少女が売られてゆく

ネパール・インド間のオープンボーダー(柵の無い国境)を越えて、
年間5000~7000人の貧しいネパール人少女が、
インドへと人身売買されている。
被害者の年齢は14~18歳が主流。
その大半が16歳以下であり、
中には5~7歳の初潮さえ迎えていない幼女も含まれる。



現実とは何か?

ゴミ問題を語るより、外に出てゴミをひとつ拾う方がリアル。
僕は○○な気分に浸ることの、
虚飾に疲れ果てているのかもしれない。

さて、語ること以上に気持ちが本当なら、
さてさて、どうする?

もっともらしい言葉を並べ立てるよりも、
銀行振り込みの方が効果を生む場合もある。

さてな・・・眠れそうにないね。



甘えの論理と現実

外傷後ストレス障害「PTSD」

ことある事に、PTSDという言葉がマスコミで大きく取り上げられてすっかり有名になりました。
それ以来、何か大きな事件や出来事が起こるたびにPTSDが注目を集めるようになりました。
PTSDとは、何か脅威的なあるいは破局的な出来事を経験した際に起きるものです。

外傷後ストレス障害?
新しい言葉をきちんと理解しなければ、
誤解を生むような事態が発生しかねないだろう。


本来フォローしなければならない人間とは誰か?

戦後の人々は誰がフォローしたんだろう?

誰もしていない。

自ら立ち上がる「力」は何処に消えたんだ日本人!

いちいち、弱さだけを強調する世相には、
うんざりさせられる。

自分の人生自分で立ち上がり、困難を超えよ!

生まれてこの方、可能性も平等も選択肢もない人間よ。
それこそ、スタートラインに立たせてあげたい存在である。



怒!赤ちゃんポスト!

親が養育できない新生児を匿名で託す熊本市の慈恵病院の、「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」に、
運用初日の今月10日、3歳とみられる男児が預けられていた。

赤ちゃんポストの賛否を問うブログではないが、
このポストが承認されたことによる次なる問題への序章である気がしてならない。

これから何が起きるのか想像に難くないであろう。

ここで考えねばならないのは、
何かを容認した場合に起こりえるマイナスの反応である。
本来の救済措置が逆の行為を生んでしまうのも世の常。

実施する側の想いと裏腹に、
「捨てる」ことの容認も同時にしてしまっている現実が、
あることは否定できない。

そして、「捨てる」という行為の容認だけが一人歩きしてしまった。
3~4歳児を自ら連れてきて、ポストに入れる・・・。
こんな無惨な仕打ちは人間としてあってはならない。

善悪を語るつもりもないし、賛成派でも反対派でもないが、
人間の負の遺産であることは確かなことだ。

僕はこの「一人歩き」してしまう「身勝手な論理」の方が、
赤ちゃんポストの賛否を語るよりも、
重大な事実のような気がしてならないのです。

皆さんはどうお考えでしょう?
赤ちゃんポストⅡ
この「赤ちゃんポストⅡ」を書いて10時間経ちましたが、
話題が抽象的すぎてコメントが難しいようなので、
記事を書き換えます。

「怒!赤ちゃんポスト!」をご覧でない方は、
貴重なコメントをお読み下さい。

個人的な意見ですのでご容赦下さい。

ここにマザーテレサの言葉があります。
「自分が誰からも必要とされていないと感じることがこの世で最も悲しいことです」

赤ちゃんポストを考えるとき、
どうしても心に引っかかるのは善悪や善し悪しでこの問題を語ることの不条理です。
しかし、社会生活の複雑化した環境では、
答えの出ない問題にも答えを出さねばならない場合もあります。

もちろん、この事件だけで全てを語ることは出来ません。

悲しいことですが、ポストに預けられる赤ちゃんも、連れてこられたお子さんも、
「誰からも必要とされていない」存在なのかもしれません。

確かに、虐待や殺されることなく命だけは助かります。
そして、未来に起こりえる不幸な事件は起こらずに済む可能性は高くなりました。

その救われた命と同時に更なる難問も同時に生まれました。
お金で解決出来る問題ならまだよいのですが、そうではない。

いずれにしても彼らは、
深い傷と共に成長しなければならないのは避けられません。

僕たちは何が出来るのか。
答えの出ない難問を永遠に考え続けることのはじまりです。



3歳児に万引き指示!

3歳の長男を使って万引きをしたとして、
母親(29)とその姉(29)、祖母(55)が、
窃盗容疑で逮捕された。

受付カウンター脇に平積みされていた映画のDVD3枚(計9200円相当)を盗み取らせた疑い。

おいおい!何を指示しとんねん!

全国の3歳児の皆さんは、
親といえども、うかつに信用してはなりません!って!
そんなことは当然無理・・・。

窃盗一家にとっては、これが子育てであり、教育なんだろうね。

どんな対策をしたら防げるんでしょうかね。
生まれる前に、「生まれてからの注意事項」なんかを、
読んでもらうしかないのかな・・・。

それも・・・無理か・・・。

なんか、疲れましたね。



冬の吉野山

奈良県吉野山は千本桜で知られる名所です。春になり桜が咲く頃には全国から観光客が押し寄せてきます。しかし、今はまだ冬なので人影はほとんどありません。雑誌の企画で「義経と静御前」をやると言ってしまい、真冬の吉野山へ来たわけです。この地で当時わずか16才の静は大峰へと向かう義経と別れたのです。記録では静は身重だったと言われています。山々を望み、女人結界の石碑に彼らの運命を見たような気がしました。吉水神社では宮司さんの特別なはからいで静御前が着ていたとされる着物を特別に見させて頂きました。桜の花びらの散る如く、儚く散った「義経と静御前」の恋。3月の中頃には吉野山は見事な桜色に染まります。どうぞいらしてください。
◇追伸◇去年桜の頃に吉野山を訪ねたとき大変気になる光景を目にしました。よもぎ餅や吉野葛のお店が軒を連ねる通りからケーブルカーに乗る道には、所々にゴミ箱が設置されています。夕方にはお店の方々がそのゴミを片付けてくれています。しかし、マナーの欠如した方が分別もしないで捨ててしまうのです。お店の方は道路にゴミを全部広げて、自らの手でゴミを分別していました。とてもショッキングな光景に、思わず頭が下がる思いをしたものです。美しい桜とゴミの山。雑誌には書けない現実を何処かに書きたいと思っていたところでした。美しい桜を見た後には、自らの心も行いも美しくしたいものです。全国何処に行こうがそれは同じです。お互い気を付けたいものだと感じました。
吉野山土産
さて、春の桜の頃に吉野山へお出かけの方にちょっと情報です。吉野には吉野雛というのがあるんです。お土産屋さんの沢山ならんでる通りに「太田桜花堂」という、やっぱりお土産屋さんがあるのだが、そこのご主人が手作りしているのが吉野雛。めっちゃ話好きのお元気な方です(一度つかまったら30分は帰れないと覚悟してください)しかし、話が面白い!吉野の歴史から何から、まるでガイドのようにお話ししてくれるんです。吉野好きにはたまらない情報満載です。それにお店にちょこんとお座りになっていらっしゃるのがおばあちゃん。なんと96歳!これまためっちゃ元気!金歯がかわいらしい方です。しかし、昔の方は凄く気を使ってくださるんですね。「お茶はどうですか?冷めたら美味しくないよ。もう入れましょうか?」う~ん。日本の良さを改めて実感しました。そしてお腹がすいたら「初音」という食事所がおすすめです。女将が美人で料理も美味い!デザートは八十吉の葛きりがおすすめ。絶対に美味いです。さあ、春が待ち遠しいですね。僕も行きます。



冬の釣り師

酒と釣りと詩を道連れに42年過ごしてきた。

冬になると、何か心にぽっかりと穴が空いたような気になる。
釣りに行けないからだ。

釣り師が冬をやり過ごすためには想像力が必要だ。

書斎(茶の間)の暖炉に薪を入れ(ストーブに灯油注入)アイリッシュウイスキーをバカラのグラス(100円ショップのグラスに焼酎)を注ぐ。

そして僕は思い出す。アラスカの河で釣り上げたキングサーモンの美しさを(琵琶湖のブラックバス)

あの夏の日に出会った少女は(売店のおばちゃん)今頃どうしているだろうか?

金色の髪を風になびかせて微笑んだあの娘は(白髪のおばちゃんが土産を買ってもらったので笑っている)元気だろうか?

忘れないでと手渡された一通の手紙(取り寄せのパンフ)を、僕は握りしめて飛行機(自家用車)に乗り込んだ。

そんなセンチメンタルな思い出が部屋に垂れ込める頃、僕は君に長い手紙(新年のご挨拶)を書く。

本当は君に言いたかった言葉があるんだ。
愛しているよ(あけましておめでとうございます)。

いつか、また、会おう。(ことしもよろしく)

釣り師は部屋の中で、頭で遊ぶ。
それが冬の過ごし方なのだ・・・。



子猫が教えた生きる力

雨の日の午後

紫陽花の花も落ちてしまった
雨の日の午後
今にも死にそうな子猫を見ていた

もう彼には何も見えない
目やにだらけで塞がれてしまった瞼
頼りなく震える細い首に
少し大きめに見える頭がゆれている

生命の終り

何処にも親猫の姿は無い
ただ静かに大粒の雨が
風も無い午後の地上に降っている

その体にタオルを掛け
濡れた頭を撫でてやると
彼は震えながら立ち上がろうとした

いま生命が消えるその時に
子猫は己の足で立ち上がるのだ
猫が人の子を超える瞬間を見た

人の子はこの子猫ほどに強くない

人の子の僕には出勤時間が迫っていた
僕は立ち上がり歩き出す
生命の無い世界の果てに

そして思っていた
彼が天国で何処までも続く野原を駆け回る姿を

そして僕は雨の中を
振り向かずに歩いた。

この詩は奈良に来る前に住んでいた川崎でかいたものです。
借りている駐車場の後方には1階のベランダが張り出していて、そこ下に段ボールで小屋を作り、野良猫たちの家を密かに作ってしまいました。

「こげ茶猫」と「しろ足アホ茶猫」と名付けた夫婦猫は毎年そこで子猫を生むのですが、どれも育つことなく死んでしまいます。野良猫なので栄養が足らずに死んでしまうのでしょう。

ある年の6月に生まれた3匹の子猫の中に最後まで生き残ったよれよれの猫が一匹・・・。毎日ミルクをあげましたが、日に日に弱っていきます。

この詩を書いた雨の降る日、いよいよ最後の時がやってきました。とても寒い日です。
子猫にタオルをかけて頭を撫でてやると、彼はプルプルと体を震わせて最後の力を振り絞って立ち上がろうとするのです。

そこに僕は生命の根源を見たような気がしました。
「生きようとする力」
子猫は僕にそれを教えたのです。
それは人間と猫という垣根を越えた教えでした。

苦しいとき。
悲しいとき。
僕はあの雨の中の子猫を思い出すのです。

翌年にも子猫が生まれました。
ショボイよれよれ猫なのですが、生命力が強いんです。
小さい体で、大人の猫を蹴散らして餌を食べます。
僕はその猫に「凶暴」という名を付けました。

いよいよ、奈良に引っ越しの朝。
雨の中で死んだ猫の生まれ変わりのようなこの猫を車に乗せ、
出発しました。

いま、彼はコタツの中で満足そうに寝ています。

最近は自殺のニュースが多いですね。
命の大切さと生き抜く力について、
改めて考えねばならない時代が来ています。



土門拳が愛した大和路

奈良の雑誌naranto(ナラント)に
土門拳の「雪の室生寺鎧坂金堂見上げ」という名作と
数点の写真を掲載したところ、読者からの反響が凄かったです。

お見せしたいのですが、著作権の関係で残念です!

何度も何度も室生寺を訪ね、雪の降るのを待った土門拳。
雪の降った朝には、定宿だった旅館「橋本屋」の女将の手を握って、
ボロボロと涙を流した土門拳。

筑豊のこどもたち・ヒロシマ・古寺巡礼はあまりに有名。

山形県は酒田市生まれの土門拳はなんと!僕と同郷の方なのです!
おまけに、同じ町内・・・時代はずいぶん違いますよ!もちろん!
まあ、何が言いたいのかと言うと・・・自慢です・・・が。

さて、本題に戻ります。

土門拳は古寺巡礼で奈良を沢山撮っています。
薬師寺の管長であった、高田後胤師から、
「撮影の亡者」と呼ばれた執念の人であります。

僕も室生寺の雪景色に思いをはせながら、
幾度となく室生寺を訪ねましたが雪景色には出会えませんでした。
それに近年は、地球温暖化で奈良にも雪は滅多に降りません。
降ったら降ったで、慌てるのですが、
雪の無い冬は何か不気味です。

日本の四季は
いつの日か、写真でしか見られなくなるのでは・・・。
それを想像すると・・・恐ろしい・・・。

皆さんの街にも温暖化の影響は出ていますか?
何か・・・聞くのが・・・怖いんですが・・・。



瀬戸内寂聴さんの法話

2007年の僕のテーマは「愛」
あれ?「愛」って何?

去年、奈良の東大寺でお聴きした、
瀬戸内寂聴さんのご法話のお話を少しご紹介します。

その日、寂聴さんは「愛」についてのお話しをされました。

内容は「慈愛」と「渇愛」のお話しでした。
「慈愛」とは見返りを求めない愛のことで、
仏様が人間を無償の愛でつつんで下さっているというもの。

それにひきかえ、人間同士の愛は「渇愛」だというのです。
それは自分の損得や見返りを求める欲があるからだと。

ユーモアをまじえながらのご法話は大変素晴らしいものでした。

そして講演が終わり沢山の聴衆の人込みの中を歩きながら聞耳をたてていると、
皆さん「愛」について語り合っている。
法話も素晴らしかったが、
人々が法話によって「愛」について語らう“きっかけ”を頂いた。
そのことの方が素晴らしいのではないかと感じた帰り道でした。

瀬戸内寂聴さんというお方は、宗派や宗教の垣根を越えたお話しをされる方で、
法話の中にキリスト教の聖人や
マザー・テレサといった名前も出てきたりします。
その「何事にもとらわれない自由な心」が
人々を惹き付ける魅力なのかもしれません。

僕は数年前の冬に京都を旅していたとき、
嵯峨野の鳥居本にある「寂庵」を訪ねたことがあります。
勝手にお伺いしただけですので当然、門は閉まっていました。しかし何かしらお手紙を書いて投句箱に入れた覚えがあります。
もちろん返事などは来るはずもありませんが・・・。

「慈愛」と「渇愛」
このお話の中に時代を紐解くキーワードが隠されているような、
そんな気がする2007年の冬の窓辺です。



愛のある海苔弁当とは

かつて、奈良の生駒山の麓の街に、
一軒のお弁当屋さんがあった。
その名は「お母ちゃん弁当」
しかし今はない。

思えば、弁当のチェーン店が目立って増え始めたのは
いつ頃の事だったろう・・・。

凄く昔の記憶だが、10代の小僧だった僕は東京の片隅で
愛のない海苔弁当を食べては
ため息をついていたものだった。

あれから20年以上が経った。
いま何故か奈良に住んでいる僕は、
ある日、その「お母ちゃん弁当」へ入った。
勿論オーダーは「海苔弁当」
それを持参で山の上のお寺へ行った。

良く晴れた日だった。
眼下には奈良の街が広がっていた。

そしてベンチに腰をおろして弁当を開けた。
なんと!
ご飯の上にめり込むように、
唐揚げが1個付いていた・・・。

感動した。
小泉首相以上に
感動した・・・。

その瞬間、奈良は素晴らしいと実感した。

その海苔弁当は、
海苔デラックスでもなければ、
海苔スペシャルでもなく、
海苔唐弁当でも、
唐揚げ海苔弁当でもなかったからだ!

ただの海苔弁当に、唐揚げが「おまけ」してあるのだ。

子どもの頃に楽しみだった「おまけ」の感動が、
全身に蘇ってきた瞬間だった。

もしかしたら、これは何か重大な暗号なのか・・・。

それとも何かのメッセージ・・・。

ひと箸ごとに想像を膨らませる楽しさ。

次の日、また「お母ちゃん弁当」へ行った。
唐揚げが付いているんですね。と尋ねたら。

そうや!おまけで付けてんねん!と、お母ちゃんは笑った。

やはり、偶然でも気まぐれでもない。
僕の読みは正しかったのだ・・・

しかし、それ以上の暗号もメッセージも無かった・・・。

10代の頃から食べ始めた「海苔弁当」
愛のある「海苔弁当」に出会うまで、
20数年の時が時が必要だったのだ。

多くの人に愛された「お母ちゃん弁当」
日本のお母ちゃんの優しさを僕は忘れない。



これが茶筌日本一の里

奈良県生駒市高山地区。
ここが全国で90%のシェアを誇る「茶筌」(ちゃせん)の里です!

「茶筌」とは、茶道の時にお茶をかき混ぜるアレです。
分かりました?

床屋さんでヒゲを剃るときに石鹸を塗るアレにも似ていますが、
全然違います・・・。

冬には茶筌に使う竹を干すんです。
ちょいとした冬の風物詩ですね。
皆さんはご覧になったことがないと思いますので、
「ぶらっと」会員の皆様の為に、
先ほど撮影に行ってきました!

運のいいことに、元気に作業しているおじいちゃんに、
お話を聞くことが出来ました!

竹は1ヶ月ほど干すそうです。
そしてやがて立派な茶筌になるのです。

高山のメイン通りには茶筌の販売店や飲食店もあります。
最近は「茶筌だてコーヒー」や「究極の耳かき作ります」という、
看板があったり、ミステリアスで謎のある里です。


「高山茶筌の歴史」
室町時代中期、高山の城主頼栄の次男・宗砌が、
その親友の称名寺住職・村田 珠光(茶道のエライ方)
の依頼によって作ったのが、
高山の茶筌の始まりと伝えられています。

ときの帝・後土御門天皇の行幸の際にこれを献上し、
「高穂」の名称も賜わりました。
宗砌は以後、城主一族にその製法を秘伝として伝え、
代々「一子相伝」の技とし、 後の高山家没落後も、
その秘伝は十六名の家臣によって伝えられ今日まで受け継がれています。(奈良県高山茶筌生産協同組合さんホームページより抜粋)

あとは、高山かき餅!これは絶品です!

日本の四季を感じる風物詩のご紹介でした。



ある、詩人の生活白書

2月9日の誕生日にあたり、
自分の生活をデーターにしてみました。

◆アルコール消費量
*日本酒の場合=一升を2日で消費(度数17.0)
*焼酎の場合=一升を3日で消費(度数25)
*ウイスキーの場合=1本を3日で消費(度数43)
*紹興酒の場合=1本を一晩で消費(度数不明)
*ジンの場合(冬)=1本を4日で消費(度数50以上)
*ジンの場合(夏)=1本を1日で消費(度数50以上)
上記の銘柄は常備し、様々な組み合わせで飲む。

毎月の酒代(自宅のみ)概算は3~5万円程度。


◆タバコ消費量
*銘柄=GITANES(ジタン)
*原産国=フランス
*タール=10㎎
*ニコチン=0.6㎎
*価格=340円
*仕入れ先=奈良の平田タバコ店のおばちゃん。
*特別発注による取り寄せ方式。
*1日の消費量(平常時)=2箱
*1日の消費量(執筆時)=3箱

毎月のタバコ代=2万4百円~3万6百円。


◆釣りに関する消費
*年間交通費=不明
*年間ボート代=4~10万円
*釣り道具在庫一式=200万円相当


お酒に関しては、
詩人の田村隆一氏がお亡くなりになられたので、
酔いどれ詩人としては現在トップクラス。

タバコと酒に関しては、
開高健氏がお亡くなりになられたので、
愛煙家&釣り師としてはトップクラス。

肝心の詩に関しては、
四角い升が泥の中にゆっくりと沈んでいくような状態。

う~ん。
新たな歳を迎えても・・・多分・・・一生変わらない気がする。

お粗末!



冬の釣り師の誕生日

2月9日は誕生日でした。

冬に腐ってしまった釣り師の為に、
水槽をプレゼントされました!

僕が毎日毎日、あ~あ、釣りに行けね~よ!
とほざいている姿を見かねた「愛情」のある人が、
プレゼントしてくれたんです。

さあ!魚をいれるぞ~!
淡水魚が好みですね。
候補は=ピラニア・ナマズ系ですね。

小さな生態系を見ながら、
地球の未来を考えます!

なんて本当は、酒を飲みながら川底を眺めたいんです。
あ~あ、また酒の量が増えるな・・・気分いいから。

これも辰年の水瓶座の運命ですかね。



丹波篠山ぼたん鍋

あれれ?っと酔っぱらって変なところを押したかな?
記事が飛んじゃいましたね。

まあ、改めて書きますが、これは絶対食べてください。

駅からバスで20分程走ると中心街に出ます。
お城のあるところで下車します。

まずは「大手食堂」の
「牛とろ丼」と「そばとろ」です。
山芋とろろが絶妙です。

「黒豆パンの小西」
これはもっと買ってくれば良かったと後悔する美味さ。

「黒豆ソフトクリーム」
ご当地ソフトの中でも品が良く美味しいです。

「日本酒の鳳鳴(ほうめい)」
辛口がおすすめです。

蕎麦所の「一会庵」(昼の1時ですでに売り切れ!)
今回食べ損ねました・・・とほほ。

僕が今回丹波篠山で購入したリスト
*丹波篠山の黒豆ビール。
*丹波篠山産銀杏
*黒豆
*日本酒3本
*黒豆パン
*猪肉サラミ
*黒豆ソフトクリーム
*イノシシのマグネットマスコット
*きんつば

ぼたん鍋は「みたけ」で食べました。
味噌仕立てで激ウマです!

3月いっぱいはぼたん鍋で新鮮な猪肉を味わえます。
まだ間に合います皆さんもどうぞ!

干支なのに・・・食べてよかったのかな?

あ!そうそう。
イノシシカレーは絶対買ってくださいね。
味はまだ不明ですが、
面白いじゃないですか!



老母と息子が自殺

豆腐店経営の老母と息子さんが
「先行き不安」との遺書残して自殺した。

場所は東京荒川のシャッター通りの商店街。
チラシの裏に書かれた店主の遺書に、
「収入が減り、先行きが不安」と書いてあったという。

全国でもシャッター通りは問題化している。

人間の生活は確かに便利になった。
都会では数十メートルおきにコンビニがあるなど珍しくない。

ネット販売でも、買えないものはないぐらい何でもある。

品物とお金。

売る人と買う人。

手法と関係だけが存在しているが、

何かが欠けてはいないだろうか?

物だけが流通するが、心は流通しない。
狭い井戸の中で暮らしているような閉塞感がある。

売る人も、買う人も、何かを忘れかけてはいないか?

合理的という尺度で測った人間関係など、
肉のない、肉まんと同じだ。

シャッター通りの商店街

先行きが不安な店主達の前を
先行き不安な人間が通る

誰にとっても不安な先行き、
そして先行き不安な地球。

せめて、不安で死なずにすむためには、
何がいま、必要なんだろうか?
親切が出費を減らす
昔は商売にならなかったようなサービスが、
商売になる世の中です。

そんな世の中で、
出費を減らす方法があります。

例えば僕の場合、
知り合いのホームページの文を見やすいように
直してあげます。
勿論タダで。

そのかわり彼は
酒一升をくれます。
僕は気分良く人に喜ばれ、
タダで酒が手に入ります。

お金の流通はありませんが、
結果は同じ効果を生みます。

100人、1000人規模でそれをやると・・・。
出費が激減します。

そうです。
お金がない人は
「親切な人間になればいい」のですね。

助け合いはお金と同じ効果があります。
そして、お金以上のプラスになるでしょう。
昔の日本はそうでしたね。

今はなんでもお金です。

地球に優しい自然保護のボランティアも
お金にはなりませんが、
新鮮な空気になって自分に戻ってきます。

そして、健康に生活できる。
僕たちは忘れた何かを取り戻さねばなりません。



春の祈り

僕がまだ28歳ぐらいの頃の話です。

当時、僕は田舎で小さなBARを経営していました。
昼は釣りに出掛けたり詩を書いたりして過ごし、
夜になるとちょっとだけ稼ぐのです。

地元の新聞などで僕の記事が出始めた頃には、
遠くから会いに来る人や何処かの校長先生や
話し好きの文学オヤジなども訪ねてくるようになりました。

昼は喫茶店としてお茶を出していましたが、
ほとんど開店休業状態です。

そこにある日、ひとりの女性が訪ねてきました。

「山吹先生はこちらでしょうか」と恥ずかしげに。
はい。先生ではなくタダのBARのマスターですけど。
と僕は言いました。

歳は多分50代くらいの品の良さそうな奥さんです。

詩が読みたいというので、
広告の裏に書かれた僕の詩を読んでもらいました。

「実は私も詩を書いているんです。書きためた詩を
いつか出版したいと思っていましたが、
もうこの年では無理です」と彼女は言いました。

人生に遅すぎることなどありませんよ。と、僕が答えると、
彼女は「そうでしょうか・・・」と不安げです。

結局、彼女はコーヒーを飲んで帰りました。
数日後、お礼の手紙が来ました。
お店に来ただけなのに、お礼の手紙・・・。

僕も返事を書こうと思いましたが、
年上の方に書く言葉が見つからず、
詩を書いて贈りました。
題名は「春の祈り」です。

そして、1年が過ぎ、また春がやってきました。

ある時、3人連れの家族が店のドアを開けて入ってきました。
それは、1年前に訪ねてきた彼女でした。
旦那さんと娘さんを連れてやって来たのです。

そして、彼女は嬉しそうに一冊の詩集を
僕に手渡してくれました。

出来たんですか!と僕が話すと、
「贈って頂いた詩を読んで、勇気がでました。
旦那や娘にも協力してもらって、出版の夢が叶いました」
と、それはそれは大変な喜びようです。

帰り際、彼女はひとりで店に引き返してきて、
僕にこう言いました。

「あなたが勇気をくれました。あなたの為に作った詩集です」

それだけ言うと彼女は帰っていきました。

その詩集のタイトルになっている詩は
本の一番最後に書かれてありました。

そこには、彼女が初めて、僕の店に来たときの事が、
詩になって綴られていました。

その後、僕は放浪の旅に出てしまい、
彼女に会うことはありませんでした。

人間同士の出会いとは不思議で素晴らしいものです。



戦争って何だろう?

小学生の頃の僕は、
祖母や祖父によく戦争の話を聞いた。

聞いたと言うより、
次から次から聞きたがった。

しかし、実感がなかった。
まあ、戦後の生まれなんで、
実感などあるはずはない。

祖母が繰り返し語る闇夜の恐怖。
爆弾が何処に落ちるかも知れない恐怖を思った。

やはり、その恐怖が僕には理解できない。

ある深夜、僕は台所に忍び込んだ。
錆び付いた大振りの出刃包丁をこっそり拝借・・・。

その後、裁縫道具入れからしつけ糸を拝借・・・。

部屋で包丁の柄に糸を結んだ。
それを天上の碁盤の目のような隙間に結んで吊すのだ。

糸に垂れ下がった包丁が畳に影を落とし、
部屋の中は緊張に包まれた。

その下に布団を移動する。
包丁の先には枕を置いて、

枕から包丁の先まで約70センチ・・・。

さて、闇夜から爆弾が落ちてくる恐怖体験実験室完成。

恐る恐る布団に進入し、
枕に頭を載せる。

長く垂れ下がった電球のひもを引けば闇夜。
見えない恐怖は確かにそこにある。

目をつむることが出来ず、
冷や汗を流しながら数時間・・・。

耐えきれず、起きて実験終了。

怖いとか、怪我をするとかは考えなかった。
命が闇夜の中で吊されている気分だった。

この何十倍も、何百倍もの恐怖・・・それは分からないが、
何故こんな恐怖が普通にあるのかという不条理を感じた。

戦争ってなんだろう?

今やひねくれ果てた詩人も、
幼い日は純粋にそんなことを考えたのだろうね。

その後、詩人は小学校で変わり者扱いを受けた。

先生に、「将来立派な人間になれませんよ」
などと叱られる度、
「立派な人間なんていませんよ」と答えた。

小学校5年生の時は
保健室に呼び出されて、
ひとり、知能検査を受けさせられた。

今じゃ考えられないことが次々に起こる。

あげくの果てには家族が呼び出され
先生から「この子は将来犯罪者になる」と太鼓判を押された。

しかし、自殺なんて選択肢は思いも浮かばなかった。

面白くなってきたな・・・程度のものである。

犯罪者になると烙印を押された馬鹿ガキは、
10年後には詩人になった。

先生、予想が外れてしまい申し訳ありません。

しかし、戦争って何だろう?

30年ぶりに
包丁でも吊して寝ますか!(笑)



詠み人知らず

世界の名言集なんて本は沢山ありますが、
人間の魂の底の方で流れている言葉は「詠み人知らず」の
人生の知恵ではないでしょうか。

知識も大切なのだが、知恵とはちょっと違う気がする。

知識や経験の集合体が「知恵」なのかも知れませんし、
原始的な太古の記憶が肉体的な「知恵」の根源かも知れません。

誰が言ったか、誰が書いたか、また、伝えたか、
という出典は実はあまり重要ではないのです。

演劇や表現を通じて、多くの若者と接してきました。
全国に沢山の弟や妹が誕生し、
それぞれの道で頑張っています。

彼らは今でも奈良の僕の所へ訪ねてきます。
昔のように酒を酌み交わしながら、
学生を経て、いまや大人になった彼らの話を聞きます。

ふと気がつけば、
10年前に僕が話したことを彼らが話し始めます。
勿論、「それは俺が教えたことだろう」などと
野暮なことは言いませんが・・・。

堂々と自信を持って話す姿を見ていると
嬉しくなります。
それは、彼らの中に「僕の言葉」をみるからです。
僕の言葉は、長い年月を経て、
いまや彼らの言葉となったのです。

ひとりのしがない詩人として、
このことは僕の人生の宝物なのです。

そして、彼らがまた誰かに伝えるのでしょう。

「詠み人知らず」
誰の言葉か知らなくとも、
僕たちは先人の知恵や言葉に感謝することが出来ます。

そして、誰の言葉にも素晴らしい輝きがあります。

さあ、想いよ風に運ばれて、
世界へ伝われ。



サファリパークの動物

最近では犬や猫と遊べるカフェというのも流行ってますね。
ペットショップも急増中です。

その反面、保健所で処分される動物も急増しています。
外来種を外に捨ててしまい増殖していたり・・・。

山本さんのダチョウレポートは悲しかった。
武重先生はサファリパークをご覧になったことがない。

そこで、某サファリパークの現状を報告します。

サファリパークの敷地は広大です。
各エリアには車で入れますが、
巨大なゲートがエリア事にあります。
肉食と草食はもちろん分けられています。
なので、サファリと言えども、狩りは出来ません。

車で敷地内を走ると、歩いて見れるエリアもあります。
この場所は動物園とほとんど同じです。

熊の連続写真がありますが、
これは餌を投げてくれるお客さんを見上げています。
なんと立って手招きをする芸を披露するのです。
嬉しいような、悲しいような光景です。

ライオンや肉食獣のエリアは車で通るだけなのですが、
アフリカでは、このような環境にマサイ族が歩いていると
想像するとかなり怖いです。
僕は・・・無理です。

多種多様な動物がいますが、
象はやはり人気です。
金網の間から餌をもらうのですが、
象の鼻は人間の手と同じで器用に動きます。

全体に清潔で明るい雰囲気でしたが、
狭い檻に入れられているチーターなどは、
同じ場所をお百度参りのようにずっと歩いています。
完全にノイローゼ状態です。

カバも池らしき所にいますが、
何処にも行くことは出来ないので、
鼻と目を地上に出したまま動きません。

動物の種類によっては、
まったくこのような人工の自然に適応できない
種類もいることは明らかです。

サファリパークという人工自然の中で
動物を見せるというのは、
いっけん理にかなっているように思えますが、
果たしてどうでしょうか?

自然に近い形で動物が見られるという方もあれば、
人間のエゴの極致だと感じる方もいるでしょう。

また、動物を見せる施設はいらないという方もあれば、
人間が出向くべきだと考える方もいるでしょう。

自らが暮らす地球環境さえ、
コントロールできないでいる人間が考える「価値観」
そのものを問い直すべきなのかも知れません。



死んだ言葉の行く末

街に溢れる言葉。

心に届く響きを持った言葉は
ほんの僅かだ。

ありがとう・こんにちは・いらっしゃいませ・またどうぞ。

その言葉は誰に向かって放たれた言葉なのか?
いや、言葉ではなく単なる発音でしかない。

機械もしゃべる。
「イラッシャイマセ・アリガトウゴザイマシタ」
心のない発音がこの国の礼儀なら、
まあ、これで充分だね。

街に溢れる言葉が、
イラッシャイマセ・アリガトウゴザイマシタと聞こえるのは、
僕だけだろうか?

サングラスをかけ、
音楽で耳をふさぎ、
携帯画面を見据えて、
指は文字を絶え間なく打ち込み、
足はうつろに目的地へ向かう。
職場では録音のテープよろしく
発音を繰り返すだけ。

借金だらけでも
ブランドバッグを持ち歩くのに、
心の中はお構いなし。

誰が、そんなことを教えたのか?

見かけより、中身が大事だと教える大人は死に絶えたか?

死んだ言葉を聞く度に、
この国の行く末を考えてしまう。
親という名の犯罪者
阪奈道路は元々有料道路だったが、
今は無料で走れる一般道。

その路肩に停車している車が一台。
中からガードレール側に子どもが降りてくる。
手にはビニール袋を持って・・・。
そして、路肩に投げ捨てる。

子どもが「路肩に車を止めてゴミを捨てようぜ!」
と、言うはずはない・・・。

そう指図したのは「親」のはずである。

この親はきょう、二つの犯罪を犯した。
ゴミの不法投棄。
そして、子どもの心にもゴミを捨てた罪。

路肩に捨てられたゴミは、
いつの日か温かい人によって葬られるかも知れない。

子どもの心に捨てられたゴミは誰が拾ってくれるのか・・・。

イジメや自殺は
大人が捨てたゴミが生み出した悲しい現実か。

子ども達はゴミ溜めの中で彷徨う天使か。

僕を含めた大人と呼ばれる人間に問いたい。

あなたは今日、
目に見えないゴミを
捨てなかっただろうか?

そして、エイプリルフールの今日の事だから、
「うそ!うそ!ごめんね~」と言いながら、
あのゴミを捨てた家族が戻ってきて
ゴミを拾いに来る可能性はどれだけあるだろうか・・・。
大人の花見は長谷寺で
さあ、どこもかしこも人だらけ!
仕方がないのですが、



大人の花見のおすすめは長谷寺

吉野も良いがのんびり桜を味わう旅ならここです。
しかし、今日がピークっぽい感じなので来年の参考にどうぞ!

長谷寺は花のお寺で有名で、5月には見事なボタンが咲きます。
長い長い石段をのんびりと歩きながら、
楽しむ余裕はまさに大人の花見です。
ご本尊の十一面観音像も凄い!
しかし・・・撮影禁止!

駅からの参道にはお店がいっぱいです!
草餅・地鶏のおこわ・太巻き・芹の油炒め。
ついでに、にゅうめん・ざるそば・柿の葉すし・・・太ります。
かなり、食べ過ぎました・・・とほほほ。

お土産は、湯葉&地酒2本!
地酒購入を想定してしっかりリュックで行きました。

来年、奈良に来る方は長谷寺ですぞ!!!



人間の心の復興とは?

奈良は薬師寺の(故)高田好胤師をご存じだろうか?
昭和、平成の名僧として名高い御方であります。

高田好胤師は般若心経の勧進で薬師寺を再建した人物。
現在の白鳳伽藍はその業績の証である。
しかし、まだ完成ではない。
数十メートルで伽藍が全部つながる所まで来ているが、
その僅かが中々つながらない。

薬師寺の僧侶と話をするうち、
やがて伽藍はつながるだろうと言う話になった。
後何年先かは分からないが、それは必ずそうなるだろうと僕も感じた。

しかし、高田好胤師が提唱したのは、
薬師寺の白鳳伽藍の復活だけではない。
それは、「人間の心の復興」である。

僕はその言葉を聞いてドキリとした。
白鳳伽藍の復興は目に見えて結果が分かる。
しかし「人間の心の復興」は?

僕は改めて時代を突きつけられた思いで、
そのことを考え続けた。

昨日、筑紫哲也さんがニュースで環境問題を取り上げていた。
地球はもう瀕死の状態なのだ。
様々な取り組みがなされている事実の裏で、
庶民の意識が同じように高いとは言えない現実がそこに横たわっている。

行動するには心を整えなければならない。
心とは言葉であり、言葉とは人生を開くことである。

般若心経を写経しながら頭から離れないのは、
「人間の心の復興」だった。

戦争は何故起きるか?
対話を止めた結果である。
話すことを諦めた人間には選択肢がない。

どんなに辛い状況でも対話を諦めてはならないのだ。

高田好胤という偉人のやり残した仕事を
僕はすこしづつやりたいと感じていた。

復興する薬師寺の白鳳伽藍のように、
僕たちの心は愛でつながらなければならない。



天使のいる牧場にて

奈良の駅から車で10分。
植村牧場という小さな牧場がそこにある。
120年の長きにわたり営業を続けてきた。
そして現在も手作業での牛乳作りがおこなわれている。

その主力は知的障害をもつ方々。
大人もいれば、中学生ぐらいの男の子もいる。

牛舎に入ると「どうぞ」という声が聞こえた。
明るい笑顔と屈託のないまなざしがそこにあった。

生まれたばかりの仔牛がこの場所に、
新鮮な生命感を漂わせていた。

何故かどんどん心に染み込んでくる何か。
それは「生きる力」だ。

ふと頭をよぎったビジュアル。
それは牢屋である。
僕とあなたの間に牢があるとする。
どちらが内側で、どちらが外側だろうか?
多分全員が自分は牢屋の中ではなく、
外の世界の一般人だと答えるかも知れぬ。
しかし事実は天のみぞ知るである。

知的障害者と僕とは何処が違うのだろうか?
考えれば考えるほど相違点はない。
酒とタバコに茶色くなってしまった詩人よりも、
彼らの方が人間らしいとさえ思える。

彼らは子どものように話好きだ。
何処から来たの?
バッグいっぱい持ってるね?
ヒゲはやしてるの?
ヒゲって、何処まで伸びるの?
家のじいちゃんはここまで伸びたよ!

答える方も身構えずに済むのが不思議だ。

美しい人。
美しく生きる人。

黄昏の牧場に暮れゆく太陽の日差しが眩しい。
彼らは知的障害者などではない。

僕は彼らと同じこの地上で
同じ空気を吸い込むことが出来ることを誇りに思う。

世界遺産ばかりが注目される奈良の
小さくて偉大な牧場に明日も日が昇る。



カオスの悲しい死

3人の帝王がいた。南海の帝を(しゅく)といい、北海の帝を(こつ)といい、中央の帝を渾沌といった。
(しゅく)と(こつ)はよく渾沌の領地で会合し、そのたびにもてなしをうけた。
それで、渾沌帝に何とか報いようと考えた。
みると渾沌の顔はのっぺりとして、目鼻がついていない。
ひとつその顔に目耳口鼻など7つの穴をあけて、ものを見たり聞いたり、食べたり、息をしたりすることが出来るようにしてあげようと(しゅく)と(こつ)は考えた。
話が決まると2人の帝は渾沌の顔にひとつずつ穴をあけていった。
ところが7日目になって渾沌は死んでしまった。



カオスの悲しい死Ⅱ

荘子の渾沌の続きを山吹オリジナルでお楽しみ下さい。

渾沌が死んでしまい、途方に暮れた(しゅく)と(こつ)は、たちまち仲違いをしてしまう。
(しゅく)は自由をうたい(こつ)は秩序をうたい、渾沌の弔いをしようとしたのだが、
どちらも互いのうたが気に入らない。
それならどちらが正しいのか決着をつけようと(しゅく)は(こつ)に挑む。(こつ)は(こつ)で秩序が世界の真理であるという。
やがて、戦争がはじまった。
ふたりは血みどろになるまで戦いをやめようとしない。
その足元には小さき者の屍が見渡す限りに続いていてこの世の様とも思えない。
そこに死んだはずの渾沌が亡霊となって現れた。
渾沌は(しゅく)と(こつ)に静かにいった。
お前達は有であり無である。
なぜならお前達は私抜きでは殺し合う運命だからだ。
(しゅく)が勝てば自由が秩序を殺し自由は勝ち誇るだろう。
しかし、その自由は自由をやがて殺すであろう。
(こつ)が勝てば秩序がこの世を支配し自由は死にたえるであろうが、やがて秩序が秩序を殺すのだ。
だがふたりにはその意味が分からなかった。
それならお前達には新しい名を授けよう。
それは「人間」である。
束の間に生きる者という意味である。
そして私が死んでしまった以上、お前達は永遠に戦うさだめになるだろう。
*漢字は次の通り「南海の帝を儵(しゅく)と為(な)し、北海の帝を忽(こつ)と為(な)す」ほんの少し、束の間という意味のようです。



冷笑主義の誕生

むかし川崎市の青少年教育系の会議に出席を求められ出向いたことがあった。
99%が学校の先生。残りの1%が詩人という不思議な会。
そこで、本題ではないが学校で蔓延する「冷笑主義」について話が及んだ。
真っ直ぐに物事にあたらず斜に構え「冷笑」する子どもが激増しているというのだ。

「冷笑」とは、(あざわらうこと・さげすみわらうこと)と、広辞苑では解説している。

しかし山吹辞典では(笑う対象と自らの間に隔たりを確保した状況で笑うこと)と僕の辞書には書いてある。
まあ、僕は自分の辞典しか使わないのでどうでもいいが。

では、なぜ「冷笑」する子どもが激増したのか?

20年前か30年前かは忘れたが、
僕はその当時これはまずいことになるゾ!
と思ったことがあった。

それはすごくつまらないことだ。
「赤信号みんなで渡れば恐くない」が流行った頃だろうか。
僕はこの言葉に驚愕した。ズバリ時代を読んでいた言葉。
「戦争もみんなでやれば恐くない」そう聞こえた。

日本中が笑い転げていた・・・。

「夕日に向かって叫ぶのは馬鹿」
「砂浜を全員で走るのはアホ」

日本中が笑っていた・・・。

それまで、涙を流してい観ていた青春ドラマも、
全て、笑いの種になった。

日本中が笑っていた・・・。

確実に何かが死んだ。
日本人の中の何かが死んだ。

そう感じたのは僕だけだろうか?

あれから、真面目なことは馬鹿らしく見えた?
一生懸命はダサイとかたづけられた?

そしていま、漂流する若者の波。
そしていま、漂流する大人の波。

「冷笑」するこども達。

真剣に生きることはそんなに馬鹿馬鹿しいか。

格好悪いか?

それなら僕は、格好悪くて結構だ。
ダサくて結構だ。

冷笑主義の誕生。

20世紀の心の戦争。
21世紀の人間の尊厳の戦争。
僕はいつでも戦場へ行く。



佛像にみる現代の姿

佛像はガラスケースの中にあれば
美術品となる。

ガラスケースの中の佛を拝む者はいない。
それはもはや祈りの対象ではなく、
鑑賞の対象になってしまっているからだ。

飛鳥時代の佛像を見るとき、
そこにはその時代を生きた人々の悲願の声が聞こえる。

そこには鑑賞とか研究とか美術とかを越えた何かがある。

それは叫びであり詩である。

聖徳太子が貧しき者に対してどう接したか?
知っていますか?

彫刻の美しさなど見ずにいなさい。
見るべきものは他にある。

同じように現代にも、
ガラスケースに飾られた言葉がある。
そしてスポットライトを浴びたスローガンがあり、
鑑賞される理想がある。

暗いお堂の片隅の光も当たらぬ場所にある
真実の言葉を詩人は明らかにせねばならない。



夢のカケラと遠い過去

「何故?何十年も前に話したことを今でも語れるの?」
と、古い友が言ったことがあった。

「何故?あなたはずっと変わらないでいられるの?」
と、これも古い友人が言った言葉だ。

青春時代に思い描いた満天の星のような夢のカケラたち。
輝いていたあいつの笑顔。
自信たっぷりで話す煌めく瞳たち。

いつからか、「仕方ない」という言葉だけが
口をついて出てくるようになり、青春は終わる。

今度は僕が尋ねる。
「若い頃の夢は何処に行ったんだい?」

友人は少し笑って遠い彼方を見つめて黙る。

僕と彼らの間には越えられぬ壁がある。
それは透明だが決して割れることのないガラスの壁だ。

僕の鼓膜の奥底には、
若い日に彼らの語った夢のカケラが響いている。
しかし、もうそれを語った人間は存在しない。

遠い過去のあの日に僕だけが取り残されたままだ。
僕の語る夢の話を聞く友はもう何処にもいない。

この暗い夜道を歩いていると、
この世のすべてが嘘だったのではないかとさえ思えてくる。

青春とは、
鮮やかな絵の具で描かれた
夢のカケラなのかもしれない。



生きるとは何か?

こんな話をどう思いますか?
僕が聞いた外国での話です。

ある日、カナダ人の女の子が泣いていた。
日本人の男が「どうしたの?」と尋ねると、
「故郷のおばあさんが死んだのです」と答えた。

男が、「それは悲しいね」というと、
女の子は「おばあさんが死んだのが悲しくて泣いているのではないのです」と答えた。

男は不思議に思い更に尋ねました。
「では、何故泣いているのですか?」

すると女の子が話し始めました。
「私は大学生です。アルバイトをして進学の為のお金を稼いでいます。そうしないと大学には通えません。ですが先日、故郷のおばあさんが死にました。人は誰でも死ぬので、それは仕方のないことです。なので私は葬式のために故郷へ戻らねばならないのです。故郷はここからとても遠い所にあります。私は、故郷へ戻るために苦労して貯めた学費を使い果たさねばなりません。そのことが悲しくて泣いているのです」

それを聞いた日本人の男は、「自立」という言葉の現実を思いました。カナダでは「卒業旅行」というのがあります。
日本の卒業旅行は単なる遊びですが、カナダの卒業旅行は、親の加護からの卒業を意味します。
なので、親は貧しくとも何とかしてお金を用意し、子どもの行きたい国へ旅行させるのです。家を売ってもその夢を叶えてあげるそうです。
それが、親と子の別れ、親が子にしてあげれる最後の愛だからです。

それは子どもの親離れと同時に親の子離れも意味します。

外国人は自分本位で遠慮がない。
などという話をよく聞きます。
ほんとうにそうでしょうか?

いつでも誰かが何とかしてくれる。
日本人の優しさは尊い文化でもありますが、
その過剰な面倒見の良さが必ずしも善ではないともいえます。

恵まれている人もいれば、そうでない人もいます。
助け合い・癒し・保護・・・美しい言葉の影を見てください。
自助努力もなしに何とか助けてもらいたい人間が溢れています。

環境保護運動が盛んにみえますが、
市民レベルではまだまだ、何もしていない人が多い現実。
誰かが何とかしてくれる時代は終わり、
自分で何とかしなければならない時代が来ています。

人が弱くなれば、それにつけこむ人間も増えます。
例の大手の介護事業者がそうです。
その人間を裁くことは簡単ですし、そいつだけを悪者にすればなんとなく話が済んだように感じます。
ほんとうにそうでしょうか?

個人的な見解で反感をかうかも知れませんが、
僕はこう考えます。

2007年に旗にすべきスローガンは、
「自分のことは自分でやる」です。
時代に逆行しているでしょうか?
僕はそうは思いません。
弱い人間ばかりが増えすぎて、どうにもならないのです。
「私は被害者」的な他人に全てを依存するような考えに、
未来は明るくありません。
次に彼らは言います。「あなたには分からない」と。

誰にとっても生きることは容易なことではありません。
不幸なんて誰にでもある。
「不幸を売り物にしてはならない」

その責任が「優しさ」を真実にします。

今一度、己の責任を果たす事を考えるべき時代が来ています。

カナダの女の子はあれから、
何をどう?選択したかは不明です。
僕は選択の善し悪しを問う事はナンセンスと思います。

そこには、懸命に生きる命がある。という事だけが事実です。



食とは何か?

あそこが美味い!ここが美味い!
書店にはグルメ雑誌があふれかえる時代。

食とは何か?
他者の命を頂くこと。

ビスケットと豚肉は違うことを、
あなたの子どもは知っているだろうか?

キャラメルと焼き魚が違うことを、
あなたは教えてきただろうか?

「殺す」は、いつも知らないところで誰かがやる。
僕たちが見るのはスーパーマーケットの棚に並ぶ、
脂身を隠した姑息な肉のパック詰め。

それとも売れ残ったするめいかの姿焼き?

総称すれば全部が「商品」である。

せんべいと鶏肉の違いも、
ガムとホタテ貝の違いも、
洗剤と牛肉の違いも、
シャンプーとラム肉の違いも、
あなたは感じているだろうか?

「商品」

富む者と貧しき者、
幸福な者と不幸な者、
死にゆく者と生きる者、

美味いか、不味いか、それよりも大事なこと。
命を食す。
そして生きる。

僕たちはどれだけ奢れば気が済むのだろう。

感謝。



ずるい生き方?

二十歳のとき、
近所のお節介なおばさんに強制させられ、
あるオヤジに会った。
すごく「いい仕事」があるのだという。

日本海の美しく見える岬の公園の駐車場で待ち合わせ。
そのオヤジは白いワゴン車で現れた。

僕はそのワゴン車の助手席に乗せられ、
オヤジはニコニコと「いい仕事」の話をする。

浄水器のセールスの話だった。
内容は、僕がその浄水器を1台買えば、
今度は販売する権利が発生するというもの。
値段は30万ぐらいだったかな。

当時はその手のネズミ講まがいの商売が多数あった。

オヤジは直ぐにベンツが帰るほど儲かると話した。
僕はオヤジに言った。
「浄水器の前は何を売っていたんです?」

オヤジは狼狽しながら答えた。

「鍋のセット販売だよ・・・。」

「その前は何を?」

「羽布団のセールス・・・。」

「全部同じ方式、つまりネズミ講だよね?」

オヤジはネズミ講と、このシステムの違いを熱弁・・・。

僕は更に尋ねた。
「家族は?」

オヤジの額には汗が噴き出している。
「家内と娘と息子がいるよ」

僕はオヤジに言った。
「あなたはいま50歳。若造に説教されるのは嫌かも知れないが言っておきます。「ずるい生き方をしてはならない」
あなたは、これがネズミ講だと認識しているのに、まだそれを続けている。
その年まであなたはずるく生きてきた。
しかし、ベンツには乗れなかったんですよ。
いつまで、そんな人生を続けるつもりですか?
息子や娘に話せないような仕事をやるべきではない。
まっとうに、汗水垂らして働きなさい!」

オヤジは遠い日本海の彼方を見つめてしばらく黙っていた。
そして言った。
「手っ取り早く金が欲しかった。しかし何をやっても駄目だった。ずるいこととは知りながら、いつしかやめられなくなったんだ。はずかしい」

「まだまにあいますよ」

「そうかな」

「そうです」

「家に帰ってよく考えてみるよ。ありがとう」

「さようなら」

僕は車を降りて自分の車に戻り、その岬を後にした。

駐車場のスロープを上りながら振り返ると、
白いワゴン車のオヤジは両手でハンドルを握りしめたまま、
美しい日本海を眺めていた。

あのオヤジはあれからどうなったのか僕は知らない。
そしてあのオヤジの言った「ありがとう」という言葉に
僕はほんの少しの希望を見いだしていた。



親切さの代償?

電車の中。
座席はうまっている。

そこへ老婆がひとり乗り込んできた。
ひとりの青年が自分の席を譲ろうと立ち上がり、
老婆の前に3歩踏み出した。

「おばあさん、もしよかったらあそこに・・・座りませ・・・!?」
話ながら老婆と青年が振り返ると、
そこにはすでには女の子が座っていた・・・。

おばあさんは「はあ?」という顔で青年の顔を見ると向き帰り、
礼も言わずに立ったまま外を眺めた。

青年は「スミマセンでした」と言ったが、
老婆は何も答えず振り返りもしない。

周りの人間はこの滑稽な事態を凝視している。
みんな、青年を冷たい眼差しで見ている。

親切さを台無しにした不作法な少女は、
ヘッドホンで耳をふさぎ、口を開けてぼんやりしている。
世の中のことなどに一切関心もない様子。
気がつかなければ許される。
見なければ非難されることもない。

青年はこわばった顔をして下を向いて立っている。
聞こえない嘲りの声が車内に充満し空気はよどむ。

この青年にとって、
親切さの代償はあまりに痛い。
そして、電車に乗る度に今日のことを思い出すだろう。

虚無という人間を乗せて今日も電車は走る。



この森のゆくえ

奈良県上北山村にある大台ヶ原。
年間20万人が訪れる聖なる太古の森。

しかし、この森がいま危ない。
入山者の踏み荒らしと鹿の被害で東側の森は瀕死の状態。

東コースは道が整備されているため入山者が多い、
しかし、奥に入れば立ち枯れた木々がまるで、
死の森を思わせる不気味な様相を呈している。

何故、森が更新されないか?
人間が踏み荒らし、更には鹿が新芽を食べてしまうからだ。
鹿は木の皮をむしり取り、巨木も死に絶える。

生態系のバランスが崩れ瀕死の状態でも、
森は何も語らない。
無惨に傷ついたカラダを横たえ、
いつか来る死を待っているようだ。

東側にガッカリした入山者は、
精霊の宿る西側に集中して入り始めた。

数百人が無垢の森を踏み荒らし、
ゴミを捨て、弁当を食い、今日という日を謳歌している瞬間にも、
森は泣いている。

森は何処へも逃げ出せない。
自分の都合で右往左往する人間とは違うのだ。

この日も数百人の団体が西の無垢なる森で遊山した。
その体に刻まれた傷の痛々しさよ。

今年9月から西側への入山は許可制になる。
10名以上の団体は入山不可。
1日限定100名程度しか入れない。
でも、それでいい。

守るのもいい。
育てるのもいい。

手をつけずに、
見守るのは、
もっといいのかもしれない。

誰のものでもない地球を、
奪い合っている人間どもには、
森の精霊の声など聞こえない。



エコという名の商売?

近所のスーパーからレジ袋が消えた。
そのかわり1枚5円で購入する羽目になった。
環境に配慮してのことだそうだが、
相変わらず無駄な割引券やらチラシやらを渡してくる。
全員に配る割引券なら、最初から割引するだけでいい。
エコバッグを強制するなら、店自らも襟を正すのが礼儀。

銀座ではブランドのエコバッグに群がる人間で大騒ぎ。
小競り合いまで起きて警官出動?
10倍以上のプレミアでネットに流出?
こんなこと自体が環境に悪いのではないだろうか・・・。

ロハスだ!エコだ!
といえば何でも商売になる時代。
環境問題を訴える音楽祭も、
行ってみればただのコンサートだったりする・・・。

言葉本来の意味が死に、字面だけが一人歩きする。
エコというクリーンなイメージを利用して、
勝手な商売や都合のいい言い訳のネタにするものもいる。

環境に配慮・環境にやさしい・環境を考えた。
これからの時代、消費者や生活者は、
字面の美しさに惑わされない確かな目を要求されている。
エコの概念自体が危険なプロパガンダになりかねない。

これはエコだ!と言われて、
二の句が継げないような状況になるのはマイナスの要因となる。
環境問題を振りかざして「お客さん」を得ようとする、
怪しい「環境商売人」にはくれぐれもご注意を。



悲しい夏の風鈴

13年ほど前の話。
経緯は書けないが本当にあったお話だ。

税務署が行う競売?とやらに代理で出掛けた。
某会社社長の頼みで、
仕方なしに大阪の外れにあるその住所を訪ねたのだ。

現場に着くと普通の住宅の周りに、
ヤクザ者やその他よく分からん恐い人たちがたむろしていた。
何やら嫌な予感がする・・・。

その時、一台の車が到着。
税務署員が2名降りてきて、中へどうぞという。
家の中には老夫婦がいた。
電化製品やタンスやらに紙が貼ってあり、
それを競売するらしい。
まとめてなんぼの世界だ!

おじいさんがビデオデッキを指さして、
「これは・・・娘のなんじゃけど・・・」というが、
税務署員は「もう遅いんですよ・・・」とさえぎった。

さて全商品が紹介され競売の開始。
1万!1万5千円!それぞれがふてくされたように値をつける。
15万!!!と僕が言ったとき競売は終了した・・・。
社長にそう言え!と最初から依頼されていたからだ。

全員「ケッ!」と言いながら部屋を出て行った。

競売終了後にその品物を運び出す為の運送屋へ連絡。

老夫婦は僕に「まあ座ってください」と声を掛けてくれた。
何を話したらいいか分からず黙っていると、
おじいさんが話し始めた。
「代理を頼まれたあんたは何も悪くないよ。嫌な仕事をたのまれましたなあ」
僕は社長との関係をおじいさんに聞いたが、
複雑でよく分からなかった。
おばあさんは「炊飯器も取られてしまってどうしょう・・・」
と独り言を言っていた。

これから、この老夫婦はどうなるのだろうか・・・。
二束三文の家具を、大金持ちのあの社長がどうしようというのか?

「今日からどないしようかのう・・・」
おじいさんがそう呟いたとき、
窓辺の風鈴がチリリンと鳴った。

風鈴音色を聞く度に、
あの老夫婦を僕は思い出す。



不思議な玩具の正体

自動車の中の女の子が大事そうに頭を撫でているのは、
猫ではなく、猫のロボットだ。
表情も豊かに多彩に反応する。
しかし、ここまで来るとかなり恐いと思うのは僕だけか?

何の目的で製造されたのかは知らない。
猫が飼いたくても飼えない人のためか?
老人のお相手に?
猫は好きだが猫アレルギーの人のため?
単なる玩具?

何かの「代わり」であることは間違いないだろう。

携帯電話依存症の若者が言う
「携帯が無かったらチョー死ぬよ!携帯の無い世界なんか考えられない!」と。

携帯が無かった時代、
その当時の若者が「チョー死ぬ!程に依存」していた対象とは何だったか?

大体、そんなものあったんだろうか?

現代に於ける携帯とは、何の「代わり」なんだろうか?
幻の連帯感?
幻の友情?
それとも単なる玩具か?

24時間携帯で話すか、メールしていれば、
自分を振り返る時間などないだろうね。

もしかすると、それが一番ここちよいのかもしれない。

考えずに済む。



戦争のリアルさとは?

おじいちゃん、おばあちゃんに育てられた僕は、
幼い頃によく戦争の話を聞かされた。

空から爆弾が落ちてくるんだよ!
みんなサイレンが鳴ると防空壕に隠れてね・・・。

闇夜から、見えない爆弾が降ってくる。

僕はその恐怖を知らなかったし、
理解できないことを腹立たしく思ったものだ。

小学生だった僕はある夜中に、
こっそりと台所へ忍び込んで「出刃包丁」を持ち出した。
部屋に戻り、しつけ糸を出刃包丁の柄に結んだ。
古い家だったので天井板には隙間があった。
そこにつり下げられたしつけ糸の先に揺れる出刃包丁。
見ているだけでもかなり恐い。

そして、勇気を出して布団をその下へ移動。
枕から50~60センチ上には揺れる出刃包丁。
今夜は電気を消してその下で寝よう。
闇夜の中、見えない恐怖にさらされ一睡も出来ず、
冷や汗を流した。
本当に恐かった。

戦争はその何倍も残酷で無惨で恐怖だろう。

子どもの頃の夏の思いでは、
天井から吊された出刃包丁だ・・・。



悲しいクラクション

車のクラクションが
今日も人々の日々の苛立ちを代弁するように鳴り響く。

普段は世間体をつくろうために笑顔を要求され、
物分かりの良い振りをして自分を誤魔化さねばならない。
コミュニケーションというものは、
ある意味では監獄の中の掟に似ている。

いつだったか忘れたが岡本太郎さんと苦労を共にした
岡本敏子さんにお会いしたことがある。
青山の記念館に電話を入れて「詩人の山吹です」と言った。
敏子さんは「あら、詩人さんですか?」と笑った。
「これからそちらへ行きますのでお会いできますか?」と尋ねると、敏子さんは「お会いしましょう」と言ってくれた。
当時は既に「たけしの誰でもピカソ」なんかにゲスト出演していた敏子さんが、何故お会いしてくれたのかは知らないが、
滅多にそんな風に会えることはないらしい。

敏子さんは館内を案内してくれ、
雑誌にも書けないようなエピソードをそっと教えてくれた。
当時、僕は川崎の東生田に住んでいたので、
裏山の生田緑地に岡本太郎記念館が新設されたばかりだった。

印象に残っている話がある。
「人間は半分ずつ譲り合って、つけたくもない折り合いをつけようとする。最初から自分を誤魔化した上に成り立つ関係などインチキだ」という太郎さんの言葉についてだったと思う。

「ぶつかり合ってこそ生まれる何か」
誰もがみんな”いい人に”なろうと必死の世間。
日本の政治家もはっきりものを言わないご時世。
憲法9条はどうなるのか?
そろそろ自分なりの意見をしっかり持って、
日本人がぶつかり合う日も近いのかも知れない。

誤魔化された行き場のない苛立ちが、
車という箱の中で爆発する。

クラクション。
鳴り続けるけたたましい音が、
何故か悲しい叫びのように聞こえてくる。



主人公が教えてくれた

僕は詩の他に短編も書くのだが、
何時間もその世界にいると不思議なことが起きる。
書くと言うよりは頭の中で映画を見ているように、
衣装の模様や襞までもがありありと見える。
まあ、それを文章で描写するといった方が近いかも知れない。

時には主人公の思いがけない一言に、
作者本人が驚かされることもある。
僕の中に潜在的に眠っている想念が、
物語を通して立ち現れてくるのかもしれない

自分で書いた事に自分が驚く?
何となく不思議な気がするが本当の話だ。

時に僕はその主人公たちに学び感謝する。



見慣れた風景?

電車の椅子は6人掛けだった。

若い男
若い女
若くない女
おばあさん
学生
おばさん。

年齢も世代も隔てた人間同士が一列に座っている。
ふと、何処からともなく不安が押し寄せる。
この見慣れた風景に見慣れてはならない。

全員が同じ姿勢で携帯電話を眺めている。

何をしていようが個人の自由だ。
しかし個人など何処にもいない。
いるのは洗脳された大衆だ。



誰かと繋がりたい病?

元気?とメールを打てば
それで気が済む時代の負の遺産は、
心の重さを軽くする。

人間が機械になる日は近い。
そして、心がデジタルになる日も近い。

押せばいつでもあめ玉が出る人生は、
あめ玉が出ない日の恐怖をまだ知らない。
日々、埋葬される人間
思えば仕事のためにパソコンを買ってからというもの、
人間の悪意に満ちた仕業を感じながらの朝のコーヒータイムが日常となった。
その見えざる悪意は迷惑メール。
毎日、200件以上の迷惑メールが来る。

この小さな箱を眺めていると
世界は悪意に満ちている。
などと錯覚してしまうほどだ。

金をもらって迷惑メールをまき散らす人間。
それは確かに存在する。
機械で配信しているのだろうが、
設定しているのは人間だ。

以前、リフォーム詐欺らしき、
マニュアルを拾ったことがある。
びっしりと書き込みされた醜い文字。
”めざせ収入1000万!”
太字で何度もなぞられたその文字に寒気がした。

主婦から、年寄りまで・・・。
完全にマニュアル化された悪魔の書。
巧妙な手口。
玄関のドアを開けたら最後、
市民は餌食となる。

全ては金のため。

人間性を殺してまで、
生きる必要があるらしい彼ら。

世界は悪意に満ちている。
世界は金のために心を捨てる。
世界は正義の名のもとに人を殺す。

誰も戦争で人を殺すことを殺人と言わない。
犠牲者と呼ぶ。
そのニュアンスが事実を隠す。

ニュースの傍らで
食卓に笑い声が響く。
全ては他人事なので、現実ではない。

毎日の迷惑メールに慣れ、
詐欺師に慣れ、
戦争に慣れる。

習慣は人を生きながら埋葬するのだ。



悲しいリサイクル

近くのスーパーへ買い物に出掛けた。

ペットボトル回収ボックスなるものを発見し、
近寄って見た。
手書きの可愛らしいイラストが描いてあり、
「ラベルをはがして、キャップを外してね!!」
などと愛嬌たっぷりに書いてある。

しかし・・・ボックスの中には、
キャップもラベルもそのままのペットボトルがギッシリ。

思わずこの滑稽なリサイクルボックスに吹き出した。

これが現実なのだ。
スーパには子どもも買いに来るだろうが、
大半は大人だ。
要するにこれは大人の仕業なのだ。

大人の仮面を剥がせば、
体ばかりが大きくなった子どもとでも形容しようか。

いま、大事なのは資源のリサイクルではなく、
良心のリサイクルではないだろうか?



馬鹿騒ぎの終焉

クリスマス・年末・年始。
世間が気忙しくなる季節の到来だ。

忘年会にカウントダウン年が明ければ新年会、
嫌なことを忘れて馬鹿騒ぎは結構なことだ。

しかし、嫌なことを受け止める日でもあるはずだ。
心を新たに感謝する季節の到来でもある。
そして、
反省すべき1年と改められた心のスタート地点でもある。

祝う!騒ぐ!の影に、
感謝や反省は忘れ去られているように見える。

「めでたい」記念日が、
「おめでたい」記念日にならないように。

そんな願いは「おめでたい」だろうか?



光と影のクリスマス

イルミネーションに彩られた街。
電気代も払えず闇の中にいる家族。

ブランド品を買いあさる恋人たち 。
食パンをかじり飢えをしのぐ兄弟。

生を謳歌する賛美歌を聴きながらも、
餓死した屍が転がるのを知らない不条理。

戦争のため世界の果てまで給油に出向いても
同じ民族が寂しく死んでいくことには無関心 。

光と影のクリスマス
全員が祝える世界は
ケーキの上にしかない桃源郷か



神様も大忙し!

奈良は春日大社。
もの凄い人の波が何処までも続いていた。

これだけの人間の頼み事を聴く神様は大変だ。
なので僕は頼み事はしませんでした。

本来、頼み事や願い事をする為に詣でるのではない。
今日の無事に感謝を捧げるのが詣でる心なはずだ。

さて、感謝を捧げた方は何人いたかな?
自分の欲だけをお願いしても、
多分・・・聴いてくれないと思うのだが・・・。



明日香に想う

ここは奈良県明日香村。
日本で最古のお寺である飛鳥寺に
1400年前の飛鳥大仏を訪ねた。
この寺は平野にポツンと忘れられたように
佇んでいる。

明日香村は他の土地にはないパワーを秘めている。
時代の霊気が漂い、異空間のようにただそこにあるのだ。
ここでは誰もが古代人になれるような気がする。
土地の力が人間の忘れられた感覚を呼び起こすのだろう。

門の外の田んぼの中には
蘇我入鹿の首塚がひっそりと祭られていた。
その首塚を前にして、
時代の争いの中で命を落とした人間たちを想った。

現代の競争社会でも同じようなことが繰り返されている。
きっと、目に見えない無数の首塚があることだろう。

遠くには村人の営みを象徴するように
白い煙が上がっている。
平和な暮らしと争いごとの記憶が交錯する。

見えざる首塚を想像して
僕は少しめまいを感じた。



沈黙の記憶

奈良には世界遺産が多い。
東大寺の背景に広がるのは若草山と春日山と高円山だが、
その春日山原始林も世界遺産である。
若草山からドライブウェイに入り、
奈良奥山コースを経て高円山へ至道はおすすめのスポット。
料金は少々お高いが寺社仏閣だけが世界遺産ではない。

この山には多くの石仏群が点在する。
昔、東大寺の建立に石を切り出したとも言われる場所だ。
山の中には石窟佛もあれば、路傍の石に刻まれた石佛もある。
しかし、誰が彫ったかは定かではない。

正月の初詣でごった返す寺社仏閣に背を向けて、
山の中の佛を訪ねてみた。

人気のない山の中をとぼとぼと歩きながら、
僕は人間それぞれの人生を想った。
さしずめ、煌びやかな寺社仏閣で沢山の参拝客に拝まれるのが成功の姿だとすれば、
この山の中で沈黙しながら存在する佛たちは庶民の生き様そのものだ。
石佛は自然と融合し大地から生まれ出たような力強さに満ちている。

木漏れ日にわずかに照らされ、
雨風に吹かれ、佛たちは静かに人の祈りの姿を繋ぐ。
己の人生もこの佛にならいたいものだ。

山中の石佛を見つめながら、
一生を懸けて彫るべきそれぞれの人生を見つめ直してみるのもいい。

僕は深々と頭を下げ石の佛に合掌した。



爆笑!エコ偽装!

食品だけでなく再生紙も偽装。
「エコ偽装」という新たな言葉まで生まれる馬鹿さ加減。
政治家も企業家も何処までずるくなれば気が済むのやら。
エコだロハスだスローだともてはやされれば、
全てが商売のネタになる。

これからは、「セルフ・エコ」がいい。
他人を当てにしなければ欺されることもない。
何でもかんでもエコグッズを買う必要もないだろう。
要するに工夫すればいい話だ。

これからの世の中、
エコ偽装に気をつけましょうね(笑)



いま飲食店が面白い

飲食店の不思議なサービス?
サービスがない飲食店?

いつから釣り銭を渡すときに、
お客の手の下に自分の手を添えるようになったのか。
誰が広めたのかは知らないが、かなり気持ち悪い。
それが接客サービスの一環だとすれば、
過剰で一方的な押しつけ接客だ。

レストランでオーダーするときはこうだ。
客「ハンバーグセットひとつ」
店員(ハンバーグセットおひとつですね)
客「それと焼き肉定食ひとつ」
店員(焼き肉定食がおひとつですね)
客「以上です」
店員(ご注文の品をご確認させていただきます)
客「・・・」
復唱しながらオーダーを聞き、更に確認。
そして、品が運ばれてくると、店員は言う。
「ご注文の品は全てお揃いでしょうか?」
復唱し、確認しオーダーを受けた挙げ句に、
注文の品がお揃いかどうかまで確認させられる。
揃っているかどうかを確認するのはお前じゃないのか?
と、思うほどにしつこい。

お冷やにレモンが入っている。

おしぼりが香水臭い。

店員は持ち運びだけが自分の仕事と思っているので、
フォークを落とそうが水がなくなろうが注ぎには来ない。

とにかく全般に掃除が出来ない飲食店が多い。

新興宗教なみの朝礼の声が隣近所に響き渡る。

挨拶と馬鹿声を混同している。

お金を手渡そうとすると、
無言でトレイを差し出す店員は何様だ。

長髪のコックの個性を認める
心の広いオーナーがいる。

ランチタイムを過ぎると、
お客の隣で従業員がメシを食うのは自由すぎる。

フォークとナイフの置き方を知らない店員に接客させるのは、
かなり斬新な経営方針だ。

店のこだわりを壁中に書き込むのは、
何かの神経症だろうか。

名水をスープに採用するのはいいが、
値段に強制的に反映させられるのは迷惑だ。
水道水でいいから安いラーメンにして欲しい。

みなさん、笑っていただけたでしょうか?





純度の高い言葉は不滅だ
決して腐る事なく永遠である

そして純度の高い人間も不滅だ
決して死ぬことなどない

肉体の静止を死と呼ぶのは
内側に溢れる光を知らぬ者の戯言だ

純粋な言葉は書き手を否定する
純粋な人間はその名を忘れられるであろう

そのかすかな香りのする結晶を
人間は愛と呼ぶのだろう

やがて名前も言葉も消え去った後に
遠い過去から手紙が届くだろう

それは差し出し人のない手紙
目に見えぬ文字を読みながら
君はほのかな香りを感じるであろう

詩人の仕事とはそういうことである



痛い言葉

ラーメン屋にはいるといつも思い出すことがある。
最近はラーメン屋に行く機会が多いのでなおさらだ。

それは25年前の山梨での出来事。
18歳の僕は当時東京をさすらった挙げ句文無しになり、
アルバイトで味噌の訪問販売のワゴンに乗り、
山梨の何処かの田舎を一軒一軒飛び込みでまわっていた。
完全歩合制なので1個も売れなければ収入はゼロだ。

そしてある日、他のアルバイトが昼食する中、
まったく金のない僕は休まずに家々をまわっていた。
ところがそのとき、運悪く腹が痛くなった。
どうしてもトイレに行きたかったが、
何処にもトイレはない。
限界に達した僕は一軒のラーメン屋の玄関を空けた。

「す、すみませんトイレを貸してください!」
するとラーメン屋のオヤジは間髪入れずに言った。
「うちは、公衆便所じゃねえんだ!」
僕がうろたえていると、おかみさんが言った。
「あんた!何言ってんの!使っていいよ!」
僕はトイレに入り、用を済ませた。
出てくるとおかみさんが、
「ゴメンねいじわるして・・・」と言った。
オヤジは不機嫌だった。
何故ならそこは確かに公衆便所ではなかったからだ。

あれから25年、
ラーメンを食う度に耳の奥で声が聞こえる。
「ここは公衆便所じゃねえんだ!」

どれくらい同じ言葉を思い出しただろう。
世間知らずで夢見がちな若造が、
打ちのめされた痛い言葉。

トイレを貸すとか、貸さないとかの問題よりも、
その一言は若造の未来の希望を崩壊させた。
そしてあれから僕は、
詩という痛い言葉に取り憑かれ、
痛い言葉と格闘している。

本当の優しさにたどり着けるだろうか?
と、言葉を創造する。

言葉は痛い、何より痛い。
人間は自分の言葉を磨かなければならない。
痛くないように、
夜な夜な、角を丸くするような人生を学ぶ。



奇跡の人?化石の人?

僕も2月9日で44歳。

思えば学生時代、
先生に「勉強しないと立派な人間になれません!」
などと叱られた事を思い出す。

「好きなことばかりやっていては食えない!」とも言われた。

馬鹿なガキはやがて詩人という、
存在意義不明の仕事にならない道を歩んでいる。

僕が先生ならこう言うね。
「立派でなくても適当に人生は過ごせるし、
やりたいことばかりやっていても、
飢え死になどしないで何とか生きられる!」
だから安心しなさいと。
世の中から、落ちこぼれ扱いされるのを防ぎたいなら、
「俺は詩人だ!」と、いうことにして誤魔化せばいい。
世間も、詩人については誰も語れないし、
理解もされていない存在なので無視を決め込むから・・・。

この記事を読んでいる多くの方々へ、

「好きなように生きなさい!何も心配はありません!」



佛の背を流す

光明皇后ゆかりの寺「法華滅罪寺」法華寺は、
日本総国分寺尼寺という格式を持つお寺だ。

ここに「から風呂」というサウナのような浴場がある。
光明皇后が自ら誓いをたて、
千人の民衆の垢をお流しになったというお風呂。
最後の千人目は病(ハンセン病)の人であった。
体中に膿が出来ていて、悪臭を放つほど。
病人が膿をす吸って楽にしてくださいと懇願すると、
光明皇后はその病人の膿を口ですすり癒された。
そうすると、病人は佛の姿になり立ち去ったという・・・。

まさに、マザーテレサのような光明皇后は、
日本の母の象徴のように思える。

いまこの寺の門前に立ち、
己のするべき答えを夢想していた。

すると、お供の方が付き添い、
庵主様が現れた。
僕はその後ろ姿に光明皇后を重ね合わせていた。
法華寺の外の壁には5本の横線が引いてある。
それは、天皇家の血筋しか庵主になれない事を意味する。
僕はその後ろ姿に手を合わせた。

冬のよく晴れた日、
千人の民衆の垢を流し、
膿を吸った光明皇后を想った。

そのことをリアルに己に問い直すと、
とても自分には出来そうにないと感じた。

見あげる冬の奈良の空には、
白い月がぽっかりと浮かんで、
憂鬱顔の詩人を笑っているように見えた。



未来の時間を売ります

人はまだ生きてもいない将来の時間を簡単に売り飛ばす。
借金だらけにならなければ暮らせないシステムは、
どなたのさしがねだろうか?

アメリカのサブプライム問題もそうだが、
それ以前から人間はそうして暮らしてきたのだ。

そもそも借金をして未来の時間を売り飛ばすことは、
自分の人生をお金に換えて、今を生きることだ。
もしこの世にローンシステムがなかったらどうだろう?
全て現金取引の世界だったらどうなるか?
手持ちの範囲で暮らすしかなくなる。
それはかなり質素な生活になってしまうかも知れない。
質素を貧しいと考えてはいけない。
そう考えてしまうと、
スポーツカーもブランド品も欲しくなる。
借金をして未来を使い果たしたらもうその先はない。
消費、消費とうるさくいうが、
生きていくために必要なもの以外は全て贅沢品だ。
金のかかる遊びが洪水のように人を誘惑する。
金のかかるグルメ番組が毎日のように放映される。
これが人生の楽しみ方の王道のように宣伝されている。

人生を享楽する為の玩具に溢れ返っている。
しかし、本来そんな楽しみ方が出来るのは、
限られた人間のお話なのだ。
なにも贅沢は敵だという話ではない。
借金してまで贅沢を謳歌する必要はないということだ。

身の程をわきまえていれば、
そこそこ死なずに暮らせるものだ。
僕自身も金もないが借金もない。
未来の時間を売り飛ばせば、選択肢はない。
毎日、金に追われる人生を嘆きながら、
自らの贅沢を顧みないのは問題だ。

日本の片隅では餓死する人間も少なくない。
テレビでは道路財源がどうのと議論が白熱しているが、
餓死する国民がいる現実の前では、
どんな政策も無意味な感じがしてくる。
餓死する人間がゼロになってから道路を考えればよい。

話題がずれてしまったが、
とにかく、ローンをする前にはよく考えた方がいい。

あなたの人生はローン会社のためにあるのではないし、
銀行のためにあるのでもない。

未来を取り戻せば、
少しは元気になれそうな気がしないか。



日本の母はこれを観よ

吉永小百合主演の「母べぇ」
久しぶりに深い感動の映画を観たような気がする。

吉永小百合さんと言えば、
数年前にとあるパーティが高輪プリンスで行われた際、
お目にかかれるはずだったが・・・。
残念ながらいらっしゃいませんでした・・・。
サユリストの詩人としてはとても残念だったのを憶えている。
数百人の芸能人に囲まれてはいたが、
小百合の来ないパーティは僕には寂しく感じられ、
その腹いせに、ステーキをたらふく食ったものだ。

それにしても「母べぇ」はとても良い映画だ。
監督の山田洋次さんやスタッフの根気強さには脱帽する。
派手さのない画面構成とストーリー展開は
吉永小百合の押し殺した演技を際だたせる。

夫婦愛や家族愛といった単純な構造に目を奪われがちだが、
それではこの映画の素晴らしさは分からない。
戦時中に日本人は何を信じ、何を信じなかったのか。
疑心暗鬼で日々を過ごす現代の日本人に、
この映画は問い掛ける。
ひとりの母を通してみせた切り詰められた世界。
そこにはどの映画とも違う深い感動が隠されている。

日本の母にぜひ観ていただきたい作品だ。



ニュートラルな思考

近頃の車はオートマチックが主流だが、
昔はギアの車が多かった。
技術の進歩で運転は楽になったが、
ふと思えばいいことだけではない。

それは人間に置き換えた場合のことだが、
人もオートマチックになりつつある。
Dを選択すればただ一方に走るだけの選択肢しかない。
Rは反対方向にしか走れない。
いつしか人間はNEUTRALという選択肢を失った。

ギア付きの車は楽ではないが、
1速、2速とチェンジする度に、
前進でも後退でもないニュートラルを通らざるおえない。
ニュートラルとは中間ということだ。
このことは重要だ。

物事は中間を経て加速し又は後退する。
前進するだけの思想も後退するだけの思想も、
どちらも問題がある。

そのとき、
野口編集長がおっしゃっていた、
「緩急自在」というスローライフの理念を思い出した。
緩急の間にある正当な思考の時間が渾沌であるとすれば、
全てを1次元的な思考で判断しなくても良いと言うことだ。
YESでもNOでもないのが緩急自在。

出ない答えは出さなくてもいいのかもしれないし、
ニュートラルで冷静な判断を大人は求められるだろう。
「緩急自在」いい言葉だ。

などと、今日車を運転しながら考えていた、
そんな僕は変なのだろうか・・・。
普段の生活の中にも沢山のヒントが隠されている。

しかし、考えすぎると詩人になってしまうので、
ご注意願いたい。

もしかして、考えなさすぎ・・・かもしれん。



演出の魔法

詩人は何で食っているのか?これが一番多い質問だ。

詩は本として出版する以外は、
依頼されても書かない方針なので全てお断りしている。
これは個人的な問題なだが、
詩を売るという行為そのものに違和感があるからである。
詩とはそもそも商売になるようなものではない。
なので書くのはコピーかコラムしかない。

今年からはそのコラムの原稿料を、
慈善団体に寄附する予定だ。
アジアのこども達の惨状は目に余るものがある。
馬鹿な詩人の書いた原稿料で、
未来のこども達が鉛筆の一本でも買えるなら、
その方が僕がラーメンを食うよりも価値があるだろう。

仕事の中でもいちばん要望が多いのは、
ディレクション(演出)である。
舞台の演出もたまにはあるが、企業が多い。
大企業もあれば個人店もあるし、
行政だったり地域のまちづくりにも呼ばれる。

そこでいつも言うことは同じだ。
抽象的観念は現場で使えないということだ。
それを現実化するためのリアルな創造行為が求められる。
例えば、「もっと楽しいものにしたい」という意見がある。
会議はおおよそ理想論だけが述べられ、
全員がその一致したスローガンだけに酔いしれる。
しかし、「もっと」という言葉には、
その前段階に認知されている対象があるはずだ。
「もっと」の意味は現状を把握している事を示す。
しかし、何に比較して「もっと」なのかを問うと、
答えに詰まってしまう。
「楽しい」は抽象的な感覚であるので、
どのような状態を現時点で提案できるのかを考え、
それを対象者が楽しいと感じるかどうかを議論する。
「したい」は、したいことに対する現実味の問題であり、
環境や協力関係や能力の問題を議論する。

たった一言を具現化するためのプロセスが、
演出の技法である。
一言の実現にも相当の時間を費やすのが現状だ。
演出とは、意識を具現化して色と質感を実感することなのだ。

組織にも人間にもそれは容易ではない。
大企業からお呼びが掛かればその会議へ行くのだが、
僕は専門職でもないし、大学教授でもない。
詩を書くように、一言に集中していれば、
問題の根源は見えてくる。
それが僕のスキルの全てなのだ。

言葉で書けるほど容易いことではないが、
演出の技法を知ることは、とても役に立つと思う。

お呼びがあれば何処へでも参上します。
御礼が出る場合は、アルコールでお願いします。



ランナーとしての自分

平成になってからも何処か所在なさげに感じるのは僕だけだろうか?激烈な時代であった昭和が終わり平成になって20年経ったのだが、時代に学ぶことや先人の志を受け継ぐことは、その月日ほどに更新されたのだろうかと思うと疑問が残る。

思えば光栄なことに、僕は60代70代といった多彩なジャンルの諸先輩に恵まれている。
それも半端な方々ではない。
映画・芸術・大企業のOB・僧侶などなど実に多彩だ。
誰もがみな未開のジャングルを切り開き、砂漠の中で真実の砂の一粒を探して旅をしてきた猛者ばかりなのだ。

「平成に英傑無し」これが僕の時代評価だ。
諸先輩の方々のお話の中で、余生をとか、残りの時間を、などという言葉をお聞きする度に不安に駆られる。
それはなぜか?答えは単純で、
「誰がバトンを引き継ぐのか?」という不安だ。
生まれればキリストでも釈迦でも死を逃れることは出来ない。
僕もまた例外なくその一員である事は事実なのだが、まだ多少時間がありそうだ。

40代や50代の人間には、時代のバトンを受け継ぎ、次世代に渡す使命がある。
しかし、どれだけそんな意識を持っている人間がいるかは疑問だ。個人主義に目がくらんだ結果として、太極を見据える眼差しを持った人間が少なくなったのだろうか?

いつだったか、40代の人間がこんなことを言った。
「いつまでも長老が居座っているから俺らの出番がない」
果たしてそうだろうか?長老から見れば僕らはあまりに勉強不足で未熟な存在なのではないか?そんな風に僕は思う。
何故に長老がのんびりと隠居できないのかを誰も考えない。
後継ぎのいない豆腐屋の旦那がいつまでも引退できないのと似てはいまいか。
それでも長老が死すれば、次のカタチばかりの担い手が登場するのである。この辺のシステムが、平成時代の混迷を明らかにしているのではないかと思う。
運転免許も技術もない人間がいきなりトラックを運転するのだからかなり危険である。
そのような志無き世代交代は日本にとってマイナスでしかない。
生まれてこの方、乗り物に乗ってレールの上を旅することしか知らない人間は、自らの足で荒野へ旅立つ必要がある。
周りに長老が幸運にもいる人間は、頭を下げてでもお話を聞くべきである。
しかし、それだけでは頭でっかちになるだけで何お役にも立たないだろう。「身を削る」「骨身を惜しまず」という死語のような言葉の復活が必要だろう。

時代のバトンを受け継ぐのは容易なことではないが、
それ無しに、また真の喜びもないと言うことだ。
家庭を持って子どもを作るまではいいが、その子どもの未来へバトンを繋ぐことを忘れがちになる。
産み育てた命にプラスするエッセンスは「渡す」である。

生きる上で大事な智慧となるのは教科書には書かれていない。
それはみな太古から口伝で伝えられてきたのだ。
家族・友人・同僚、真剣に話をする機会が減少して、戯れ言のような会話だけが浮遊する。
なにも英雄豪傑になることを推奨したいのではない。
担い手としての意識を多少でも持つことが大事だというお話なのだ。

そして確かなことはただひとつ。
僕自身がその学ばねばならない人間の筆頭であることだ。



偽善と偽悪の彼方へ

この道をいけば
どうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば
道はなし
踏み出せば
その一歩が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ 

上記の言葉は一休宗純の作といわれている。

僕は京田辺市にある酬恩庵一休寺の田邊宗一住職を数度訪ねたことがある。
最初は奈良出身の茶道の開祖である村田珠光繋がりで一休を知ったのだが、次第に興味は一休そのものへと傾いていった。

方丈の見事な様を眺めながら田邊住職と抹茶をすすり、一休寺納豆をつまみながらお話をする。
茶道の発祥は一休と縁が深いらしい。
珠光にお茶を飲むことを勧めたのが一休であるといういう説もあるが、これは定かではない。

生前に自分の像を造らせたり、髑髏のついた杖をもちあるいたりと、一休はほとんど変人のような一生を送った。
晩年には森女(しんじょ)という盲目の艶歌師と恋仲になり、かなり激しい恋に落ちた。

このブログで全てを語ることは無理だが、この一休について近頃思うことがある。

「狂った世の中でまともなことを言うと、その人間が浮いてしまい、変人扱いされるんです」と言った田邊住職の言葉だ。
この言葉は的を得ている。
思えば「偽善」と「偽悪」というのがあるが、善人ぶった悪人を偽善者という。それに対して悪人を装った善人を偽悪者と呼ぶ。

当時、一休は見かけは金の袈裟をまとい立派なことばかりを言う僧侶達を「偽坊主」と一喝したという。
そして自分は女遊びに出掛ける一休。
真偽の本質は何かと言うことを悟っていた一休にとって、見かけを破戒することは偽悪者として生きながら、善の何たるかを示すための手段でしかなかった。

神に会っては神をも斬る。そのすさまじい信念の生き様には恐れ入るしかない。
禅の修行の究極は無心であり空であるから、悟達の最終形は釈迦や教えそのものにもこだわらない「無心」にいたる。
色を塗り続けていくと最後には色がなくなり無色になるようなものだ。

般若心経の中にも同じようなエッセンスがある。
かたよらない・こだわらない・とらわれない・・・心である。
それは無心の境地であり全てが空であるということだ。

かたよらない心は中道でありリベラルであり渾沌だ。
こだわらない心は平常心であり広くものを見る眼差し。
とらわれない心は足を知り感謝して生きる謙虚さである。
などと勝手に解釈してみたがどうか?

僕たちが現実と思っている社会や信じてきた道徳観という物差しを再考するべき時代が来ているように思える。
普通とは何だ。常識とは何だ。当たり前とは何だ。

偽善とは悪にも勝る悪であり、偽悪とは善に勝る善である。
そして、善悪を超えた無心の境地とは何であるか?
俗人の詩人には分かりようもないのだが、
何か時代を紐解くヒントが隠されているように思える。



第三の感覚の必要性

近頃気になっていることがある。

詩を書きながら痛感するのは、
言葉に出来ないことをどのように伝えるか?
という難問である。

人間はココロとカラダから成っているように感じるが、
その中間に第三の感覚器官が存在するのではないか?
などという妄想だ。
触感と思考を超える別の器官だ。

それは以心伝心のように、
思考よりも先にその実体を感じ取る感性のようなもの。
触感と思考を経て「理解」するというような定義の範疇には収まらない別の存在。

以前にある社長さんが言った。
「社員の中で私の言うことを理解できる者は大勢いるが、
真の意味で感覚的に理解できる者が少ない。
なので、プロジェクトがどうも進行しないのです」
言葉を換えれば、ニュアンスとかセンスといった事だろうか?
そこには言葉で伝えることの出来ない質感のようなものの存在がある。

しかし世の中にはそんな感覚に長けた人間が存在する。
言葉以前、又は言葉に内包される「景色」のようなものを、
一瞬にしてとらえてしまう人間だ。

その感覚はこれからの時代にもっとも必要な感覚である。
一瞬にしてビジョンが見える第三の器官。
ココロとカラダを超え、言葉を超越した真理を読み解く力だ。

想像力という曖昧なものではなく、
即核心へといたるインスピレーションのような感覚。
どのようにそれを鍛えればいいのかは不明・・・。

禅の究極の姿である「不立文字」(ふりゅうもんじ)
のような、説明も解説も出来ない超越した感覚の会得。

YESとNOの2局思考では表すことの出来ない、
第三の思考が世界を新しくする。



矛盾

詩人は当然詩を書くわけですが、
それには説明も言い訳も付けることが出来ません。

書かれたものが全てなので、
誤解も沢山ありますが、それ自体が豊かさと同義語です。
自分も他人も多くの矛盾の中に生きています。
矛盾のない人生は寂しい人生です。
山も森もなく永遠の砂漠です。

コミュニケーションとは、
要するに分かり合おうとする努力そのものです。
しかし、店を閉めている魚屋で魚は買えません。
また、その逆も同じです。
これは、誰の努力の足りなさでもなく、
コミュニケーションの拒絶です。
そんなことが、人の心の中では秒刻みで起きています。

どのような表現者も完全ではありません。
しかし、一流の表現者は格闘することを逃げません。
それは、理解を得るということとは別です。

あなたが悩むこと自体があなたの仕事です。
慰めは意味がありません。
自分をすくい上げるのはあなたの伸ばした指先です。

この世で何かをしようとすれば、
その信じることに殉教せざるおえないのです。

いま、あなたは誰よりも豊かで幸福なことを知るべきです。



言葉の重量

言葉には重さがある。
それは言葉が内包する真実であるのは確かだが、
それだけではない。
表情・仕草・ロケーション。
換言すれば言葉とは総合的な表現手段なのである。

携帯電話や電子メールがここまで普及してくると、
注意しなければならないことも増える。

携帯電話の場合は相手の表情は見えないが、
声の質感や間はかなり表現力豊かだ。
しかし、ホテルで愛人と過ごしていようが、
いくらでも嘘がつける状況だ。
居場所が分かるような機能もあるらしいが、
そんな機能に頼るぐらいなら関係を清算したほうがいい。

電子メールは表情も見えないし、
声の質感も間も感じることが出来ない。
顔文字というのもあるが、
それが表現手法として通用するのは狭い範囲での話。
この辺をかなり意識しないと危険だ。
犯罪も多発している。
相手を把握する為のツールが少なすぎるのだ。
この様な習慣が常になれば、
日常の関わりにも支障をきたすだろう。

人間関係の面倒さに拍車がかかるのではないか。
もう手遅れなのだろうか?

僕たちの身近なツールは、
どんなコミュニケーションの未来をみせてくれるのか。

それは進化か?
それとも退化?
消費社会とまちおこし
お客様は神様です。
当を得ているようだがどうだろう?
消費者が神様なら、
その消費者を消費者たらしめるツールは要するに金だ。
極論すれば、金が神であるということなのだろう。

消費者は無敵の神か悪魔の如く強い。
10円でも支払う立場になれば、
「俺は客だ!」とわめき散らし、
過剰な権利を振りかざし、気分爽快といったところか。

ところが場所が変われば立場も変わる。
プレミアの芋焼酎を酒屋に買いに行けば、
店主はふんぞり返って言う。
「そいつが欲しければ、他のを2本買いな!」
仕方なくいらない商品も買う・・・。

釣り具がプレミアになれば、
「10000円以上買ったらそいつを売ってやるよ!」
などとまるで天狗だ。

街から「おかげさま」の言葉は消え失せ、
「もちつもたれつ」の関係が崩壊して久しい。
物が有り余っている時代だから、
消費者も天狗でいられる。

やがて、ひとつのパンを分け合うような時代が来たら、
みなさん、謙虚になれるかしら・・・。

特権を与えれば人間は腐る。

需要と供給だけの関係だけではない。
近頃の「まちおこし」とやらも疑問だ。
まちを商品化する事は経済効果を生むだろうが、
取って付けたような気持ちの悪い企画だらけだ。
まち自体が商品化されなければ存続不可能なのだろうか?
年寄りまでもが、マスコットのようにかり出され、
やりたくもない笑顔をつくる。
専門家の歩いた後には廃墟が残る。
誰も利用しない道の駅。
誰も歩かない遊歩道。
マニュアルだらけの農村民泊。
村人の苦悩は果てしない。

全てを商売で考えなくてもよいまちおこしを期待したい。
そもそも商業圏でない農村に、
観光客が押し寄せる方がナンセンスだ。
田舎暮らしという言葉も嫌いだ。
村役場が田舎暮らしの応援をしている。
そして、都会から移り住む人間がいる。
村人が、彼らに言う「お祭りに参加しませんか?」
彼らは言う、「お付き合いは面倒なので・・・」
なんじゃそりゃ?

田舎の人の田舎暮らしと、
都会人の田舎暮らしは違う。

地元の人間の思う活性化と、
移住者の思う活性化は違う。

全部が商売。全部が経済。

誰か、本当の豊かさを教えてください。



悲しいパトロール車

バックミラー越しの後方に一台の軽自動車が見える。
「○○小学校PTA安全パトロール」と、
フロントガラス越しに張られている車だ。

助手席にはシートベルトも何もしていない子どもが見える。
シートの上に立ったり座ったり落ち着きがない。

母親は片手ハンドル。
片手に携帯電話。
2度目の信号を過ぎても呑気に携帯三昧。

「安全パトロール」・・・ね。
大人の資格もなく、
親の資格もない人間のうわべだけの世間との関わり。

中身のない惰性と習慣の毎日。
誰か、安全パトロール車の安全をパトロールしてくれ!
ついでにその安全パトロールをパトロールしている人間もパトロールしてくれ!

ついでに国会議員の仕事を管理する国会もつくってくれ!
その国会を管理する国会も必要だ!

こんな人間を見ていると、
空虚な気分になるね。



それぞれの過ぎた春

明日は、奈良少年院&奈良少年刑務所の慰問です。
なかもとみゆきの語り芝居「幸せの種」
これは僕の短編戯曲です。
+山吹草太ミニトーク。

それぞれに心に傷を負った少年たちに、
何が伝えられるでしょう。

元、不良の先輩として、
何か足しになるような話が出来ればいいのですが・・・。

同じように春を過ごすのでも、
弊の外と中では随分と違うでしょう。

彼らに本当の春がやってきますように。



エコエコエコエコエコ

どのチャンネルをひねってもエコだらけ。
CMも番組もエコだらけ。
とにかく何でもエコと言えば聞こえがいい。

エコを実践すれば消費は減少する?
消費が減少すれば経済は落ち込む?
いらない職業は当然淘汰される。

人間が個人主義になり、
西洋近代主義の思想が蔓延し、
価値観は勝手に創造された。

今から、その逆をやろうというのだから大変だ。
不親切な世の中が生んだ商売も多い。
当たり前のことを中抜きにした結果、
それを商売にする職業が溢れている。
やがて、全てが終わるだろう。

これから先、
どうやって生きながらえるか考えた方がいい。
真剣にね。
ながら人生の極み
ウインカーも出さずに急に路肩で停止。
追い越しながら見れば携帯電話・・・。

青信号でも発進しない車。
クラクションを鳴らせば携帯電話・・・。

一台だけ異常にのろい車。
追い越せば、携帯電話。

自転車の女子高生が車にひかれそうになる。
耳にはイヤホン、片手に携帯電話・・・。

ロックな若者がじいさんにひかれそうになる。
耳にはイヤホン、片手に携帯電話・・・。
若者はそんな危うさにも気が付かないまま歩き去る。

電車のシートのお客さん。
気付けば全員メール中・・・。
つり革の年寄りなど違う世界の存在か・・・。

エスカレータの降り口から70センチ。
立ち話のおばさん。
地球は彼女らを中心に回る。

スーパーの野菜売り場の前では井戸端会議。
タマネギ買えずに店内一周・・・まだ・・・いる。
仕方ないのでもう一周・・・まだまだ・・・いる。

ながら人生が全ての感覚を鈍くする。
鈍感になり果てる・・・。

右手に拳銃。
左手に花束。
口は環境問題。

これからの時代の午後のティータイムには、
ボールに混ぜられたケーキとコーヒーを飲むだろう。
何?気持ち悪い?
なあに・・・慣れればそれが常識になるさ。

消費税が18%になっても、
煙草が1000円になっても、
慣れれば、それが普通になるさ。

鈍感さこそが恐怖の正体。

ながらを全面否定はしない。
しかし、どこまで鈍感になるかは・・・問題だね。



自分探しはやめなさい

近頃流行しているのが「自分探し」だ。

まず、それぞれが「今の自分は本当の自分ではない!」
と、思い込むところから出発する。
いや、思い込みたい。
何かが欠落してしまった不遇な状況、
それが、共通する「自分探し」の概念。

生まれたときから自分はここにいるはずなのに、
何故か「自分探し」に憧れる。
まあ、「生きている実感がない」と言えば近いかも知れない。
実感のないような生活があるということなのだろうか?
「新しい自分」とか、「本当の自分」と言ってしまえば、
何となく聞こえは良いが、
それ自体が「逃げ」の口実にもなる。

探したければ探せばいいのだが、
あまり、のめり込みすぎてはいけない。
様々なものに感化されて、
自分自身を見失う逆効果もあるだろう。

人間は自分の信じたいものを信じているにしかすぎない。
所詮、今を生きるしかできないのだから、
大袈裟な大義名分はいらない。
生きることはもっとシンプルで、
地道なことなのかもしれない。

自分など探さなくても、
今の自分が自分なのだと思う。



不親切なサービス

買い物や食事をする場合、
僕たちは何度、店員の質問に答えねばならないか・・・?

近所のスーパーに行く。
レジにならんで自分の番が来る・・・。

「カードはございますか?」

「無いです・・・。」

「この商品はクーポン割引対象ですが、クーポン券はお持ちで すか?」

「無いです・・・。」

「クーポンがありませんと、割引対象外の通常価格となります がよろしいでしょうか?」

「いいです・・・。」

「割り箸はお入れしますか?」

「いいです・・・。」

「アイスクリームのスプーンはお入れしますか?」

「いりません・・・。」

「レジ袋を下さい!」

「一枚5円になりますがよろしいでしょうか?」

「いいです・・・。」

「次回の割引クーポンをお入れしておきますね?」

「紙は一切いりません!」

どうでもいいから・・・いちいち聞くな・・・。

あれ?もしかして僕だけ・・・?



悲しいプール

近所の室内プールに出掛けた。
これは市が運営している施設で、
食堂・温泉・プール・アスレチックやテニス、
ハイキングコースもある総合運動施設。

プールには人が少なく10人程度しかいない。
プールと言うよりお年寄りの水中運動といった感じで、
みなさん独特のポーズで歩いている。

そこに小学生の女の子を連れた母親登場。
いかにも元水泳選手っぽいその母親・・・。
縦に右回りで皆さん泳いでらっしゃる流れを遮断し、
真ん中で我が物顔で女の子にターンの練習をさせはじめた。
つまり、人の流れを横に横断しながらの練習だ。

全員が迷惑そうに水中で立ち止まったり、
よけながら泳ぐ羽目になった。
親になり、かわいい娘に何を教えようが自由だが、
その前に自分がルールを学んだ方がいい。
こんな風に日頃から生活させられていたら、
この小学生の女の子もそれが常識になるんだろうな。
親が良い手本になれずに、悪い見本になる。
そして、誰もそれに気が付いてもいない。
こども達をとりまく環境は劣悪だ。

なんにせよ、この意識のなさこそが、
諸悪の根源なのかもしれない・・・。



日本の親は武装せよ!

犯罪は減少している。
信じられないことだがそのようだ。
しかしその反面「身内」による事件は増加している。

先日お会いした男性は子どもに殴られた経験を持つ。
それだけではなく木で後ろから殴られた経験もある。
「いつ殺されるか、分かりませんわ!」
そう言って笑った顔が印象的だった。

その3日後あの事件が起きた。
娘が父親を刺し殺した。
これほど悲しい事件はない。
ご冥福をお祈りする。

事件とは別に思うことがある。
数年前から「友達家族」という言葉が氾濫している。
まちを歩くキレイなお母さんと娘はまるで友達か、
兄弟のようにみえる。
父親は恋人か素敵なおじさま風で、腕を組んで歩く。
とても親子にみえない事がお洒落であると、
テレビや雑誌も書き立てる。

いつしか、家族は家族ではなく同居人になり、
親は親ではなく兄弟、友人、それともそれ以下・・・?
友人であれば基本的には対等な立場。
「勉強しろ!」などという強制には、
子どもも当然、反感を覚える。
なぜなら、親という認識がないし、
親という観念もかなり変化してしまったからだろう。
何故?この人間がそんなことを言う権利があるのか?
そんな風に子どもは考えているのかもしれない。

親も親でツケを払う日がいつか来るだろう。
もめ事を恐れた仮面生活の果てに、
かわいらしいモンスターを育ててしまったのだから。
他人であれば関係を解消すれば済む。
しかし、親子であることは解消できない。
戸籍を抜こうがそれは同じである。

永遠に終わらない戦争を始めるなら、
親は武装しろ。
真剣さを持って武装せよ!
忍耐を持って武装せよ!
愛を持って武装せよ!
日本の先人達の智慧を待って武装せよ!
己の眼差しを持って武装せよ!

眠るときは不安でたまらないだろう。
それは自らが作りだした悪夢のせいだ。

その悪夢こそが憎むべき共通の敵である。
平和とはお互いの握手から始まるものだ。



悲しいソースの位置

久しぶりに弁当を食った。
相変わらず海老フライの横に油まみれのソースの容器がある。
何十年も見慣れた弁当の姿。
手作りの弁当なので味はいい。
それに「味自慢」とシールが貼ってあるから確かだ。

これが、近代日本が抱え込んできた商品化された「真心だ」
近頃は「おもてなし」も流行しているが、
誰もその意味など知らない。

大型店におされて、小規模店舗は経営不振。
この弁当のソースのような仕事っぷりは、
どんな業種にも見受けられる。
消費者と繋がるのは何も値段だけではないのだ。
どちらにしても手が油でベトベトになるのなら、
安い方がいいに決まっている。
しかし、そんな不親切な弁当は食いたくない人間もいる。
そんな人は愛情のある店で買うだろう。
その視点こそが小さな店舗の強みだ。

値段・味・笑顔、それもいい。
しかし、愛をどう表現するのかは難しい。
手の汚れない位置に置かれたソースの容器は、
無言で消費者と販売者の信頼関係を結ぶだろう。

セミナーとかコンサルタントとかを受ける前に、
自分の仕事っぷりを見つめ直すことだ。
そうすれば金もかからない。

油まみれのソースから、
本当の日本が見えてくる。



WEB多事争論の意義

WEB多事争論について。
コミュニティにも書き込んだのだが、
ブログにも書いておきましょう。

現在様々な問題が山積されているこの国。
WEB多事争論は筑紫哲也氏の論説を拝聴するだけの場ではないと、個人的には思っている。
世にも不思議な日本人的な感覚。
いつも僕たちは常にテレビの前の傍観者であったとも言える。
「自分事の他人事化」に慣れ親しみ、
まさに「論」から僕たちは逃避してきたのだ。
夢を売りつけられて育っても現実は存在している。
こうして時代のバトンを渡す人間も少なくなり、
また、それを受け取る意志も努力も枯渇した。
様々な問題の背景には、
このような逃避型の生活習慣がある。
国家とはリレーのようなものかも知れない。
「先人が渡す」
「次世代が受け取る」
「未来へとまた渡す」
どこかで人間だけがフィールドに取り残され、
バトンの存在は見えない。
この国はバトンを持たない人間で溢れかえり、
走る先のゴールさえ見失ってしまったらしい。

WEB多事争論にそのバトンのありかが見える。
筑紫哲也氏が頑張るのではない。
僕たちはそのバトンを受け取るために努力せねばならない。
まさに正当に考えることの「論」の復活である。
それは政治のみにあらず、
あらゆる問題の根源的な解決策である。
家庭や社会でも「論」は少ない。
お互い半分ずつ頭を下げて、笑顔でいれば波風立たない。
そんな風潮が蔓延しているのではないだろうか。

論ずる主たる人間は、
僕たち自身であることをしることが、
WEB多事争論の存在意義であると僕は思う。

このバトンを見失ってはいけない。



人生とは何だろう?

詩人は朝10時に起きる。
その10秒後にはタバコを吸っている。
次にアイスコーヒーを作る。
パソコンでメールをチェックしながらそれを飲む。
うだうだと過ごし昼になる。
レストランで毎日ランチを食う。
そのついでにパチンコ屋で負ける。
あーあ!と言いながら車で近くの温泉へ行く。
平日の温泉は貸し切りなので、
露天風呂に死体のように浮かんで空をみる。
ずっと、そうしていると自分が岩になった気がする。
鳥が飛んでいて、梢が風に震えている。
風は「丸いんだな」などと空に話しかける。
次に水風呂に死にそうになるまで入り、
唇が紫色になる。
それを鏡で見て笑う。
風呂上がりはマッサージを受ける。
その度に「疲れていないんだがなあ・・・。」
などと感じてしまう。
マッサージされながら、
マッサージ師の過ぎた人生を想像する。
その頃には午後3時をまわっている。
家で支度をして近所の池に釣りに行く。
暑くて全然釣れない。
その帰りには酒屋で酒を買う。
ついでに刺身やらなんやらつまみを買う。
家に着くとビールを開ける。
ベランダで下界の夕暮れをみながら思う。
人生とはなんだろう?



オリンピックの神様?

連日テレビでオリンピックを観ていて感じることがある。
機械で結果が計測されるような種目ならまだいいが、
審判の裁量で結果が大きく変わるのは納得できない。

柔道の解説などを聴いていると、
解説者もユウコウなのかワザアリなのか判断が分かれる。
ハンソクやシドウも一律ではない。
レスリングは点差がないとくじ引き?
のようなルールになっている。
厳しかったり優しかったりする審判の個性は、
血の滲むような努力を重ねて出場を果たした選手には、
非常に失礼なシステムになっている。

金・銀・銅のメダル争いもいいが、
種目本来の醍醐味も意味も薄れかけているように感じる。
ルールという法律と審判という神様。
実力+運+審判の精度で結果が決まるのが現実。
ルールを最大限に活かしてメダルを取る機械的な戦略。
全てはルール内だから、何をしてもいいのだ。

とても残念なことだが、
日本人の真っ直ぐさは、必ずしもメダルには繋がらない。
「○○精神」など自己満足にしか過ぎなくなってきている。

著しくカラダを矯正するウェアなどもそうだ。
とても同じ条件で戦っているとは言えないだろう。

世界記録連発の影に、
スポーツの終焉を感じるのは僕だけだろうか?

何かもやもやした感じのオリンピック。

その存在そのものを問い直す時代が来ているのかもしれない。



悲しいシャケの切り身

大型スーパーの鮮魚売り場に立って、
遙か彼方の国から運ばれてきたシャケの切り身をみていた。
このコーナーはトレーに様々な魚の切り身が入っていて、
それをトングで袋に詰めて自由に買うスタイルだ。

すると隣のおばちゃんがシャケを袋に詰めはじめた。
その瞬間切り身が床に・・・!
おばちゃんは何事もなかったように落ちたシャケを拾う。
そして・・・何の迷いもなくトレーに戻す。

僕とおばちゃんの距離は50センチ。
おばちゃんは僕の顔を見あげたが、
僕は彼女をみないで、悲しいシャケの切り身を見つめていた。
しめた!と、思ったのか、
おばちゃんは素知らぬ顔で去っていった。
ピンク色のTシャツにおばさんパーマが印象的だ。

その頃、店員が魚売り場の整理に来ていたので、
僕は手招きをした。
「このシャケは床に落ちています。買った人がカワイソウだから下げてもらえますか?」
「店員はありがとうございます」と言いながらシャケを回収した。

自分の口に入るものは気になるが、
それが他人なら気にならない。
ミスは仕方がないが、この行動は痛すぎないか・・・。

遙か彼方の国からやって来たシャケの切り身は、
日本のスーパーの片隅で、
心ないおばちゃんのお陰で悲しいシャケの切り身となって、
その生涯を終えたのであった・・・。



悲しいロース肉

近所のスーパーの精肉売り場は清潔なのだが、
それに比例して商品が誠実だとは限らない。

誰が考えたのか知らないが、
近頃は肉の脂身を裏返しにしてパックする所が多い。
マイナス部分を隠す体質がここにも見える。
脂身が悪いというお話ではなく、
隠して見えなくして販売するのは詐欺に近い。
買うか買わないかは消費者が判断するのだが、
ラップしてある中身を確認することは出来ないのだ。
そんなものだと思って買えばいいのだが、
そうもいかない。

善し悪しを判断する基準を消費者から奪ったのは誰だ。
76グラムのロース肉をまな板に広げたら、
なんと半分以上の目方が脂身だった。
スーパーに電話をかけて店長を呼び出し、
目の前に肉を叩きつけて、
本社へ乗り込むからお前も来い!と怒鳴りつけるほど、
こちらも暇ではない(笑)

悲しいロース肉を眺めながら、この国の不誠実さを思った。
見えなければいい。
隠せばそれで住む。
自分で判断することの自由を奪われ、
ただでさえも余計な贅肉はいらない詩人に、
この脂身は日々の生活の怠慢さを思い知らしめたのである。

逆に御礼を言わなければならないのだろうか?



悲しい報道番組

日本のテレビは「グルメ」と「クイズ」と「お笑い」で、
全てが事足りるのか・・・。
まあ、娯楽としてのこれらは良いと思うのです。

では、報道番組はどうかしら?
例えば○○県の○○さんが屋根から落ちた!は、
全国放送でやるべきニュースだろうか?

オリンピックの番組があるのに、
更にニュースでこれだけの時間を割く必要があるのか?
日に同じ場面を何十回もみせられる。

他に報道するべき情報は無いのかなあ・・・。

テレビの向こうに危うい日本が隠れている。



悲しいポスト

生活空間においてポストとは何か?
ある意味ポストは個人と社会との共有空間なのかもしれない。

郵便物を受け取る為の箱としての役割は重要だが、
その存在意義は曖昧である。
いつから、ポストには不特定多数の企業やら何やらの、
不要な広告やら勧誘のチラシなどが投げ込まれるようになったのか?
これらは不要な人にとってゴミ以外の何ものでもない。

例えば他人の敷地や玄関にゴミを投げ入れたらどうなるか?
場合によっては不法投棄で訴訟問題にもなりかねない。
しかし、個人の所有物であるはずのポストはどうか?
その空間には、不要なゴミが毎日投函されている。
不思議だ・・・。

しかもしっかりと投函を指示した会社の名前が明記されている。要するに堂々と他人の所有物であるポストに投げ捨てているわけだ。何の罪悪感もなくあたりまえのように、他人の私的な空間に踏み込むわけだ。
不思議だ・・・。

広告だらけの地域誌やピザの宅配チラシ・・・。
どんな権利があってそれらを勝手に入れるのだろうか?
入れるのではない、棄てるのだ。
何の権利があって強制的にいらないものを押しつけられるのか考えたことはないか?

ポストなど棄ててしまいたいが、
必要な郵便物を受け取る空間はどうしても必要だ。

今度、チラシが入っていたら、その会社へ電話して担当者に回収させようかと考えているが、電話代の方がもったいない。

悲しいポスト・・・不思議な箱。
ポスト兼ゴミ箱。
悲しいポスト・・・繋がりっぱなしの営業マンとの電話。
ポスト兼公衆便所
悲しいポスト・・・文句の言えない可哀相な奴・・・。



ほどよさの終焉

アイドルは雲古などしない。
そう信じていた時代が懐かしい。

知らないことは知らないまま。
そんな時代のほどよさは死んだ。

その代わりに知りたくもない情報が溢れ、
意味もなく恐怖に怯える時代の幕開けだ。

指紋認証に顔認証。
このデーターは犯罪者予備軍リストに利用する?

住所を入れれば写真付きで、
我が家が世界に公表される。
そのうち、冷蔵庫の中身まで検索できるだろう。

知りすぎて絶望して、
道連れに他人様にも死んでもらう。
その一部始終も公表される。

何が知りたいのか?
何を知らせたいのか?
何のために?
何の利益のために?

恐怖を植え付けられ、
他人に関わることの恐怖を妄想する。
あるかないか分からない未来に怯え、
イライラと日々を過ごす。

テレビを買い換えろ!と、
テレビが叫ぶ。
過剰な情報とオサラバする良い機会だと考えれば、
買わない選択肢もある。

心の準備の出来ていない者に、
この世の真実を告げるのは善か悪か?

知るべきことと、
知らなくても良いことをどう選択するか?

知る権利もあれば、
知らない権利もある。

権利を放棄する権利は無いか?

真面目に生きることを
馬鹿にしたのは何処のどいつか?

笑えない時代には、
お笑いが流行る。

口を開けている間に、
それぞれの人生の終焉が来るだろう。



死という付加価値

誰もが死人を賞賛し共鳴する。
それは何故か?
死という付加価値とは一体何だろう?
詩人や芸術家も生前は乞食同然に扱われるが、
死後に有名人になる。

賞賛される為のスパイスは死だ。
死を一振りすれば、全ては美しくなる。

出来れば、その共感の泪は、
生きているうちに注いで欲しいものだ。

アフガニスタンで殺された彼の活動は地味だが価値がある。
無くなってから、
悲しみの美酒に酔いしれる庶民達。
高みの見物。
自己満足。
泣きたい病か?

生きているうちに評価されれば、
もっと沢山の仕事が出来ただろうに・・・。

生きている人間に投資して欲しいな。
テレビの前でひとしきり泣いて自己満足する前に、
出来ることもしなかった自分を後悔するべきだ。

死という付加価値など何の役にも立たない。
そんなものはカスだ。

そんな記事を読む度に、
世界は他人事である事実を突きつけられる。

個という真実。
大衆という嘘。



子育てについて

世界中の動物は「子育て」をしますね。
タマゴで産んでもそれまでは、なんらかのフォローをします。
動物の子育ては短い期間のようにみえますが、
寿命がその分短いので人間の時間軸では、
その長さを測ることは出来ません。
子育て→巣立ち→自立→個体の死。という道を歩みます。
人間はこれにプラスして親の面倒をみるのが、
道徳的とされています。
「恩」という言葉には強迫観念がつきまといます。
それは「返却を強要された貸し出し用の恩」つまり恩返し。
恩を返却しないのは不道徳であると教えられます。
しかし、返却しなければならない「恩」は、
愛ではありません。
愛の本質はいつも花子さんが書いているようなものです。
「恩」は返すものではなく「知る」ものだと言えば、
不道徳になるでしょうか。
親から与えられた恩を親に返していては仕方がありません。
返すべき所は未来なのかも知れません。
それを由としての繋がり合いが子を産み育てる行為です。
親子という関係以前に個としてどう他者(自分以外)と関わるかの方が問題ですね。
動物は親の老後の面倒はみません。
人間はその反対です。
善し悪しの問題や道徳などを持ち出さなくても、
個としての尊厳はそこにあります。
そのことを考えなければ人類に未来はないでしょう。
サラ金業者と借り手の関係のような親子も沢山います。
所有物としての子どもではなく、
個として、個を産み育てる心構えがなければ、
親にはなれないのかもしれませんね。



埋葬された安心神話

相変わらず食品偽装が多いね。
少し考えたんだが、
中国産を国産と偽装しても結局消費者は味には気が付かない。
味とは何だろうか?
これほど微妙なものも少ないと思う。
電化製品なら善し悪しは直ぐに分かるのだが・・・。
では結局消費者は何に対して金を払っているのだろう?
少し高い金を払っても「安心」を買いたいというのが本音だろう。
政治も企業もめちゃくちゃだ。
「安心」などという言葉はもはや死んだのかも知れない。
人間不信が高まれば人は「個」に埋没する。
日本という箱の中を共有しながら、
無関係を装いながら暮らすような時代がやがてやってくる。
その時、共同生活体はゴミ溜めと化すだろう。
「私たちは偉大なことは出来ません、偉大な愛で小さなことをするだけです」と語ったマザーテレサの言葉を、
もう一度考え直したいと思う。



緩急自在とはなんだ?

筑紫さんが去ってしばし考えた。
緩急自在とはなんだろう?
スローとファーストを使い分ける?

もうすぐクリスマスだが、
日本でのクリスチャンの比率はそんなに高くはない。
しかし全員がクリスマスを祝う。
仏教の幼稚園でも賛美歌を歌い、
坊さんの家族もクリスマスケーキを食べる。
そして1週間もすれば、
やれ、お寺だの神社だのへ繰り出す。

養老孟司さんが「日本人には思想がない」と本に書いていたことがあった。
まさに、思想など無いのだろう。
あるのは途中から輸入された思想だ。
その土地や人や文化から思想は生まれるのだが、
輸入された思想は他人の靴のようなものだから、
日本人のサイズに合わない。
無理をすれば外反母趾になる。
その状態が今の日本の国かもしれない。

日本人ほど古来から緩急自在な民族はいない。
神仏習合を見ればそれが分かる。
キリスト教とイスラム教を一緒にするなど想像もできない。
日本の神と仏教も同じだったはずだ。
そんな緩急自在を普通にやってしまう民族が日本人だろう。
世界に希有な緩急自在人?かもしれない。

しかし、この緩急自在人はとても優しい民族なので、
傾いた方に転がる緩急自在もやらかす。
傾きっぱなしのリーダーがいれば、
ずっと傾きっぱなしということも確かにある。
その傾きを正す行為が筑紫さんの言う「論」かも知れない。
いつか全てが和合する大地、それがスローライフだろう。

というこじつけが正しければ、
「緩急自在の生き方を提唱する」のではなく、
「緩急自在の生き方を思い出す」が、正しい。
もともと、日本人はそうなのだから。

この世から、スローライフという言葉が消えたとき、
誰もが本来の人間の幸せを知るのだろう。

などと、分かったようなことを書いてみましたが、
いかがだったでしょうか・・・。



悲しい日本の神々

いよいよ明日は大晦日ですね。
近頃はカウントダウンだとか、なんだとかで賑わうが、
年越しや新年の過ごし方もどんどん退化している。
心静かに年を越して、心新たに新春を迎える。
そんな時代は過去のものなのかもしれない。
個人的には馬鹿騒ぎで何となく時が過ぎてしまうのが嫌いだ。

初詣に行ってすることは、今までの「無事を感謝」することで、
決して「お願い事」をしに行くだけの行事ではない。
お守りの行列で「どっちが効きますか?」と巫女さんに尋ねているおめでたい奴もいる。

先日神様と仏様から伝言があった。
「しばらく留守にする・・・」とのことであった。
で、残ったのは政治家だとさ・・・。

皆さんよいお年をお迎えください。



悲しい娯楽番組

このご時世になっても、
馬鹿笑いと馬鹿食い番組がなくなることはない。
派遣切りで行き場のなくなった人への炊き出しかと思えば、
一方では大食いの番組が始まる。
食物をもてあそび、食物への侮辱的な行為を公共の電波で垂れ流す。
この感覚たるや閉口せざるおえない。

連日のお笑い番組にも辟易とさせられる。
不安で暗い時代には笑いが大事!
などと語ればまともな意見に聞こえるが、
簡単に言えば逃避にしか過ぎない。
まあ、いつまで笑っていられるか時間の問題であろう。

娯楽番組はすでに娯楽などではなくなっている。



パラサイト・エコ

エコの対義語としてパラサイト・エコを考案した。
これはエコというあらゆる観念的な思想や活動に寄生する者という意味だ。

パラサイト・エコは、社会活動のあらゆる面において、
エコという言葉を慣用し、売名的な活動を行う。
自然に優しく人に厳しいという側面を内包している。

パラサイト・エコは、しばしば個人及び企業の戦略的な宣伝効果を果たし、イメージアップに貢献する近年もっとも効果的な言葉として「エコ」を全面にした商業的な活動を展開する。

パラサイトエコは自社の本来の製品及び提供されるサービス以上に、価値を持ってしまう場合がある。


パラサイト・エコの寄生する媒体は人間のイメージや精神的なものであり、その寄生によって購買力を高め、ある種のプロパガンダ的な手口で洗脳してしまう。

パラサイト・エコ企業は、偽装などで逮捕される場合が近年増加している。食の安全面では国産商品が注目されて、中国製の食品の人気は低迷しているが、国産の食品偽装の増加により、ブランドや国産という神話は崩壊した。これの背景にもパラサイト・エコの影響が見える。

パラサイト・エコは、エコの理念を商業的に利用した商売の一種であり、本来のエコの理念とはまったく別のものである。
植林やリサイクル又は人道支援などに用いられているという間接的な利益の循環においても、その結果が報告されることはまれであり、それ自体が偽装である場合も少なくない。

パラサイト・エコ企業の使用するエコという言葉や活動の実態について調査し、そのような実態が無い。又は虚偽の広告である場合はそれを規制する制度が必要である。
エコというスローガンが野放しで使用されることは生活者及び消費者にとって多大な損害と精神的なダメージを及ぼす。

パラサイト・エコの近年の宣伝手法として、CO2の削減という言葉が使用されるが、「削減される」という曖昧な言葉の使用がはなはだしい。その多くは「CO2を増やさない」という方が正しい場合がある。「OOを買えば削減される」というまだ出てもいないCO2に対して「削減される」という言葉を使用するのは虚偽の宣伝であるとも言える。CO2を出す前提において「削減される」というのはナンセンスである。

国民はエコとパラサイト・エコを区別して考えなければならない。エコに逆行した生活を続けることは人類にとって不幸な結果をもたらすだろう。
削減=価値ではない。削減=当たり前なのであって、
過剰な排出による地球環境の汚染をしてきたのだから、そんなことはおおっぴらに価値のあるような身振りで示す必要はない。
生活者もその一端を担ってきたのだから、環境に配慮することは善良なことなどではなく、当たり前のことなのだ。
エコという言葉の慣用によって作り出された神話は、その本質から離れつつある。
僕も含めて人間はもっと謙虚であるべきだと感じる。
ある意味、エコとは謙虚さの表れでなくてはならないのかも知れない。



現実とは想像である

何が真実か?
僕は僕のフィルターを通して喜んだり悲しんだりするのだが、
そのことと現実に存在する世界とは違う。
現実の世界に対して、悲しんだり喜んだりする場合、
そうしているのは自分の感覚でしかなく、
喜んだり悲しんりするべき事実があるのではない。
世界の様々な現実は存在するが、
そこに内面的な何らかの観念を抱くのは、
現実にではなく、あくまで個人のフィルターである。
そう考えると、
悲しむべき感覚は自分の中にしか無く、
喜ぶべき感覚もまた自分の中にしかない。
しかし、僕たちはそれがあたかも普遍的なもののように論じる。
実は、誰も不幸などではなく、
実は地球は瀕死の状態ではないのかも知れない。
顔を見ることも出来ない人間のために、
喜んだり悲しんだりすることは、
自分を主体とした想像にしか過ぎないともいえる。
想像することが自分の心を支配する元なら、
その自我を捨てれば、今すぐに幸福になれる。
自分が何かをする主体であると、考えている場合、
幸福はない。
僕たちはあまりにも自分を知らない。
そして、外のことばかりを気にかけ、不安を感じる。
実際、自分が救うべき世界は存在せず、
誰もがまず、自己を救うことから始めねばならない。
どんなに、将来が不安でも春には桜が咲き、
どんなに希望が失われても、猫は一日中寝ている。
人間の心だけが右往左往しさまよい続けている。
他人や地球に対して論じるのを止めて、
自分とは何か?を問い直す時期が来ている。
と、そんな風に思うのだが、皆さんはいかがかな?



不確かな環境問題?

僕たちのような生活を享受している人間は、
地球の人口の3割と言われている。
それが本当なら、残りの7割の人間は、
慎ましやかに暮らしているか、飢えている。

3割の人間が破壊した自然の負の遺産は、
全員の身に降りかかる。
簡単に言えば7割の善良な人間には迷惑な話だ。
その3割の中に僕もいる。
加害者と被害者という構図は、
テレビを見ていても分からない。
全員が犯人のように報道されるからだ。
ここで語られる「自然を破壊した人間」とは、
僕を含む3割の人間のことなのだ。

それでは残りの7割の人間はどう感じているのか?
それは知るすべがない。
なんせ、彼らは慎ましやかに生きているか、
飢えているかのどちらかだからだ。
要するに、語るための力がない。

現在語られている環境の問題は、
3割の当事者によって議論されている。
自分の罪を自分が断罪し、自分で裁判するのだから、
かなりユニークだ。
無関係な7割の人間も引き合いに出される。
インパクトは満点だ。
環境破壊の当事者である3割の人間の中には、
「自分は自然派」だと豪語する人間もいる。
それは、それでよいことだと思うが、
何故か違和感を感じてしまう。

現在の貨幣制度ではそれを維持するのに、
経済成長は必須の条件なのだ。
経済が成長するためには消費につぐ消費が必要だ。
要するに資源を消費しながら、
この経済至上主義の世界は成り立っている。
例えばこの経済至上主義の外に自分がいる。
と、考えている人は存在するのだろうか?
僕を含む3割の人間はどのように理屈をつけても、
紛れもなくその中で恩恵を受けて暮らしている。
そんな中で、ナチュラリストや、自然派でいることには、
かなり無理があるだろう。
経済至上主義の恩恵を受けると言うことは、
貨幣制度の中にいることなのだから、
何をするにも金がいることになる。

ブナの森を散歩して、
自然と共に暮らすナチュラリストをテレビで見せられようが、
田舎の老夫婦の幸せな暮らしを見せられようが、
環境のない人間には無意味なことだろう。
それを実践するためには莫大な金が必要になる。
金が必要なら、経済至上主義の世界との断絶は出来ない。

環境問題に取り組む企業というのも、
よく分からない。
営利組織が経済を動かし資源を使う母体なのに、
環境保護に金を出している。
このことは、当事者の3割の人間には意味のあることだが、
残りの7割の人間には何の価値もないことだろう。

地球の環境を考えるなら、
経済至上主義が崩壊するしかないのかもしれない。
となれば、仕事も保証も国もないので、
自力で生きるしかない。
すると、大半の人間は死んでしまうだろう。

少子化が問題になっているが、
点で考えればそれは問題だろう。
年金財政や税金を徴収する保険として、
人間を増やす為に人間が必要だとしたら、
生まれてくる生命にこれほど失礼な話はない。
大きく考えれば、現在でも人間が多すぎるのに、
少子化を止めようとするのはナンセンスではないだろうか。

要するに、
環境問題を解決する為の方法は、
啓蒙やエコ商売ではないのである。

子供や孫や100年、1000年後の子孫のために、
困難を引き受ける意志があるか?という問いであろう。
その現実はかなり厳しいだろう。
それは不確かな環境問題の議論ではなく、
実際に僕たちが引き受ける困難である。
極言すれば、当事者である3割の人間の内、
更に9割の人間が死ぬ覚悟のことである。
どう考えてもそれは無理だと思うのだが・・・。

「自分が何かを変えられる」などという幻想を捨てることだ。
何かが変わるかどうかよりも、
自分の思うままにそれぞれが行動することしかできない。
全員で環境問題を考える。というのは正しくない。
価値があるかどうかは別として、
自分が環境問題を考え、行動する。ただそれだけだろう。
だから、声高にエコを叫ぶ必要はない。
木を植えるなら黙ってやればいい。
真実は沈黙の中にこそある。



精神の死と再生?

例えば、丸い形を与えられて、
それで生きるように教育されるとします。
人生には丸しかないので、
丸で組み合わせた単体か集合体か結合体を駆使して、
生きようとします。
しかし、ある時、丸で全てが解決できるという現実が、
必ずしもあるというわけではないという不安や不満が起こります。
そうなると人によっては、三角や四角を持ち込もうとします。
もしかしたら、それはお金・権力・宗教・思想・哲学という名前で認識されるかもしれません。
丸+三角は、あなたに新しい世界観と価値観を与えるでしょう。
しかし、それでも不安や不満を解消できません。
よく考えると、自分の持っているものは全て、他者の残りかすのようなものばかりです。
そうなると今度は頭の地獄がやってきて、
果てしない問答のような世界に没頭します。
しかし、そこにも丸+三角しかないのです。
それを解決するのは精神の死です。
死なないのに生まれ変わることが出来ないように、
精神もまた同じです。
では、どのように精神は死ぬのでしょうか?
丸+三角を横に置いてはなりません。
丸+三角は現在のところあなた自身なのですから。
不安や不満の中で丸+三角を持ち続けると、
精神は大いなる挫折を味わうことになります。
もし、丸+三角を持っているのに挫折しないとなると、
まずはじめに、真剣に生きることから学ばねばなりません。
精神の死を迎えたら今度は再生しなければなりません。
再生する為のヒントは丸と三角と四角以外のところにあります。
それは、YESとNOの間にあるでしょう。
それは、YESとNOが生み出される母胎なのですが、
YESでもNOでもありません。
そこには全てが有り、全てが無いので不安や不満はありません。
その場所では、丸も三角も四角も破壊され、
新しい形ではない形が誕生するでしょう。
そのような過程を経て再生するのです。
再生後も社会で暮らさねばなりません。
しかし、そこで体験することは、
丸と三角と四角の視点では認知できない世界です。
死を体験して再生した場合のみ感じることが出来るでしょう。
そのとき、自分の外側には何もないことを感じます。
以前と同じように喜怒哀楽はやってくるでしょうが、
それすらも外側ではなく内側に内在していることを知るでしょう。
全ては、あるがままに在るので、
喜怒哀楽を感じながらも、精神はそれに振り回されることなく、
ただ、あるがままに在るでしょう。
そのあるがままに在る状態は、
丸と三角と四角を未だに信じている人が言うそれとは異なります。
そして、丸と三角と四角を信じる人間にはそれが理解できないでしょう。
それは、広い空が在るのにその見える面に一本の線も描くことが出来ないのと同じです。
空に絵を描こうと思えばあなたは空であるべきでしょう。
飛行機雲を見てください。
丸と三角と四角を持った人が描いた絵です。
書いた瞬間から消えてゆくのが見えます。
あなたは、消えない絵を描くために空になる必要があるのです。
現実に年間3万人の自殺者がいます。
精神が死んで肉体も死んだ方たちです。
死んだ精神には可能性があります。
死んだ精神が再生できるような世界であらねばなりません。



詩人の一日の過ごし方

10:00
起床する。
タバコを1本吸う。
顔を洗う。
猫に餌をあげる。
猫のトイレを掃除する。
コーヒーを飲む。
メールをチェックする。
もう一杯コーヒーを飲む。
だらだらと過ごす。

12:00
ランチに出掛ける。
温泉に行く。
意味もなく車かバイクで走り回る。
目についたあらゆる店を巡礼。

15:00
スーパーで夕食の買い物。
酒屋巡り。

17:00
メールのチェック。
風呂に入る。
猫に餌をやる。
猫のトイレを掃除する。
だらだらと過ごす。

20:00
夕飯を作る。
夕食。
飲酒。
だらだらと過ごす。

12:00
歯を磨く。
また酒を飲む。
猫を寝かせる。
自分も寝る。

毎日これを繰り返す。
「仕事は身体に悪い」というのが座右の銘だ。
なので、たまにしか仕事はしない。

今日、気がついたこと
眼鏡には無縁なのに眼鏡屋を散策中、
暇なので視力検査をする。
両眼とも2.0ということだった。
更に検査すると・・・老眼1.00らしい。
暇なので老眼鏡を探しに眼鏡屋巡りを開始。
1000円の洒落た老眼鏡を購入。
今日から老眼デビューだ。

そして明日も明後日も同じように過ごす。

自分の自由になる時間はほぼ100%に近い。
僕は人の何倍も自由な時間を生きる。
自分の自由になる時間は人生で何時間だろうなどと思う。

これは、スローライフでしょうか?
それとも、怠惰な生活でしょうか?
教えてください(笑)



掛川を考える

日本中のどこもかしこもまちおこしに余念がない。様々な手法を用いて地域の魅力を創出しようとしている。専門家という摩訶不思議な方たちが、数値化された観光論を披露しながら各地を巡礼しているのも、何か滑稽な気がする。
 
静岡県掛川市を昨年と今年に3回訪れた。この土地を語るとき、「何があるか?」という解説は愚かしい行為になる。日本中を訪ね歩いてみても地方という場所は特筆すべき観光資源などほとんどない。例えば有名な場所があったとしてもそれは「点」の魅力に他ならない。奈良のように世界遺産が豊富な土地でさえそれは「点」でしかない。その魅力は部分的な魅力であり、その土地の色彩とは別のものなのだろう。東大寺が北海道にあろうが沖縄にあろうがそれは観光として威力を発揮するに違いない。しかしながら「点」の魅力とは一過性のものでもある。持続した魅力になるためには「点」から「線」、そして「面」への移行が必須となるだろう。その観光システムを成立させるためのキーワードが「人」である。しかし、画一化されシステム化されたと同時にその「人」というキーワードは急速に魅力を喪失してしまうという側面を内包している。

掛川の魅力を解説するとき、土地の魅力や観光資源といった視点から全てを語るのは相応しくない。確かに様々な試行錯誤と工夫が凝らされてはいるのだが、そのほとんどは二次的な魅力である。数値化され体系化された面の論理ではない観光の魅力とは何だろうか?それはやはり「人」である。「点」を強調した観光論や「新たなる点」の創造はよくある手法だが、やはり、「点」でしかない。本来の「面」での魅力の創出とは「ありのまま」である。

僕が考える土地の魅力とは「人」の魅力のことである。そこには「何処で何をするか?」という以前に「誰と?」というキーワードが存在している。ほとんどの地方はどこも似たり寄ったりであるが、そこに住んでいる「人」は、多種多様だ。何もないことを嘆くよりも堂々と「俺に会いに来い」という魅力があることを誰もが忘れて、資源の乏しさにうろうろしてしまう。
「俺」「私」それが観光資源であることを堂々とアピールすることで、魅力という価値観は変化する。
なぜ掛川が好きなのか?「人は人に会いに行く」その魅力につきるだろう。その意味では掛川は魅力にあふれている。「俺」や「私」と酒を飲み同じ時間を分かち合う。そしてそれはいつでも「等身大」であり、「あるがまま」である。これからも僕は掛川に出掛けるであろう。散らない花こそ「人」である。



作家の喜びとは?

僕は詩の他にも戯曲を書いて発表してきた。
無名の作家の本など売れるはずもないのだが、
どこかの砂浜では誰かがそのボトルを拾い上げ、
つたない手紙を読んでくれるものだ。
千葉やら福岡やらの高校からの上演許可の申請をもらい、
その度に「ご自由にどうぞ」と言ってきた。
先日は富山の高校から上演許可申請が来た。
世代の違う若者達が、
僕の作品の何処に魅力を感じているのかは不明だが、
作家としては嬉しい限りだ。
福岡の高校では上演のパンフレットを送ってきてくれた。
7つの演目の最上段には僕の作品の名がある。
そしてその下には三島由紀夫をはじめとする凄い方々の作品があった。
このパンフレットを見たとき、
この順番で本当によいのか?と、困惑したのを覚えている。
いい方に考えれば、読み手にとって作者が誰か?
などということは問題ではないのだろう。
じかし、今の流行はそうではない。
まず、どんな人が書いたかによって価値が大幅に上がる。
読者もそれを前提に読むから感動する。
まあ、本の売れない時代には有効な商売のやり方だが。
それは、歌でも音楽でも同じだろう。
連日垂れ流される「爆笑○○」と「泣ける○○」を観れば分かる。
笑うか泣くかの価値観で僕たちは生きているのだろうか?
この感情の起伏の激しい世界を横に置いて、
今日も僕は窓辺でまどろむ。
もちろんビールを片手に。
そして、今日も誰かに手紙を書くだろう。



エコという余興の結末

エコポイント?
二酸化炭素と温暖化の関係は未だに不明だし、
温暖化で人類が大変なことになるという証明もないのに、
恐怖を売るのはやめて欲しいと最近つくづく思うね。
これもまた椅子取りゲームの余興なんだろうが、
これだけ連日のようにエコが垂れ流されると、
世の中全員が信じ込んでしまうだろう。
これは犯罪ではないのかしら?とも感じてしまう・・・。
まあ、これも操作された情報の中の情報なので、
真偽のほどは分からない。
要するに、もっと借金をしなさい!買いなさい!
と、まあ、それがいいたいのだろうが。
恐怖をあおり立てられ、
ペットボトルの回収に善意で協力する程度なら被害はないが、
根拠のない恐怖をあおり立てる商売の手法には飽きた。
僕にとっての環境問題は、
蚊に悩まされずにゆっくりと眠れるように、
環境を整えることぐらいのものだ。

ここで議論するつもりはないので、
それぞれに信じたいことを信じるのが良いと思います。
僕の今の悩みは、電源だけ入れて炊飯もせずに保温になって
しまったブヨブヨの米をどうやって食うかだけです・・・。



傲慢さという不幸

強者は強者なりの傲慢さを抱え、
弱者は弱者なりの傲慢さを抱えている。

その傲慢さは自由と権利の狭間にある。
他者の自由や権利を認めながら、
己の自由や権利が優先されることを欲する。
それが叶えられない劣勢に己の存在を感じたとき、
人間は欲求不満となる。
やがてそれが日々のストレスとして蓄積され、
その蓄積された憂鬱は時計のない爆弾のように、
やがて破裂する日の機会を欲する。

己の満たされない欲求は他者によるものではなく、
己の傲慢さが引き起こす自己崩壊の輪廻である。

平穏に暮らすためには、
まず、己の傲慢さという波が穏やかになる必要があろう。
他者に変革を望まず、己を変革する努力こそが、
これからを生きる人間に求められる。
いや、1000年前からの課題であるのかもしれない。



司馬遼太郎さんの書斎

自宅から40分ほど車で走れば、
東大阪の司馬遼太郎記念館に着く。
幼少期には奈良の當麻町で過ごした司馬さん。
日本人の危機を先んじて説き、
日本人の素晴らしさを諦めなかった偉大な作家である。

司馬遼太郎はこのような言葉を残している。
「優しい心・慈しみの心」それを「訓練して身につけよ!」と。
ここに21世紀の命題がある。
人間の傲慢さを知ってしまっても、仲良くやる為の希望。
それは、「自己を確立すること」それも、「訓練によって」である。
ここ数週間、人間の傲慢さと向き合うためには、
諦めしかないのだろうかと考え続けていた。
そうしているうちに、妙に司馬さんに会いたくなったのである。
主のいない書斎の窓辺には夏が訪れ、
庭では蝉たちが短い人生の詩を声高らかに歌っていた。

この21世紀の混沌とした窓辺には、
司馬遼太郎という人間の切なる願いがある。
原稿用紙の上に外されて置かれた愛用の眼鏡が見える。
ふと、部屋の奥から彼が歩いて戻ってきそうな気配が漂っている。

日本人の心も、やがて戻って来るかも知れない。



災害とは何だろう?

今回の地震で思いました。
人間は環境破壊や災害などで死に絶えたりしません。
侵略者や戦争によっても滅びないでしょう。
今までの文明は外側から滅びましたが、
次は内側から崩壊するでしょう。
目に見える災害も怖いが、
目に見えない災害はもっと怖い。
うわべの手当は目に見えて復興が進んで見える。
心の崩落箇所は場所さえ分からない。
目を閉じて、耳をふさいで、その場所を探す。
少年の夏は過ぎゆく
スーパーへと向かう途中に、
綺麗な水の流れる小さな側溝がある。
そこには、ザリガニがいる。
そのことには最近気が付いたのだが、確かにいる。
今日もその側溝の水の中を黙って眺めていた。
通りすがりのおばさんに怪訝そうな目で見られながら、
詩人のガキオヤジは水の中をひたすら見ていた。
すると、タニシを発見。
昔、山形の田んぼでよく捕っては食べたアレだ。
ま、一つだけしか捕れなかったのだが・・・。
帰り道、ひとりの小学生と出会った。
彼は手に青いバケツを持ち、
タモを片手に側溝の中を覗いていた。
詩人も同じ水の中を覗いている。
ま、結局は小学生と同じレベルのオヤジ・・・?
僕は彼に話しかけた。
向こうの田んぼの方の側溝でザリガニを2匹見つけたぞ!
少年は直立不動で「ありがとうございます!」と言った。
「ありがとうございます」その言葉に黙って頷いた。
彼は、一目散に田んぼの方へと走り去った。
詩人はその場にいて、彼の後ろ姿を見送って、
静かに笑った。
晩秋の夕暮れ時に、
小さな未来への希望がもてたような気がした。
あの少年は、遠い昔の僕だったのかもしれない。



エサと食事の分かれ道

養豚場だったか、養鶏場だったか忘れたが、
家畜が一列に並んで顔を出してのエサをむさぼる光景を何かで見たことがある。

その映像を思い出したのはラーメン屋だった。
チェーンのラーメン屋か何かは知らないのだが、
とにかくカウンターへ通された。
昼時ともあって次々にお客が来る。
それはいいのだが、カウンターが異常に狭い。
みるみるカウンターはお客で一杯になった。
肘があたる・・・膝があたる・・・。
全員視線はラーメンを見つめている・・・。
その時、エサという言葉と同時にその光景を思い出したのだ。
なんとも虚しい気分になった。
食事の時間がエサの時間になってしまったようだった。

回転率を上げるために狭く居心地の悪い設計で造られた店。
元気で愛想よく、そして異常な馬鹿声で「いらっしゃいませ~」と表向きは言う。
しかし、店内は、「食ったらさっさと帰れ!」という逆の設計なのが面白い。
このような店は至る所にある。
最近は大型の飲食店は不景気だというが、当たり前だ。
サービス業は死に、
店員は馬鹿声を出すことが接客だと思っている。
わざわざ呼ばなくても水をつぎに来るような店はほとんど無い。
食事が口に入っているのに「おさげしま~す!」だと。
「おさげしま~す!」が「早く帰れ~」に聞こえるのは僕だけだろうか?
近頃はエサの時間が嫌なので、
弁当を買って家で食うのが日課になった・・・。



ティッシュペーパー論

くるくるっと丸めて鼻の穴をほじくると、
いつも違和感を感じる。
それは、ずいぶん前からのことなのだが、
1枚では鼻の穴に合わないので2枚取る。
2枚では厚すぎるが、1枚ではほじれない。
400枚200組のテッシュペーパー。
昔の箱は厚みがあったが今は3分の2程度のコンパクトが主流。
枚数は昔と同じだと思うのだが、
果たして1枚のティッシュの厚さは薄くなったのか?
それとも、鼻の穴が大きくなったのか?
1枚で済んでいたものを2枚使えば、消費は2倍になる。
鼻をかむときも、1枚では不安ではないか?
2枚だと罪悪感を感じないか?
わざわざはがして3枚だとちょうど良いのだが、
皆さんそんなに暇ではないだろうし、
そこまでやるなら手でかんだ方がましか?
最近はしょっちゅうティッシュを買っている気がする。
1年で何箱使うのだろうか?

話は違うが、
近頃ナポリタンが食いたいのだが食えないで困っている。
1個売りのピーマンがないからだ。
何処へ行っても1個売りがない。
無駄にしてしまうので袋入りは買わない。
しかも、入っていないと寂しいのだが、
ピーマンは基本的にキライだ。

ティッシュが薄くなったのか?
鼻の穴が大きくなったのか?
そんなことを考えている僕が悪いのか?

今日も酒を飲まないと眠れそうにない・・・。



ティッシュ薄さの結論

某ティッシュメーカーによれば、
やはりティッシュの1枚あたりの厚み(量)は変化しているとのこと。
具体的な数値は公表していないとのこと。
結果、鼻の穴が大きくなったのではないことが判明しました。
紙の量が減り、箱が小さくなっても消費が上がれば、
エコにはならないような気がするのですがどうでしょう?
ま、どうでもいいのかそんなことは・・・。

続いて気になるのは、
お肉の豚ロースはなぜ脂の部分が折りたたんであるのかだ!
焼くときにそれを元に戻す時間が無駄だ。
それをやる方も無駄だと思うのだが・・・。
脂を見せたくないのだろうか?
しかし、一生隠し通すことは出来ないどころか、
その日の内にばれてしまう。
この問いかけに答えてくれるスーパーは現れるのか!!!

ま、これもどうでもいい話なのだが・・・。



人は何を学ぶべきか?

気が付けば10月は1本もブログを書いていなかった。
人間は環境によって時の流れの感じ方が変わるものだ。
ドタバタとしていれば1ヶ月などあっという間に過ぎ去る。
僕は今、「シアター・プロジェクト・奈良」と「詩の学校」と「奈良演劇工房」というのをやっている。
重複する受講者もいるが、延べ人数にすれば100名近い人たちと演劇や詩を通じて交流している。
先生!先生!と全員に呼ばれ、僕は先生ではないので先生と呼ばないでください。と、全員に言うのにも疲れそのまま先生と呼ばれている。これは、一番なりたくない立場なのだが、仕方がない。「共に生きる仲間」と言うのが一番しっくり来るのだが、それも変だろう。
どの教室も結びは同じで、落ちも同じなのだが、それは「他人に優しく、思いやりを持つ」と、いうこと。これは当たり前のようだが、決して当たり前ではない。人間は身勝手な動物なのだから、豊かな心を保つためには訓練もいるし、努力もいるのである。ま、何を通してそれを実現するかは自由だし、やりたいことをやればいい。
しかし、優しさと思いやりの無い行為は、どんなに着飾ろうとも不毛なものであることを、僕たちは知らなければならない。



強烈!凄いぞ日本人2

前に「強烈!凄いぞ日本人!」の、
ため池バージョンを書いたあと、
では、山はどうなっているのかしら?
と思い、自宅から3分ほどの雑木林を覗いてみた・・・ら!
やはり凄いことになっていました。

警告の看板の横はゴミの山!挑戦しているのかしら?
枕は陽を浴びて自然乾燥がほどよい状態?
すっかり雑木林にとけ込んだ物干し台にはエコを感じる?
パソコンのキーボードだけ買い換えたのかしら?
捨てるにも何かルールが?

テレビ4台
冷蔵庫6台
ベビーカー2台
チャイルドシート
タイヤ
布団
マットレス
買い物籠
パソコンモニター
椅子
本棚
自転車・・・etc・・・。

ほんの数百メートルにショッピングセンター並みの品揃え!
不思議なことに、冷蔵庫の捨ててある場所には冷蔵庫が数台。
テレビはテレビでまとまってあったりする。
これは捨てる側の美意識の表れか・・・。

何処でもこんなふうなんですかね~?
子どもの教育を考えるよりも、
大人の教育を考えねばなりませんなあ・・・。



悲しいミカン

近所のスーパーの店頭では、ミカン詰め放題をやっていた。
そこへ一人のおばさんがやって来て、
黙々とミカンを詰め始めた。
どんだけ詰めるのかと見物していたら、詰める!詰めまくる!
ビニールに詰めるのが限界になると、今度は盛り始める。
更に両手でビニールを上下にゆらし詰めようとする。
まあ、そこまでは皆さんもやっている・・・かな?
そして、その時がやってきた。
ミカンがこぼれて地面に転がったのだ・・・あらら。
しかし、それを知りながらおばさんはミカンを無視!
拾う気配もなく、平然とレジへと向かい素知らぬ顔。
自分の欲望が満足すれば他のことなど気にもしない。
詰め放題は人間の隠れた本性を露わにする実験場。
人生経験を積んで心が豊かになるどころか、厚顔になっただけ。
こんな歳の取り方はしたくないものだ・・・。



オヤジの品格

某ラーメン屋にトラックが止まる。
ぞろぞろと働くオヤジ達が入ってくる。
また、車が止まる。
そろぞろと働くオヤジが達が入ってくる。
席に座ると第一声は「ビール頂戴!」だ。
僕は、「えっ?」と思いながらオヤジ達を見る。
すると全員で乾杯している・・・。
「運転の方にはお酒は出せません!」などと野暮なことは言わないのが田舎のルールだ。
それは、他の店でも同じだ。
連日同じことが繰り返されている。
「仕事中に酒を飲んでいいのか!」などと野暮なことは僕も言うつもりはない。まあ、それぞれの価値観の違いだ。
しかし、その後間違いなく車を運転するオヤジには言いたい。
「お前はアホか?」と。
たった一杯の酒を我慢できないオヤジ達。
飲酒運転が習慣となってしまっている。
飲酒運転でも何も起こらなかった運のいい人たち。
これから先も大丈夫だと勝手に思いこむ。
近頃の若者の心が分からない?
僕はオヤジ達の心が分からない・・・。



願い事はするな

さて年の瀬です。
クリスマスに大晦日にお正月!
神様仏様にとっても忙しい時期になりました。
このような時期は気持ちを切り替えるために、
馬鹿騒ぎなどせずに自分と向き合う「境界の時間」を持ちましょう。
1年の自分を振り返り、心の中を掃除するのです。
ガラクタが沢山出てきたら捨ててしまいましょう。
それらはあなたを不自由にする足かせです。
良いものが出てきたら、大事に育てましょう。
それは未来に役に立つかも知れません。

神様や仏様に向き合うときは、
無事で過ごせたことに感謝しましょう。
自分勝手な願い事はだれも聞いてはくれません。
「ありがとう」という感謝の気持ちを持って、日々を過ごしましょう。
すると傲慢さは消えて無くなるかも知れません。
今生きていることに幸せを感じる為の魔法の言葉は、
「ありがとう」
この言葉が、世界を変えるキーワードかもしれません。



年末年始の言葉

年末に思うこと
来年に期待することなかれ
そして未来に期待することなかれ

年始に思うこと
去年に後悔することなかれ
そして過去に後悔することなかれ


大声で騒ぎ立てるほど
人生は良くも悪くもない
そして人生は長くも短くもない

過去にも未来にも
誰も存在しない
ただ今を噛みしめて生きるのみ

起きて半畳 寝て一畳
起きて半畳
寝て一畳
天下とっても
二合半

見栄を捨てて
生きる本質を
見つめれば
不景気など
何処かへ消え去る

現実にはない
マイナス計算の生活に
おさらばすれば
不安は消え去る

幸せという言葉から
傲慢さをそぎ取れば
不幸など
何処か空の彼方へ

ああなりたくも
こうなりたくもない
死する日まで
人間でいよう



成人式を考える?

駅前に行くと何やら警官が多い。
ん?と思っていたら成人式だった。

髪の真ん中から左右茶髪と黒髪のツートンや、
金髪でモヒカンのような髪型の若者がゾロゾロ・・・。
それに紋付き袴という素晴らしいファッションが良い感じだ。
片手には缶ビールを持って、タバコをふかし、
道路の真ん中を我が物顔で闊歩している姿は、実に頼もしい。
彼れは二十歳という無敵の勲章のお陰で、今日は主役だ。

毎年のように「荒れる成人式」というニュースは、
きっと今日も風物詩のように夕方には流れるだろう。
そして、何処かのコメンテーターがおきまりのように、
「成人する自覚が足りない」などと、
素晴らしい含蓄のあるお言葉を述べるであろう。

日本の将来が心配だ!という方もいるだろうが、
まあ、どこもそんなものだろうと察する。

現代人は今を生きるこだけでも大変なのに、
やれ、50年後だ!100年後だ!と、
責任を負わされるので更に大変だ。
乱暴な言い方をすれば、人間は状況による存在だ。
何も、地球の未来のためだけに生きているわけではない。
それぞれが自分の人生をまっとうするために生きている。

最近は、孫だの、子孫だの、将来だのと、いう話題ばかり、
他国に何百億も支援するのに、
今日、飢え死にする国民を助けることも出来ない。

誰かが、「自分が死ねば世界も滅びる」と言った。
個人にとっては、100年後というリアリティは存在しない。
そして、未来という言葉にもリアリティは無いだろう。
そして、成人式で荒れる若者にも、
人生というリアリティが欠如しているのかも知れない。
成人になる年齢を引き上げようという案もあるが、
これには爆笑した。
年月が成人の自覚を育てるのではないだろう。
この世は成人するに値しない若者と、
成人に値しない大人で構成されている。
その、代表が僕である(笑)

こんな若者は変だ!と大人が思うと同時に、
こんな大人は変だ!と若者も思っているに違いない。

日本の将来は、どうなる?
日本の将来は、それ自体で解決されるだろう。
だから、期待も絶望もする必要がない。



21世紀の神々降臨?

21世紀、新たな宗教が誕生した。
それは地球温暖化という神々である。
この宗教は世界レベルで国家予算を費やして
養護される世界宗教であり、
信者は他のどの宗教よりも多く、
絶大な力であらゆる人々を虜にしてしまう。

二酸化炭素という悪魔を退治するため、
全世界あげてのプロジェクトチームが発足しているが、
誰も二酸化炭素が悪事を起こしている現場を見たことがない。

最近になって、二酸化炭素悪魔説に異を唱える人々が登場したが、
どちらも何も証明することは出来ないまま、
可能性の議論だけが宙に浮いたままだ。

この地球温暖化という神は、
今日は少し暖かいというレベルの日常会話にも登場する。
「やっぱり温暖化なんだね~」とか。何でもかんでも温暖化?

何も完全に検証されていないのに、
すでにこの神はイデオロギーの領域までも、
手中に収めようとしている。
排出量取引って新しいスイーツ?

地球温暖化は、全てのものを正当化する印籠のような存在になりつつある。
しかし、そんなことはどうでもいい。
詩人が検証出来るようなレベルでもないしね。

ただ、問題なのは、温暖化と二酸化炭素の関係も、
その他の要因との関係もまだ、解明されていない状況で、
そのことを大多数の人が信じ込んでしまう危うさだ。

簡単にコントロールさてしまうことへの不安がある。
例えばこれが、二酸化炭素ではなく、
何処かの国だとしたら?
正義の旗の下に戦争を起こすことは容易であろうと察する。

地球温暖化はエコという布教活動によって曖昧さを増す。
石油資源の枯渇も森林破壊も何でもかんでもごった煮で、
何が必要で、何処までが商売のネタなのかは霧の中である。

地球温暖化の原因を究明するのはいいが、
温暖化そのものも疑問視されている。結局は全部仮定の話?
宝くじが当たったらどうする?的なものかな?

僕は、反対意見も、賛成意見も、鵜呑みにしない。
仮の話で、旨い酒を無駄にしたくないのだ。

今日の夕飯は魚がいいか?肉がいいか?
今日も脳天気に僕はスーパーへ買い物に行く。



百害あって一利なし?

最近はタバコを吸う人が少ない。
売り手側のCMも、マナーを強調しながら、
片方ではその元凶を販売しているのが面白い。

マナー違反の代表者が喫煙者のような感じさえある。
考えてみればマナー違反など何処に出もある。
煙について考えてみても、排気ガスやら、畑の野焼きなど。
様々な煙の害がある。
車に乗らない人は、タバコを吸わない人と同じ立場なのに、
あんまし文句を聞いたことがない。
野焼きの煙で外が息も出来ないほど煙っていて、
オマケにその匂いが服に染み付いてしまっても文句は言わない。
携帯電話、信号無視、分別しないゴミ捨て・・・きりがない。
他人の迷惑になる行為で世界は溢れている。
何故タバコだけが、これほど文句を言われるのだろう。

僕は毎日二箱のタバコを消費する。
つまり、毎月2万円程度が灰になるわけだ。
タバコは、百害あって一利なしと言うが、
害とはなんだろう?
ニコチン、カフェイン、アルコール、携帯、ゲーム全て中毒。
利とはなんだろう?
利とは個人的な思いこみである。

なので、僕はタバコを吸い続ける。
マナーとはなにかを考えながら吸い続ける。



歩くウイスキー野郎?

計算上では、
僕は1年間で約126リットルのウイスキーを飲んでいるらしい。
それを15年間続けている。
風邪で死にそうな日は除いても360日は、
酒を飲んでいるだろう。
風邪薬とウイスキーを飲んで、
心臓が止まりかけたことが何度もあった・・・(笑)
しかし、アル中でもないし体調は至って健康だ。
手も震えないし、昼には飲まない。
ここまで来ると、詩人なのか酒樽なのか判別が難しい。
体型は確かに酒樽に近くなってきている。
126リットルの酒の行方は何処か?
ウイスキーが詩を生み出し文字になる。
なるほど、良いウイスキーは詩人を作る。
その詩が素晴らしいかは疑問だが・・・(笑)



あなた大丈夫ですか?

ケース1
ファミレスの店員
「喫煙と禁煙はどちらになさいますか?」
「じゃあ、喫煙で」
「当店は全席禁煙ですがよろしいですか?」
「・・・。」

ケース2
蕎麦屋の店員
「ざるそばください」
「はい、ざるそばですね?」
「そうです」
「ざるそばに天ぷらはお付けしますか?」
「だから、ざるそばですよ」
「天ぷらは、いかがなさいますか?」
「・・・。」

ケース3
路上の知らない女
「あけましておめでとうございます!」
「はあ?」
「単なる挨拶です!私ニューヨーク帰りなものですから!」
「・・・。」

ケース4
レストランの店員
「お冷やはいかがですか?」
「まだあります」
3分後
「お冷やはいかがでしょうか?」
「見て分かりませんか?」
「失礼いたしました!」
「・・・。」

ケース5
喫茶店の店員
「モーニングをください。コーヒーで」
「はい。コーヒーはアイスとホットですが」
「じゃあ、アイスで」
「はい。アイスは夏からになりますが」
「・・・。」

あなた大丈夫ですか?
そう尋ねたくなる人間が急増中。
彼らを指導することは時間の無駄だ。
もう一度、生まれ直した方が早いだろう・・・。



遷都1300年の遺言

奈良は今年、遷都1300年祭で盛り上がる。
道路標識も新しく新設されたのに今日気が付いた。
とにかく近頃の奈良は工事が多い。
どこもかしこも工事の斜線規制でかなりイライラする。
しかし、祭りは良いことだけを運んでこない。
観光客は勿論増えるだろうが、
新しい道路が出来て、廃墟のような道路が増え始めている。
河を隔てて平行している道路を通るのは猫だけ。
お店は閉められ、誰も借りる者もいない。
人間の生活も全て、点から点への移動の便利さを価値とする。
道とは、便利なものであるが、それだけではない。
道はすなわち過程を含んでいる豊かさの総称である。
人間の生活や心も点から点への価値観になりつつある。
要するに、現代には旅という価値観がないのである。
あるのは、出発点と到達点だけだ。
換言すれば生まれることと、死ぬことだけが重要だ。
その過程の人生を失えば、
生まれないのと同じだし、死ねないのと同じであろう。
良い木には良い実がなり、
悪い木には悪い実がなる。
その真実は考えなくても、見れば分かる。
祭りが終わり、観光客が消え去った後、
何が祭りだったのかよく分かるだろう。
お祭り騒ぎもほどほどに、
これからここで生活する自分のことを考えた方がいい。
遷都1300年祭が、別の意味で無事に終わることを祈る。








湧き上がる積乱雲を見ながらなぜかそう感じた。
スポンサーサイト