2009.08.18 岐路
岐路

日本海沿いのとある港町を、一人の旅の男が歩いていた。
その男は何処へ向かうともなく歩き続け、やがて地元の漁船や外国船の停泊している港の船着場までやって来た。そこで男は不思議な光景を目にした。それは岸壁と海の間を輪になって飛んでいるカモメの群れだった。カモメは幾重もの輪になって、しきりと同じ場所を低空で飛んでいる。そして素早く水面からくちばしで何かをすくい取っては、次々とまた順番の輪に合流するのを繰り返していた。
ふと見ると、その輪の中に一人の女が座っていた。手には袋に入った海老せんべいを持って、ひとつずつそれをつまんでは、キラキラ輝く穏やかな海へと投げていた。なるほど、と、男は思った。
女は長い髪を潮風にさらしながら、口元には寂しい笑みを浮かばせていた。その女は海のように美しかったが、時折指で頬を撫でる仕草が泣いているようでもあった。
男はゆっくりと女のそばに近寄った。男はいつの間にかカモメの輪の中にいて、翼がおこす風の鳴く様な音を耳元で聞きながら、女に声を掛けてみた。
「すごいカモメですね」
「ええ」女は男を見ずに答えた。
「餌ですか」
「そう、海老せんべいよ」
「そんなの、食べるんだね」
「そうよ、大好きなの」
「いつもあげてるんですか」
「ええ、たまにね」
女は最後の海老せんべいを海に投げ、袋を逆さまにして、残りくずを払い落とすと袋をよじって結び、それを手にしたまま振り返って男を見て言った。
「旅行?ここの人じゃないんでしょ?」
「はい。一人旅でぶらぶらしてたんです」
「そうなんだ」
「ええ。今日はここで宿を探そうと思ってるんです。何処かいい旅館を知りませんか?」
「なぜこんな所へ来たの?観光地でもないのに」
「のんびりしたいから、どこでも良かったんです。でも海が見たかったんで、行った事のない日本海沿いを旅しようかと思ってね」
「そうなんだ。あんまりロクな旅館はないのよ。ここは昔、港町としてすごく栄えてたらしいんだけど、その頃は遊郭があっちこっちにあってね、それが現代になって商売替えして旅館をやってるのよ」
「遊郭ね」
「見たことないけど、そういう話よ」
「ずいぶん昔の話だね」
「ええ」
「あの丘の所に白い灯台が見えるでしょ。あそこの周りに旅館が何軒かあるわ。良かったら案内するけど、今からじゃ夕食は作ってくれないかもね」
「ああ、メシならよそで食うから、泊まれればいいんだ」
「そう。じゃあ行きましょう」
男は女について歩き出した。さっきまであんなに沢山いたカモメの群れはいつの間にか消え去って、そのかわりにトンビが風に乗って羽ばたきもせずにゆっくりと弧を描いて飛んでいるのが見えた。
男は歩きながら考えていた。この美しい女を前にして、男は男である自分を感じていた。せめて夕メシぐらい誘ってもいいだろう。と、男は考えていたのだった。見知らぬ土地は一人旅の男をいつもより大胆にしてしまう。そして男はきりだした。
「会ったばかりだけど、何処か魚の食える居酒屋でも案内してくれると助かるんだけどな。良かったら一緒にどうかな?案内してくれるかわりに、僕が君にご馳走するけど」
「いいけど。それじゃあ、私がいつも入り浸っているお店を紹介するわ。そこにあなたが来るっていうのはどうかしら?」
「ああ、いいね。そうしよう。何か地図を書いてくれれば行くよ」
女はレシートの裏に小さな地図を書いた。
「この旅館の通りの坂を登って行くと、今度は長い下り坂になるの、その2本目の十字路を右に曲がって、銀行のあるT字路をまた右へ曲がって。そしたらまた港へ続く道に交差するんだけど。その通りの左側に「待夢里」ってバーがある。居酒屋じゃないけど、マスターが色々作ってくれるわ。いい。9時ね」
「ああ、それじゃあ後で」
女は小さく手を振って坂道を登ってやがて消えた。あの美しい女とこの後に一杯やれると考えてだけで、泊まる宿などどうでもいいように思えた。そして男は一軒の宿を見つけた。「縁屋」という名だった。少し小太りのおばさんが、にこやかに対応してくれ、その晩の宿は決まった。部屋に入ると男は風呂で汗を流した。旅館にしては小さな浴場で、他に泊り客はいない様子だった。部屋に戻るとお茶のセットと、少し小さめの布団が敷かれてあった。シーツは糊がきき過ぎていて妙に他人行儀に見えた。珍しいチャンネル式のテレビが一台と衣文掛け、窓からは手入れをしていない雑草の生えた庭が、月明かりに照らされているだけだった。
「9時か。まだ間があるな」
随分と長く歩いたせいで、足の裏が少し痛んだ。
「時間まで横になるか」
男は携帯電話のアラームをセットして、掛け布団の上にそのまま横になった。そしてやがて深い眠りに入っていった。
やがて、時間が来ると携帯電話のアラームが無作法な音を部屋中に響かせ、男は目を覚ました。やけに体が重かった。部屋にあった三面鏡を覗き込むと、少し顔と瞼が腫れぼったく感じられた。男は洗面所で顔を洗い身支度を整えた。そしてまた三面鏡を覗き込んだ。左右、正面、どこから見ても寝起き顔だった。男は眠ってしまった事を後悔したがもう仕方のないことだった。
「まあ、いい。やがてよくなる」
そして、男は部屋を出た。薄暗い宿の廊下を渡り、玄関の横の帳場に声を掛けようとしたが、明かりは既に消えていた。宿の玄関にも内鍵が既にかけられていたが、男はそっとそれを外すと、外に出た。
そこは人影もまばらな寂しい通りだった。男は坂を登りそして今度は長い坂を下った。2本目の十字路を右に曲がって、銀行のあるT字路をまた右へ曲がった。遠くに小さな看板を見つけた「待夢里」と書いてある。
「ここだな」男は路上に駐車してある車のガラスの中の自分を見つめ、少し跳ねた髪の毛を手のひらで押さえつけた。細い階段を上ると意外と小綺麗なバーのドアを開けた。
「いらっしゃい」店のマスターは何か察した顔をして男を見て、次にカウンターに座っている女に目配せをした。女は椅子を回して男を振り返ると、隣の椅子に手招きをした。男は店の中へと進み、女の傍らに腰を掛けた。
「付き合わせてごめんね、一人旅だから寂しくてね」
「いいえ、私はいつもここに居るんだもの、変わらないわ。気にしなくていいのよ」
そんな会話をしている間に、マスターがお絞りとお通しを持って奥の厨房から出てきた。
「こんばんは。旅行よね。やつれてんじゃない?」
その口調はマスターと言うよりは、ママという感じだったが、やはりどうみても男だった。マスターの飾り気のない一言で店の空間が和んだ。他には誰一人としてお客はいなかったが、白い壁に質の良い一枚板のカウンターのある落ち着いた店だった。そしてその空間には、微かに聞えるジャズと柱時計の振り子の音が心地よく響いていた。マスターは箸とお絞りといわしの煮付けをテーブルに置いた。
「何を飲む?一緒でいい?」
見ると、女の前には国産のウイスキーが瓶ごと置いてある。
「いいよ。君は?」
「ソーダ割りだけど」
「じゃあ、それで」
ウイスキーを入れたロンググラスには透明な氷が縁まで詰め込まれ、開けたてのソーダが注がれると美しい気泡と泡がカウンターの上まで跳ねて踊った。
「いわしの煮付けってウイスキーにあうんだ」
「あうわよ。ここは置いている酒は洋酒だけど、肴はたいがい和風なの。なんにでもあうのよ」
「出されたものを楽しむのも、いいもんよ。私だって考えて作ってんだからね」と、マスターは笑った。
「君のお陰で宿も見つかったし、ありがとう」
「いいのよ」
「港でさ」
「何?」
「カモメに餌をあげてたじゃない」
「ああ」
「もしかしたら、泣いてた?」
女は深呼吸すると明るく答えた。
「うん」
「なぜ?」
「泣いてた理由?」
「うん」
「それは、聞かない方がいいんじゃない」
「ごめん、余計な詮索だよね」
「聞けば、あなたの人生がすっかり変わってしまうかもよ。だから聞かない方がいいよ。って言う意味よ。別に怒ってないよ私は」
「人生が変わる?」
「それを聞いてしまって、その後はどうするの?あなたが私を助けてくれるんだ」
「まあ、なるべく力になれると思うけど」
「あはは。だから、聞かない方がいいのよ。あなたは優しそうだし、多分私を助けてくれようとするかもね。でもそれが問題なんだわ」
「何が問題なんだい?」
「聞いてしまったら、後戻り出来なくなるって事よ」
「そんなことって、あるのかな?」
「あるわ」
女は真剣な眼差しできっぱりと答えた。マスターは何処か遠くを見つめながら、自分の酒をひとくち飲んで口を開いた。
「人って、何処で、どんな風に、人生が分れて行くと思う?」
「どうだろうな、自分で決めて来たけど、僕はね」
「そうね。でも、もしこうだったら。もしああだったら。って考えたことない?」
「うん。あるね」
「みんなあるのよ。もし、もし、ってね」
女は優しく口を開いた。
「マスターが言うように、ね。あなたが私の涙の訳をもし、聞かなかったら。って、将来考える様な事が起きるのが私は怖いのよ」
「もし、聞いていたら。って、考えることも有り得るな」
「そうね。分かれ道って、何処にでもあるのよ。特別ではない日常の中に運命をひっくり返すような分岐点があって、誰もそのことに気付かないままその線を越えてしまう。その後で、もし、もし、って、起きてしまった事を後悔するんだわ。そしてある時はまた同じように、もし、もし、って、起こらなかった事にも後悔するのよ」
「怖いね。出逢いって」
「でも、誰にも出会わずに生きることも出来ないんだわ。もし、あなたが旅人でなかったら、話をしてしまったかもしれない」
「よそ者だからかい?」
「いいえ。じゃあ、例えば明日は何処へ行くつもりなの?
「明日で旅は終わり。家へ帰るよ」
「帰りたい?」
「そりゃあ、もちろん帰りたいさ。旅には終りがあるからね」
「人生はどう?」
「もちろん。誰にでも終わりは来るさ」
「そうね」
「だから、私はあなたが帰れなくなるような事はしたくないのよ」
「そんなに、大袈裟な事かな」
「聞いたら帰れないわ。どうする」
「それは、ちょっと困るな」
「まだ、聞きたい?」
「いや、いいよ」
「分ってくれたんだ」
「どうかな。多分聞いても聞かなくても、後悔するような気がする」
マスターは立ち上がるとそれぞれのグラスに新しいウイスキーのソーダ割りを注いで、明るく笑って言った。
「お互いの人生と、お互いにほんの少しだけ交差している道に乾杯」

僕は翌朝、電車に乗って帰路についた。
そして飛び去る車窓の風景に「もし」と言う言葉を抱えて生きていく自分のこれからを思っていた。





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2009.08.18 2匹の犬
2匹の犬

茶色い飼い犬が、いつものように玄関先に座っていると、その前を一匹の白い野良犬が通りかかった。
「おい君、何処に行くんだい」飼い犬は野良犬に声を掛けた
「別に」野良犬は答えた。
飼い犬は言った。
「こんな所をうろついていると保健所に連れて行かれるよ」
「保健所って、なんだい?」
「悲しい所さ」
「そうなんだ。君の方こそ何しているんだい?」
「怪しい奴が来ないか見張っているのさ」
「大変だね」
「別に」飼い犬は目をそらして答えた。
飼い犬は言った。
「お腹がすいているように見えるけど、大丈夫かい?」
「もうぺこぺこだよ」野良犬はため息をついた。
「良かったら、柱の所に食べ物があるよ。僕の朝ごはんの残りだけど」
「それはありがとう。頂くよ」野良犬は勢いよくそれを平らげた。
野良犬は言った
「おいらは野良犬だから、いつも食事にありつけるとは限らないんだ」
「飼い犬になれば、いつも食べられるよ」
「そうなんだ」
「でもね、その前に多少儀式があるんだよ」
「何の儀式だい?」
「なんてことはないよ。少しばかり手をあげたり、座ったりね」
「手をあげたり、座ったりしたらいいんだね」
「そうだよ。でもあんまり気が進まない時もあるけどね」
「そんな時は、やらないんだろ?」
「やるよ」飼い犬は少し目を伏せた。
「嫌な時もやらなきゃならないんだね」野良犬は言った。
「僕は飼い犬だから、それが仕事なんだよ」
「自由じゃないんだね」
「自由って君のような生活のことだろ?」
「そうだよ。おいらはあの山の向こうまで行ったことがあるよ」
「僕は毎日、近所を散歩しているから、それで充分だよ」
「そうなんだ」野良犬は通りの向こうへ目をやった。
飼い犬は言った。
「あの山の向こうには何があるんだい?」
「お花畑ときれいな川があるよ」
「庭にも少しだけお花があるけど、もっと凄いんだろ?」
「ああ、おいらの目が見渡す限り、何処までも咲いているんだ」
「いいね」飼い犬は遠くを見つめた。
「君も毎日ご飯が食べられて、いいじゃないか」
「そうだね。でも山には行けないよ」飼い犬が呟いた。
「どっちも手に入ったら、本当は一番いいんだけどね」野良犬は遠い目をして言った。
「僕もそう思うよ」飼い犬も同意した。
「おいらたちは、飼い犬と野良犬の2種類のどちらかなんだね」
「そうだな。正確に言ったら、全部違うんだろうね」飼い犬は思慮深げに言った。
「そうなんだ」
「飼い犬も色々。野良犬も色々だろうね」
「どういう意味だい?」野良犬は不思議そうに首をかしげた。
飼い犬は説明を始めた。
「そうだね、飼い犬の中にはエリート飼い犬という連中がいる。血統証付きが条件で、優雅な暮らしをするんだよ。ブランド品の缶詰を食べたり、人間と同じように服まで着ている奴もいるんだ。出世する為には更に訓練を重ねてトップになるんだよ。
僕は雑種だから生まれた時からそんな資格は無いんだけどね。」
「それからどうなるんだい?」
「さあ、どうだろうな。金の首輪でもするんじゃないかな」
「それって、食べられるの?」
「食べられないよ」
「そうなんだ・・・。それから?」
「そうだな、こんなのもいるよ。飼い犬なのに大げさに自由を語る連中。彼らの脳味噌は不満と愚痴でいっぱいさ。結局のところ自分のやっていることに自信が無いのさ。俺はこのままじゃ終わらない!なんて言いながら朝になればまたお手をしている。言ってる事と、やってる事がバラバラでよく分らないけど、結局一生愚痴りながらも飼い犬でいる奴が大半だね」
「君はどうなんだい?」
「僕は分をわきまえているただの飼い犬だよ」
「なるほどね」
「野良犬の中にもいるだろう?同じだよ」
「そうだね、ただの野良犬もいるし、飼い犬に憧れる野良犬もいるよ。それに野良犬の中には、運良く飼い犬の様な豪華な生活が出来る奴もいるんだよ」
「無理だよ。どうやって?」
「人気者になるのさ」
「人気者ね・・・」
「そうだよ。自分の特技を極めて、人気者になるのさ。でも
成功した頃には、いつの間にか飼い犬になっているって、落ちがあるんだよ」
「なんとなく分るような気がするよ」飼い犬はニヤリと笑った。
「野良犬と飼い犬のどっちが幸せなんだろうね?」野良犬は呟いた。
「多分、どっちも同じだと思うよ」飼い犬は言った。
「そうだろうね。どっちも同じだね」野良犬も言った。
「結局、人間様が全てを決めるんだから、どうにもならないよ」
「運命ってやつかな」
「僕がいつか自分でこの首輪を食いちぎることが出来たら、運命を変えられるかも知れないけどね」
「おいらも、我慢して手を上げたり、座ったり出来る性格になれたら、運命を変えられるかもね」
「与えられたものに満足するべきなんだよ」
「感謝もね」
「お腹が空いたら、また遊びにおいでよ」
「それじゃあその代わりにおいらは、君の知らない世界の事を君にたくさん話してあげるよ」
「うん。さようなら」飼い犬は言った。
「またね」野良犬も言った。
その時、何処からともなく聞えてきた犬の遠吠えが、
夕日に染まった路地に響いた。
2匹の犬はそれぞれ顔を見合わせて大声で笑った。
そしてそれぞれの運命へと帰って行った。




2009.08.18 桜と絵描き
桜と絵描き

ひとりの男がキャンバスを手に大きな桜の木の下に立っていた。
この男は絵描きであった。彼は玄人でもなければ、素人でもなく、ただの「絵描き」であった。
その桜の木は何故か道の真ん中に生えていたので、村人は皆その桜の木のことを邪魔だと思っていた。
その桜の木は、花の咲く春のたった1週間だけ村人に愛されたが、それ以外の季節にはやはり邪魔だと皆に思われていたのだった。
そして桜の木の前に立っているこの風変わりな「絵描き」は、春になろうが、秋が来ようが、誰からも愛されなかった。
そう、男は誰かを愛するだけに生まれ、決して誰からも愛されることのない孤独な「絵描き」だった。
そして、何故に愛されないのか、誰も知らなかった。

男がいつものように桜の木を見つめながら絵を書いていると、チリリンと微かな鈴の音が聞えた。見ると、花びらの上に小さくて、美しい少女が座っている。男は驚く様子もなく、ただやさしくその少女を見つめて言った。
「今日は、風が少し冷たいね」
少女は微笑みながら小さく頷いて、花びらの上でくるりと舞った。その度に左足に付けてある小さな鈴が、優しい音を奏でた。
「こんなところで絵なんぞ書いてたら邪魔になるぞ!」
苗を沢山積んだ手押し車の農夫が男に怒鳴った。その声に振り返るともうその農夫は後姿で遠ざかっていた。その後姿の肩口のところに、軽蔑という無言の意識が淀んで見えた。
男は気を取り直して、また少女に話しかけた。
「邪魔なんだってさ」
少女は少し寂しげな表情で笑って見せた。
「明日また来るよ」
男は少女に言うと、その日は家へと戻っていった。

それから毎日、男は桜の木の下へ出かけた。
そして男は少女の絵を沢山描いた。時に少女は男のキャンバスの上から鈴を鳴らしながら滑ったり、美しい桜色をパレットの中で混ぜ合わせたりして遊んだ。春の突風が吹くと、少女の巻き毛は風にたなびいて桜色の雫を地面に降らせた。
少女のその横顔は時として、大人の女の様に見えることもあった。男は少女の事を愛しく思うようになっていた。
少女も男のことが大好きだった。その証にいつも少女は左足の鈴を鳴らして答えるのだった。
しかし村人にとっては、毎日毎日桜の木の傍らで絵を書いているこの男は目障りだった。美しい花を見るために集まる村人達は、せっかくの気分が台無しだ。と、男に文句を言いながら皆、通り過ぎるのだった。
しかし、桜の花びらが風と雨に飛ばされて、枝だけになってしまうと、もう誰も桜の木を見ようとはしなかった。
花の終わった後にも、男だけはいつもの様に桜の木の下で少女の絵を描いた。来る日も来る日も男は少女に会いに行った。

ある日いつもの様に男が絵を描いていると、ひとりの見知らぬ紳士が男に声を掛けた。
「美しい絵じゃないか」
男が振り返ると紳士は続けた。
「君の絵を売ろうじゃないか。そうすりゃあ、金も入るし君は人気者になれるんだが、どうかな?」
「売るんですか?」
「勿論さ、全て私に任せておけばいいんだ。君を幸せな絵描きにしてやろうじゃないか。現に君は絵の具代にも困っているだろ?私に任せれば必要なものは何でもそろう。いつでも自由に絵が描けるんだよ」
男は紳士の後をついて行った。少女は遠くを見つめながらため息をついて、それを見送った。

翌日、男の家には大勢の村人と、見知らぬ人々が沢山集まっていた。週に一度の村の朝市のように人々はざわめき、そして興奮していた。
紳士が声高らかに叫ぶと一斉に手が挙がり、男の絵は飛ぶように売れた。その度に紳士の黒い山高帽には、金貨と銀貨が投げ込まれ、そのまばゆい光で男のみすぼらしい家の古ぼけた天井は夏の午後の日差しを受けて照り返る、川面の幾千万の光のように白く輝いて見えた。
そんな毎日が1週間ほど続き、遂に男の絵は1枚残らず売れ果てた。
その間、男は家の上座に人形のように座ったきり、一歩も外に出ることが出来なかった。
勿論、毎日通ったあの桜の木の下にも行かなかったし、あの美しい少女とも会っていなかった。
やがて、全ての絵を売りつくした紳士は言った。
「もう完売だ!もう絵はない。随分と高く売れたよ。君も嬉しいだろう?商売は貧乏人を相手にしてもしょうがない。みすぼらしい老人から、金の無い少女まで君の絵を欲しがったが、何とか金持ち連中に売りさばくことが出来たよ。明日の朝には精算といこうじゃないか。金貨を詰め込んだ袋を持って明日の朝にここに来るよ」
そう言って、紳士はそそくさと部屋を出て行った。
翌朝、紳士は現れなかった、翌日も、そのまた翌日も、あの紳士は現れなかった。
そして、あれだけこぞって絵を買い求めた人々も、今は誰一人として、男を訪ねては来なかった。桜の花が散ってしまった後の桜の木のように、もう誰も男を見向きもしなかった。
ひとりきりで、男はベッドに腰を下ろして、嵐のように過ぎ去った一瞬の栄光と、儚い夢の欠片を思っていた。
そして、大きくため息をついて、窓の外を見つめた。
思えば、あれから桜の木の下には行っていなかった。あの春の日にあれほど愛しく思ったあの少女にも会っていない自分に気付いて、男は我に帰った。
男は涙の溢れるのを感じながら、村はずれの桜の木の下へ駆け出した。
長い道の先には陽炎が揺らめいて、更にその先の桜の木は、涙が流れ落ちる前のまぶたの奥の様に、ぼやけて見えた。
やがて男は桜の木の下に立って、枝の先に少女を探した。
しかし少女は何処にもいなかった。
夕日が山の向こうへ落ちて燃え尽きるまで、男はそこに佇んでいた。しかし、少女は姿を見せなかった。
今や、あの軽やかな鈴の音は遠い昔の恋のささやきの様に、過去という名の鼓膜の中の思い出にしか過ぎなかった。
全ての絵と恋を失い、思い出さえも蜃気楼のように消え去ろうとする夏の落日の様に、男の夏は無駄に過ぎようとしていた。

そんな夏の終わりの朝、男は自分の玄関のドアを叩く音を聞いた。男はゆっくりと立ち上がり玄関を開けた。
そこにはひとりの少女が立っていた。
「何か用ですか」
男は少女の顔をぼんやりと見つめながら言った。
「絵を売って欲しいんです」
男は優しく答えた。
「せっかくだが絵はもう一枚も無いんだ。それどころか絵の具を買うお金も尽きてしまってね」
少女は明るい笑顔で言った。
「それなら私を書いてください」
男は少し戸惑いながら答えた。
「いいけど、描くものがあるかな・・・」
男は部屋の中を見渡して、小指ほどに小さくなった木炭の欠片を拾い上げ、向き直ると少女に言った。
「外で描いてもいいかい?村のはずれに、お気に入りの桜の木がある。もう枝ばかりになってしまったが、そこで絵を描きたいんだ。これが最後になるかもしれないけど・・・」
少女は小さく頷くと、優しい眼差しで男を見た。
男と少女はあの桜の木のある一本道を何も話さずに歩いた。
やがて桜の木の下まで来ると男は言った。
「ここだよ、」
少女は黙って桜の木の下に座った。
男はあの春の日に過ごした少女の事を思い出していた。
そして何か決心したように絵を描き始めた。
丘を渡って吹いてくる風が少女の巻き毛を揺らすと、男の目から涙が溢れて落ちた。
不思議なことに、白い画用紙に線を描く度、小さくなった木炭の端から桜の花の様な美しい色が生まれた。
それはあの春の日に、少女がパレットの中で混ぜ合わせた桜色だった。
「私を探していたのね?」
少女は笑顔で立ち上がると、男を見つめながらくるりと舞った。
チリリンと鈴の音が鳴り、夏の終わりの空に吸い込まれた。
少女は男の手を取って笑った。

それ以来、村の誰ひとりとして、この男の姿を見た者はいなかった。
やがてまた春が来て桜の花の咲く頃になると、
丘の向こうから、微かな鈴の音が聞えてくるだけだった。
しかし、その音は村の誰の耳にも聞えることはなかった。





フランスパンを買いに

フランスパンを買いに街へ出掛けた。
その日、パン屋は休みだった。

その次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
店のフランスパンは全部売り切れだった。
仕方が無いのでイギリスパンを買った。
食べ切れずに半分捨ててしまった。

その次の次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
バスケットに一本残ったフランスパンをガラス越しに見つけた。
青い水玉のリボンを付けた女の子がそれを手に取った。
私のフランスパンを見知らぬ子が横取りした。
私のフランスパンは茶色い袋に入れられて買われていった。
仕方が無いのでクリームパンを買った。
甘すぎたのでひとくち食べて捨ててしまった。

その次の次の次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
沢山のフランスパンが運ばれてきた。
私はバターを買う為に後ろを振り向いた。
店に大きな音がこだました。
眼鏡をかけた出来の悪そうな店員が、
私のフランスパンを全部床に撒き散らしてしまった。
買い損ねたフランスパンは今、私の足元に転がっている。
仕方が無いのでカレーパンを買った。
具がこぼれ落ちて、いっちょうらを台無しにしてしまった。

その次の次の次の次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
焼き上がりの時間を心得ていた。
そして沢山のフランスパンが運ばれてきた。
「ひとつください」と声を掛けたら、
「予約の品です」と真面目そうな店員が答えた。
そのフランスパンは生まれた時から、
すでに私のものではなかった。
腹が立ったので私もフランスパンを予約しようとした。
「10本からです」と断られた。
仕方が無いのでサンドウィッチを買った。
苛立ちながらビニールを破ったら、
全部飛び出して地面に落ちた。

その次の次の次の次の次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
いつもと違う場所に3本のフランスパンが並んでいた。
店にはひとりの客も居なかった。
フランスパンは買われていく時を待っていた。
いちばん出来のいいフランスパンを探す為に、
私は1本づつ注意深く見つめていた。
そして、1本手に取ると、声が聞こえた。
「それは、飾り用の見本品です」と。
仕方が無いので小さなパンのアソートを買った。
どのぱんもみすぼらしく見えた。
食べたいパンはその中にはひとつも無かった。
私はそれを地下鉄のホームのごみ箱の中に放り込んだ。
乗り損ねた電車が目の前を通り過ぎて行った。

その次の次の次の次の次の次の日もフランスパンを買いに街へ出掛けた。
2時間待ってとうとう私は、
私だけのフランスパンを手に入れた。
私は私だけのフランスパンを抱いて家へ帰った。
冷蔵庫を開けたら、
バターもジャムもマーマレードも切れていた。
私は溜息をついた。
そして私の為だけに存在している私のフランスパンを、
テーブルの上に置いた。
寝転がって私は私だけのフランスパンを見つめていた。
そして私は何故それほどまでに、
こんなものが欲しかったのかと考えていた。
そして考えながらいつの間にか眠ってしまった。





2009.08.18 横断歩道
横断歩道

ミニスカートをはいて、フランス人形の様な長いまつ毛をした少女が街角にひとりで佇んでいた。しかしそれは、この街ではさほど珍しい光景ではなかった。少女は金の為に春をひさぐ女であった。少女が指で合図を出すと、その気のある男は少女の後について裏通りの安い連れ込みホテルへと入って行く。少女は後ろめたさの漂う伏し目がちの大勢の少女達とは違っていた。人間の心を見透かしてしまいそうなその黒い瞳には、仕事に不相応な純粋なきらめきが河の底を照らす光の様に、深く冷たく漂っていた。男達がこの少女の身体を借用している間、少女はいつも違う事を考えていた。それは考えるというよりも、いつも頭に浮かぶある光景だった。それはいつも同じ場面であって、なぜその光景だけが繰り返し頭の中を駆け巡るのか、この少女自身にも解らなかった。

少女がまだ小学生の頃のある日、学校で交通ルールの指導会が行われた。優しそうな身体の少し大きい婦人警官が、手を上げて横断歩道を渡るやり方を、手取り足取り生徒全員に教える。この少女もそのやり方を習ったひとりであった。
学校からの帰り道に、少女は横断歩道の前で教えられた仕草で真っ直ぐに手を上げた。一台目の車は猛スピードで少女の前を通り過ぎて走り去った。少女は気を取り直して次に来る車を見つめて手を振った。二台目に来た車には中年の眼鏡をかけた女が乗っていた。女は少女の前をそのまま通り過ぎた。すれ違いざまにその中年の女と少女は目が合った。とても冷たい目だった。「邪魔だ!」と言わんばかりに少女を睨み付け、そして蔑んだ様な視線を少女に投げた。走り去っていく車のマフラーから立ち上る排気ガスが陽炎のように揺らめいて、その後姿が歪んで見えた。それから果てしなく時間が過ぎ、少女の目の前を多くの車が通り過ぎて行った。少女の目からは涙がこぼれた。それでも少女はそこに手を上げたまま立っていた。

翌日の放課後、少女は職員室へ向かった。担任の先生は算数の答案用紙を採点中だった。
「どうしたの?」
「横断歩道で手を上げても車が止まってくれないんです」
「そう、あそこは道路も広いし危ないから、気をつけないとね」
「何故ですか?なんで止まらないんですか?」
「そうね、みんな急いでいたのかしら」
「習ったことと違います」
「だから、気をつけないと駄目なのよ。さあ、もう帰りなさい」
「でも」少女がそう言いかけて先生を見つめると、先生は何もなかったように、忙しく算数の採点を始めていて、もう少女を見向きもしなかった。
それから少女は横断歩道で手を上げる事を止めた。そればかりではなく、大人達の言う「ルール」自体が薄っぺらの意味の無いただの習慣のように思えた。

少女は男達の欲望に身体を貸してやっているあいだじゅう、いつもその事を思い出すのだった。この少女にとって、信じることに値するものなどこの世には何も無かった。そして少女自身のこの身体も借り物にしか過ぎないと感じていた。
深夜の街をふらりと彷徨いながら足を止めると、テレビのモニターには嫌らしい目付きのオヤジと見当違いも甚だしい評論家のおばさん、そして子供たちの味方と称する偽者の教育者が映っていた。皆、好き勝手にわかった様な口振りで、自分の飯の種を稼ぐのに必死のように少女には見えた。
「何故、横断歩道で誰も止まらないのか教えてくれよ」
少女は吐き捨てるように言うと、暗い路地裏へと歩き出した。
閉店した飲食店の裏口には青いポリバケツに入った生ゴミが置かれ、そのポリバケツの割れた穴から茶色い汁が流れ出して、その裏通り一帯に異臭を放っていた。そしてその周りには数匹の野良犬がうろついている。少女は手当たり次第にポリバケツを蹴飛ばして倒すと中身を路上にぶちまけた。まだ濡れた白身のトロリとした卵の殻が糸を引いている。少女はその殻をハイヒールで踏みつけた。張り詰めた心が砕け散るような鈍い音が暗い路地裏に響いた。そして野良犬は餌にありついた。
暗い路地裏を抜けて街一番の繁華街に出た。そこは太陽の代わりに、昼よりも明るいネオンに照らされている場所だった。少女がその通りを歩くと、何処からとも無く口笛があちらこちらから鳴り響いた。それは眠らない街にたむろする男達の冷やかしの口笛だったが、少女は彼らをいちべつすることもなくただ真っ直ぐ前を見つめて歩いていた。すると、ある男が少女に声をかけてきた。
「何してんの?ひとり?」
少女は立ち止まり、男の目を見ながら言った。
「あたしは、病気持ちだよ」
すると男は顔をしかめながら走り去った。
「お前らも、全員、病気持ちじゃないか」少女は心の中でそう言って、また歩き出した。そんな風に長い夜をやり過ごした少女は始発電車で家に向かった。最寄の駅からアパートまでの道のりで、新聞配達の学生とすれ違った。学生は少女を見ると顔を硬直させて、少し赤くなりながら通り過ぎていった。少女は口元に少し笑みを浮かべながら、さび付いた薄っぺらいアパートの階段を上って部屋に入った。
「ただいま」部屋には誰もいない。その代わりにゲームセンターで集めてきた無数のぬいぐるみが部屋に整然と並んで、少女の帰りを待っていた。少女は服を無造作に脱ぎ捨てて、45度のシャワーを頭から浴びた。白い肌がみるみる赤くなり、湯気が立ち上り浴室を霧の中のように白くした。その浴室の換気扇は半年前から動かなかった。その役立たずの換気扇からは錆びた茶色い汁が水滴になって落ち、少女の洗いたての白い肌に血の様な色を滲ませ、やがてバスタブの中を流れ、何処へ続くとも無く開いた排水溝から流れていった。そのあとを少女の長い髪が何か後を追うように流れていった。少女は濡れた身体を真っ白なバスタオルで丁寧に拭き、それを胸の所で結んで浴室を出た。部屋の片隅には学生時代から使っていた姿見が一枚、壁に立てかけてあった。その前に少女は立つとタオルをはずし、鏡に映った自分の裸体を眺めた。美しい白い肌の表面にほんのりと湯気をまといながら、少女は自分の姿を見ていた。まとっていた湯気も消えうせ、肌に空気を感じた頃、少女は我に帰り、パジャマに着替えた。そして、そのままベッドへと倒れこんで眠ってしまった。

翌日の午後、少女は目を覚ますとジーパンとTシャツに着替え、薄っぺらいアパートの階段を駆け下りて、いつものコンビニへ向かった。小雨に濡れながら少女は歩いた。少女は傘が嫌いだった。傘をさすぐらいなら濡れた方がましだと昔から何故か考えていた。そして前方の信号の無い横断歩道の前に、黄色い傘をさしながら立っている小学生の女の子が見えた。女の子は手を上げては、車の止まるのを待っていた。しかし、車はその女の子の前を猛スピードで通り過ぎて走り去っていく。枯葉マークを付けた年寄りの運転する車がゆっくりと横断歩道に近づいてくる。女の子は止まってくれるのだと思い、歩道に手をあげたまま一歩踏み出してその車の運転席を見つめた。しかしその車も止まることは無かった。しかもその年寄りの運転者は少女にさえ気付いてはいなかった。きちんとアイロンをかけた線の美しい女の子の制服に路上の泥水が飛び散った瞬間、少女は女の子に駆け寄った。少女はその女の子の手を握り、声を掛けた。
「大丈夫?一緒に渡ろうね」
女の子は嬉しそうに少女の言葉に頷いた。二人は雨の中でやって来る車に手を上げた。やがて、一台の車が止まった。運転席に礼を言いながら頭をさげると、運転者は二人の顔も見ずに、手を払う仕草をして、「早く行け」と言わんばかりだった。少女は横断歩道を渡り終えると女の子の目線までしゃがみこんで言った。
「あなたは正しい事をしてるんだから、それでいいのよ。決して諦めては駄目。いい子ね」
女の子は少しキョトンとした顔で少女を見つめた。
「おねえちゃん、ありがとう」そう言うと女の子は明るく笑って走っていった。走りながら、何度も振り返り、黄色い傘をくるくる回して少女にさよならを言った。去っていく女の子を見つめながら、少女は自分の幼い頃を思った。
それ以来、少女は春をひさぐ商売をやめ、そして同時にあの横断歩道の光景を思い出すこともなくなった。
しかし、少女は今でも傘をさすのだけは嫌いだった。