僕にとっての「詩」

文学としての詩は、「詩」の表現手法のひとつであると僕は考えている。
文学としての詩は、僕が言う「詩」とは意味合いが違うのだ。

僕が「詩」という言葉を使うときそれは、情動が起きる前ぶれのような「瞬間」を指している。
その「瞬間」とは「森羅万象」を内包した「他」との出会いの瞬間のことである。
自分がそれらと出会うとき何も感じない場合もあるが情動が起きる場合もある。
なぜ、情動が起こるのか?
恐らくそこには何らかのエネルギーが生じているのではないかと考える。
その生まれたエネルギーこそが僕の言う「詩」なのだ。

もちろん、詩的なものを内包せず、情動も起きないとしても、
文学で言うような「詩のようなスタイル」でそれを書き表すのは可能だ。
しかし、僕はそれを「詩」だとは思わない。
その反面、絵画でも音楽でも舞踊にでも、日々の生活にすら「詩」を発見することは出来る。
あらゆるものに姿を変えて表される「詩」を見るとき、それば僕にとっての喜ばしい瞬間になる。

換言すればあらゆるものの出発点に「詩」があると思っている。
だが、どこをどう探しても「詩」が見つからない場合がある。
何故だろう?
賑やかに飾り立てられた「装飾品のような人生」には「詩」など不要だとも言える。
人間は地球の自然を壊しながら豊かな物質的享楽を謳歌してきた。
テレビや新聞でも「ECO」が流行している。
それと同時に人間は自分の中の「詩」を壊しながら、暮らしてきたのだ。

「詩」とは、更に換言すれば「命に至る道」であるとも言える。
「詩」を壊すことは、「心を壊す」ことと同義語である。

20世紀に誕生した様々な文明は外側からの力によって崩壊してきたが、
21世紀の我々の文明は内側から腐り果てるのではないだろうか。

自らの「詩」を凝視して、それを平和的な表現に昇華させることを、
真剣に考えなければならない時代に来ていると僕は思う。
















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むかし、詩を書き始めて故郷で少しばかり話題になった頃、
僕の所には詩の同人やら、何とか美術館の担当者らが押しかけてきて、
やれ、会員になってくれとか、詩を美術館の本に載せるから書いてくれとか言ってきたことがあった。
僕は「同人で何をするのか?」と尋ねた。
彼らは「集まって定期的に合評会をやるのです」と言っていた。
「合評会とは何でしょう?」と聞き返したら、「それぞれの詩を批評しあうのです」ということだった。
それなら、「勝手にやって下さい」と断ったのを覚えている。
美術館の担当者は最初から「何日までにお願いします」などと言っている。
僕は、「詩なんていつ書けるか分からないので、決められても書けない」と断った。

あれから18年ぐらいが経過したわけだが、最近思うことがある。
例えば詩だ。僕の知る限り日本で詩が大流行したことはない。
それどころか、出版社の担当曰く、本の中で「詩集が一番売れない商品」らしい。
外国の映画などでは「詩」がよく登場する。
誰でも好きな「詩」の一つや二つは知っているのが普通らしいのだ。
予想だが、要するに「詩」が生活者にとって非常に身近なのであろう。
日本で「詩」が庶民から遠いのはなぜだろう。
それは、「詩」が単に地味だからではなく、
「詩」を書く人間自体が「詩」を庶民から取り上げてしまっている側面もあるのではないかと考える。

そう考えると「演劇」の衰退も同じな気がする。
演劇の楽しみを庶民から取り上げたのは「演劇をする側の人間」なのかも知れない。
権威主義という言葉があるが、それは「至高の」という意味も含んではいるが、
その「独自性や特殊性」という閉鎖的な聖域を設けることでも発生するのではないだろうか?

例えば、「詩や演劇で何をやりたいのですか?」と尋ねられたら、
僕は簡潔に答えることが出来る。「それらを庶民に返すための活動だと」そう答えるだろう。

どんなものでも囲えば囲うほど、指先からこぼれ落ちてゆくものだ。
そして、僕自身も取り上げた張本人だったかも知れない。

どのような肩書きがついていようが所詮は誰もがひとりの生活者にしか過ぎない。
僕はいち庶民としてこれからもこの世界で暮らし、何かを創作する者でありたいと思う。




















去年からカルチャーで朗読講座の講師をしているのだが、
最近の大人は何とも自分に自信が持てない人が多いような気がする。
何か特殊な能力や技能がないと価値がないと思いこんでいるのかも知れない。
講座のほとんどが主婦ということもあるのかも知れないが、
皆が、自分には何の取り柄もないと感じている。

幼い頃から競争を強いられ、「偉い・立派・出世・成功・優秀」
などという訳の分からない価値観のふるいにかけられて育ったせいか、
誰もが一様に自信を喪失してしまっているのだ。
この不要なで過剰な自信の喪失は生きる気力や目的までも喪失させてしまう。
主婦として生きてきたことはそれだけで価値があるろうし、
その前にひとりの人間として生き延びてきたことにも自身を持つことが出来るだろう。
自信の喪失とは、換言すれば、可能性の喪失でもある。

しかし、受講者も半年、一年と過ぎてゆく内にかなりの変化を遂げる。
それは顔を見るだけでも分かるほどに、自信を取り戻しているのだ。
この朗読教室は朗読と書いてはいるが、ほとんど朗読の時間はない。
簡単に言えば、僕の無駄話とディスカッションで2時間が過ぎてゆくのである。
朗読する為の技術もここでは学ばないし、教えもしない。
ただ、自分と向き合う時間だけが存在するだけなのだ。

豊かさとは物質ではなく心の平安である。
同じように表現の豊かさも技術ではない。

10月からはこの朗読講座を更に進化させた「詩の学校」が開講する。
自分に向き合い、言葉で人生を開き、読むことで他と繋がる。
そこには最高も最低もない。
あるのは、自分という揺るぎのない自信と、時間を共に過ごす分かち合う心だ。














2009.09.08 詩と禅
外相を離るるを禅と為し
内乱れざるを定と為す
外若し相に着せば
内心は即ち乱る

中国禅の六祖である慧能の言葉である。
ふと、この言葉に詩と禅の一致を見いだした気がした。
僕の思う詩はこの慧能の言う禅の境地に似ている。
詩は絶対的な静粛性を内に秘めながらも常に能動的なもである。

エコだ!エコだ!と外相のことは騒ぎ立てても、
内心の乱れのことは誰も言わない。

だから、たまには黙ってただ座すのも悪くない。






自分で言うのも何だが、僕は大酒飲みである。
何の自慢にもならないのだが、
田村隆一氏がお亡くなりになったので詩壇では恐らく僕がいちばん酒仙に近いだろう。
そして無類の釣り好きである。
しかし、最近はめっきり釣りに行く機会がない。
開高さんのようにスポンサーでも付けば世界を釣り歩けるだろうにと常々思うのだが、
不景気で疲弊気味の企業の懐具合ではそれは難しいだろうな。

詩と酒と釣りには共通点がある。
しかし、それを説明しようとすると、言葉が雲散霧消してしまうのは何故だろう?
禅とは何か?と考えると同じようにその本質的な部分は隠れてしまうのは何故か?
その説明できない三角形は、その結実と共にやがて円になる。
そして最後には点になって消え失せてしまう。
その瞬間が至福の時なのであろう。

ま、説明にもなっていないし、深読みしても分かりようのないお話なので、ここでお開きだ。