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子どもの頃は漠然と、そして何の根拠もなく“世界は変えられる”などと信じていた。しかし大人になるにつれてそんなことは不可能なのだと知る。そんな事実を知ってしまうと青年は何となく無気力になってしまうのだ。そしてやがて無気力なオヤジになる。その代わり世の中の矛盾や不条理さを目の前に突きつけられても“まあいいか”とやり過ごして横に置く技は上達するのだ。しかしそうはいかないのが「子ども」である。彼らは素直で純粋なのでそんな技は使いこなせない。大人という人種に疑いを向けはじめ、軽蔑し、落胆するまで彼らの無垢なまでの心の混乱は続く。そして幼い頃の僕も同じ疑問を抱きながら育った。“大人は変だ!世の中は学校で教わったのとはまるで違う!この矛盾は何故だろう!どうして大人は平気な顔でそんなことを無視して生きていられるのだろう!”などとまあ、こんな感じであった。やがて自分と意を同じくする同志以外の人間は敵となり、社会は悪そのものであると感じられた。人や社会との闘争こそが正義だと感じられ、あらゆる反抗を試みた。しかし社会人となった時点でそれは矯正され、骨抜きにされた青白い顔の青年の自分だけが残った。そして同志達もまた皆同じ運命を辿った。

何故そんなことを僕が思い出したのかというと、最近になって15人ほどの子どもたちに演劇を教え始めたからだ。子どもは大人のように人に対して先入観を持たないから直ぐに仲良くなる。初めて顔を合わせた同士が3分後には一緒に鬼ごっこやら取っ組み合いを始める。そんな彼らを見ているとある意味羨ましくもある。それに子どもの方が演劇の上達も早い。しかし大人ならそうはいかない。とりあえず自分を解放することから始めねばならないから時間がかかるし、何年経っても長年自分で築き上げた“壁”を越えられない人がほとんどだ。そうなると演劇どころではない。自分を解放できるようになるまでにも何年もかかる。そして残念なことに何年経っても無理な人もいるというのが事実である。また、不思議なことに大人の中には少なからず子どもに対する憧れがある。それは彼らの“柔軟性や素直さ”に対する憧れだろう。要するに今の自分に枯渇してしまった“無垢なる能力”への憧れなのだ。

“大人は変われない”僕はいつもそんな言葉を言う。それはある意味事実である。それは先にも書いたように“まあいい”といって横に置く技に溺れてしまっているからだろう。大人は誰でも人や世の中に対する矛盾や不条理に直ぐに気がつく。そこで“何故だろう?どうしてだろう?人間は何か変だ!世の中もどこか変だ!”と疑問に思う。しかし、それと同時に自分を納得させるための言い訳を考えている。言い訳を考えられなければ気がついてしまった矛盾や不条理に混乱させられてしまう苦しみが訪れるのを知っているからだ。万が一にも憤りを覚え、“何とかしてやろう!”などと思ってしまうと今度は自分の無力さを思い知らされる結果が待っていることも大人は知っている。だから言い訳を考えて横に置く技が磨かれるのだろう。嬉しいような悲しいような特技である。

もしも唯一、“大人が変われる”可能性があるとしたらと考えてみた。“大人は変われない”と言っている僕自身が大人であることもあり、自分の言葉をいちばん残念に思っているのは僕自身でもあるからだ。それは自分の中に生じてしまった矛盾や不条理に対しての言い訳を考えずにそのままの事実として受け止めることから始まる。そして他人がどうあれ、世の中がどうあれ、気がついてしまった矛盾や不条理に対して、自分なりの責任を果たすという強い意志が必要だろう。それは言葉で異を唱えるというアクションだけでは不充分であるし、厳しい言葉で言えば“自らの血を流して信念を貫く”という覚悟が必要となるだろう。

むかし少年院に慰問で出かけた際に、そこの刑務官の方からこんな話しを聞いたことがあった。「残念なことに、ここにいる子どもたちの考えをおおざっぱに言えば、“先が知れてる!世の中そんなもん”と、誰もが考え、全てを諦めていることです」と。僕はその話を聞いて呆然としてしまった。こんなに若い青年達が、僕のようなオヤジみたいに“世の中そんなもん”と達観してしまっていることが信じられなかったからだ。そして子どもの姿のまま無気力な大人になってしまった彼らを想った。生じた疑問を横に置き続ければ無気力になる。さりとて向き合えば無力な自分を突きつけられる。しかし、本当に無力かどうかはさほど重要ではない。重要なことは、僕を含めた“変われない大人達”が、変わるための努力をそれぞれの範囲ですることなのかも知れない。それはどんなに小さな一歩でもいいのだ。例えば“最近は近所付き合いが希薄になった”と僕が感じたとする。次は“なんか寂しい世の中になったなあ”とぼやく。そして最後には“考えてもしょうがないから、まあいいか”とこうなるところを、誰がどうであれ、今日から近所の人たちに出会ったら自分だけは元気に挨拶しよう!などと思えれば、近所づきあいが希薄になった事実は今日から少しずつ改善されるかも知れない。もしも改善されないにしろ、自分の普段の無頓着さは改善されるだろう・・・これがなかなか出来ないので苦労するんだが・・・まあ、例えだからいいか。

子どものような好奇心と純粋無垢な目で見た世界は、大人が感じているよりも強い矛盾と不条理に満ちているのかも知れない。その疑問を横に置く術を知らないのが子どもという存在なのかも知れない。彼らはそれ故に混乱し悩んでいるのかもしれない。真っ直ぐなのは子どもだけではない“大人だって変われる”そして真っ直ぐな心で生きられる。大人達がこれからを生きる子どもたちに何らかの希望を与えられるとしたら“大人も変われる”ということを証明することだろう。そして、何よりも“大人は変われない”などと平気で抜かしている“変われない僕”こそが変わるべきなのである。

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