FC2ブログ
むかし、詩を書き始めて故郷で少しばかり話題になった頃、
僕の所には詩の同人やら、何とか美術館の担当者らが押しかけてきて、
やれ、会員になってくれとか、詩を美術館の本に載せるから書いてくれとか言ってきたことがあった。
僕は「同人で何をするのか?」と尋ねた。
彼らは「集まって定期的に合評会をやるのです」と言っていた。
「合評会とは何でしょう?」と聞き返したら、「それぞれの詩を批評しあうのです」ということだった。
それなら、「勝手にやって下さい」と断ったのを覚えている。
美術館の担当者は最初から「何日までにお願いします」などと言っている。
僕は、「詩なんていつ書けるか分からないので、決められても書けない」と断った。

あれから18年ぐらいが経過したわけだが、最近思うことがある。
例えば詩だ。僕の知る限り日本で詩が大流行したことはない。
それどころか、出版社の担当曰く、本の中で「詩集が一番売れない商品」らしい。
外国の映画などでは「詩」がよく登場する。
誰でも好きな「詩」の一つや二つは知っているのが普通らしいのだ。
予想だが、要するに「詩」が生活者にとって非常に身近なのであろう。
日本で「詩」が庶民から遠いのはなぜだろう。
それは、「詩」が単に地味だからではなく、
「詩」を書く人間自体が「詩」を庶民から取り上げてしまっている側面もあるのではないかと考える。

そう考えると「演劇」の衰退も同じな気がする。
演劇の楽しみを庶民から取り上げたのは「演劇をする側の人間」なのかも知れない。
権威主義という言葉があるが、それは「至高の」という意味も含んではいるが、
その「独自性や特殊性」という閉鎖的な聖域を設けることでも発生するのではないだろうか?

例えば、「詩や演劇で何をやりたいのですか?」と尋ねられたら、
僕は簡潔に答えることが出来る。「それらを庶民に返すための活動だと」そう答えるだろう。

どんなものでも囲えば囲うほど、指先からこぼれ落ちてゆくものだ。
そして、僕自身も取り上げた張本人だったかも知れない。

どのような肩書きがついていようが所詮は誰もがひとりの生活者にしか過ぎない。
僕はいち庶民としてこれからもこの世界で暮らし、何かを創作する者でありたいと思う。




















スポンサーサイト