学したある日、僕は廊下に響いている暗号のような声を聞いた。それはかけ算を暗唱する声だった。4ヶ月も学校を休んでいる間にそれは始まっていた。当然のことながら、それをきっかけに勉強についていけなくなった。
 心配した祖父母は、近所の塾を探して僕にそこに行くように命じた。僕は以前から勉強することの意味が理解できなかった。要するに理屈っぽい子どもだった。授業以前に、塾の先生にも「何故それが必要なのですか?」などと問いかけ続けるため、先生はあきれ顔でため息をつくのだった。
 そんな日々がしばらく続いたある日、祖母か言った。
「今日は塾に行かなくていい」
「なんで?」
「塾の先生から電話が来て、馬鹿すぎて教えられないから、辞めてもらいたい。と怒られた。これからは自分で勉強しなさい」
僕はある意味安心した。塾から解放され、意味も分からず勉強することからも開放されたからだ。
 僕はまさに落ちこぼれだった。家庭や学校の問題に付け加えて、勉強の出来ない馬鹿という現実。自分がどんどんと、普通であることから遠ざかってゆくのを感じていた。そして、それは消えない烙印となりつつあった。





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