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自分探しはやめなさい

 読者の方も「自分探し」という言葉をよく耳にすると思う。この言葉に何処かノスタルジックで居心地の良い響きを感じるのは何故だろう。テレビや映画で「自分探し」の主人公が感動的なドラマの主役として登場するからだろうか。しかし、「自分探し」という言葉自体がおかしな言葉ではないだろうか。
 学校を辞めるのも「自分探し」。会社を辞めるのも「自分探し」。家出も「自分探し」。旅も「自分探し」。熟年離婚も「自分探し」。何でもかんでも「自分探し」という理屈を付けて済ませてしまう風潮にはいささか閉口する。
 いつだったか「自分探し」の旅から帰国した友人に、それで結果はどうだったのか?と質問したことがあったのだが、「面白かった」というのが答えだった。そもそも「面白い」と感じた自分自身が本当の自分ではないのだろうか。それでもまた「自分探し」に出掛けてゆくのだから分からない。
もっとも、本来の自分に疑問符を付けて、これは本当の自分ではないと考えることそのものが逃避にしか過ぎないのではないだろうか。逃避したいと思うことや、実際に逃避することを否定はしないが、その事実を「自分探し」と安易に称するのには多少違和感を覚える。
 人間が生きてゆくうえで「迷い」は常に内在しているものであり、1分1秒ごとに「迷い」の中で時が過ぎてゆくと言っても過言ではないだろう。ある意味、生きること自体が「迷う」ことなのだ。
 では、何故に人は「自分探し」をしたがるのだろうか。笑い話のように聞こえるかも知れないが、答えばかりを与えられて「迷う」暇がなく、生きている実感がない。と、仮定してみたらどうだろう。
 実際問題、教育現場や実社会において、自分で判断する機会はどれほどあるのだろう。「迷う」機会を取り上げられてはいないだろうか。「迷う」機会を取り上げられるということは同時に「成長する機会」を取り上げられるということでもある。
 人間の実生活というものは、それほど原因と結果が明白なものではない。常に曖昧で渾沌としているのが現実なのだが、一方通行な論理だけが神の如く鎮座してはいまいか。1+1は2であるという答えが実社会では通用しないことはよくあることだが、答えばかりを覚えさせられて生きてゆくうちに「迷う・考える」という過程がおろそかになってしまってはいまいか。
 本来、生きるということは自発的なものであるはずなのだが、何となく生きてしまっていることも多い。「死んでないから生きているだけ」といった悲しい答えをする人もいる。これは若者に限ったことではなく、大人も同じ問題を抱えている。自発的に生きるということは、生きようとするエネルギーのことであり、「自らが生きることを選択し、その困難を引き受けようとする強い意志」のことである。
 しかし、残念なことに日本の自殺者数をみればその生きるとい意志が希薄になりつつあることが分かる。年間3万人が自ら命を絶つのだ。それぞれに生きることに耐えられないような事情もあるのだろうと察するが、幸、不幸や生老病死は全ての生きている者に公平に与えられた運命であるのだから、そのときが来るまで力の限り生き抜いて欲しいと願う。
 しかし、ここに素晴らしい考えがある「生かされている」という考え方だ。自分以外のものから恩恵を受けて生かされている。確かにその通りだと思うが、それだけでは駄目だ。「生かされている」という観念は受動的な側面を内包している。そこにプラスしたいのが「生きようとする意志」である。要するに「生かされている」幸せに感謝するのであれば、その感謝に答えねばならない。それが「生きようとする意志」を持つことなのだと僕は思う。
 話はかわるが、数十年前に「米不足」という事態が起こったのを読者の方々も覚えていらっしゃるだろう。当時はお米屋に行っても本当に米がなかった。そんな中、何とか手にはいるのはブレンド米とかタイ米であった。タイ米は日本のお米とは違い、細長くてパラパラした米だった。それを炊きあげてみると、かなり独特な香りがして、思わず「なんじゃこれ?」と呟いた。それから僕は「毎日これを食べるのか・・・」と溜息をついた。そのとき一緒に食事をしていた祖母が静かに口を開いた。「食べ物があるだけましだよ。私はぜんぜん平気だね。たとえ米がない時代になっても、口に入るものなら何でも結構。昔の人はウマイとかマズイとか文句は言わない。食べ物があるだけ幸せなんだよ」と、きっぱりと言った。その言葉に当時の僕は気付かされたのだった。「自らが生きることを選択し、その困難を引き受けようとする強い意志」とは、そのときに感じた祖母の強さであった。なぜこんな昔話をしたのかというと、自分など探さなくてもここにいるという現実をあらためて意識したいからである。
 たとえ、世界中を旅して歩いても自分など見つかるはずがないのだ。例えば、財布を何処に置いたか忘れてしまい家中を探し回った経験はないだろうか。焦ってそこいら中を掻き回すが見つからない。やがて諦めかけた頃に自分が持っていることに気が付く・・・(笑)
 いつからか、何かの価値のような錯覚でもてはやされた言葉「自分探し」。自分を探すのではなく、「自分はここにある」という実感のある言葉に置き換えたい。何処に行こうがテレビや映画のように劇的なことなど起こりはしない。とびきりの美女が大冒険に誘ってくれる確率も、大金持ちのイケメンと夢のような恋に落ちる確率も、お釈迦様のように悟りをひらく確率もほとんど無いだろう。それよりも、身近にある幸せを自らが見いだし、それを感じられる「自分が確かに存在する喜び」を知ることのほうがいい。
 新しい自分に出会いたければ、日々更新している自分を知ることだ。世界の果てまで探しに行く迷い旅よりも、自分自身の心で世界を映す旅の方がどんなに素敵だろう。
 冬が来て身も心も凍えそうになったら自分という暖炉に火を灯して、世界中を温めてあげればいい。
どんなときにも自分はここにいる。そんな忘れものに気が付く穏やかな奈良の冬でありますように。





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