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連日のように「ひきこもり」という言葉を聞く。
昔は「ひきこもり」なんてあったかなあ・・・と思ったりする。
学生の頃を考えてみても不登校の奴なんて思い出せない。
しかし、現代ではこれらは社会問題になっている。
「ひきこもり」を冷静に考えればそれは、「ひきこもる」ためのアイテムが溢れていて、そのことが「ひきこもり」という現象を生んだとも言える。
パソコン・携帯・メール・ゲームなど、ひとりで部屋に「ひきこもって」いても、
何ら情報不足にはならないし、寂しさは充分に紛らわすことが出来るだろう。
考えてみれば、「ひきこもり」ではない僕たちもこれらのアイテムに中毒になっていると言える。
あとは、「部屋から出ない」か「出るか」の差でしかない。
そんなふうに考えると、どちらを選択しようが個人の問題であり、
どの辺りが社会問題なのか分からなくもなってくる。
人間関係の構築に差が出るとか、社会性などという言葉も説得力に欠ける。
乱暴な言い方をすれば、人間関係など全てバーチャルだとも言えるだろう。
それは直接人間に会うとか、会わないとかいうたぐいの話ではなく、
精神的には仮想現実でしかないのではないだろうかという疑問だ。

もうひとつ言えることがある。
それは、「名称」である。
「ひきこもり」だとか、「ニート」だとか、名前をそれらに与えることの危うさだ。
誰が名付け親なのかは知らないが、名前を与えることは「場所」を与えることでもある。
場所が明確になれば、それはやがて膨張する。
そうなれば、よく分からない混沌とした立場の者達も自分に合う居場所に移動するだろう。
そして自分は○○だ!と誤った認識を信じ込んでしまう。
最終的に彼らは本当に「ひここもり」だとか、「ニート」と化す。
そんな危機感を最近は感じる。
何でもいいから「自分とは何者なのか」という居場所が欲しいのである。
その居場所には多くの人間が在籍している。
多数という魔法は、安心感や連帯感を生む。
後になって、社会問題となって国が手当てしてもその牙城は中々崩せるものではない。
ある意味、名も無き小さなものに名前を与えることが詩人の仕事でもあるのだが、
その反対に名前を与えてはいけないものもある。
世間を見渡せば、何故こんな事になってしまったのか分からない現象で溢れかえっている。
これもよく聞く言葉だが「弱者」という言葉だ。
誰もが「弱者」でいることの優越を知ってしまっている。
少しうまくいかなければ、「精神が・・・」とか、「トラウマが・・・」とかの話しになる。
僕は本来ホローされるべき弱者にはもっと手厚い保護をするべきだと考えているが、「にわか弱者」の存在には閉口してしまう。
彼らは「弱者の振りをした強者」である。

いずれにしても人間の不在が招いた結果なのかも知れない。
本来、心や行動で示す必要のあることを手軽に代行してくれる玩具が増えすぎた。
それに依存しすぎた結果、心は退化しつつある。
これは、南極の氷がとけている事よりも恐怖だ。

つまり、ウイスキーを水で割ってしまうと、
もう分けることが出来なくなるのに似ている。
混ぜる前によく考えないと後で後悔することになる。


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